初めての氷
発車を告げる汽笛の音に続いてドアが閉まる。
そして徐々にスピードを上げて動き始めた地下鉄の列車は、次の目的地へと向けて暗闇の中を走り出した。
人々のごった返す夜とは違い、平日の夕方は、まだ列車内にいる人の数も多くはなく、またどの車両も空席が目立っていた。
そして乗客のほとんどが携帯の画面を睨んでいるという、さながら殺風景な雰囲気である。
誰もがある一点だけを見つめている姿は、携帯をそこから消せばまるで、希望を失った世界のようだった。
彼らはある意味恵まれ過ぎたのかもしれない。
しかし、そんな中で胸を踊らせている少女がいた。
その少女は決して恵まれた体型ではない。身長もつり革を少し見上げるくらい、そして胸の発育も中途半端といった感じである。しかし開けられている窓から入った風が彼女のセミロングに揃えた黒髪をなびかせており、それはある意味で幻想的だった。また顔も整っており、ぱっちりとしたまぶたは、前髪に少し隠れながらもしっかりと存在感を示している。いかにも清楚というような雰囲気の持ち主だ。
以前は雰囲気と全く同一の性格だったのだが、今ではいくぶんか明るくなり、スカートの丈はすっかり短くなり、セーターの上にボタンを止めないでブレザーを着込むという流行的なファッションに身を包んでいた。
そんな彼女の名前は本織 愛理という。制服姿で乗っていることと時間帯から学校帰りであることは予想できるが、どこからか普段の生活では見られない喜びのオーラが満ち溢れている。
実は今日が彼女の誕生日なのである。
それにあたって、高校一年生である彼女はとある事情によって昨年まで自粛していた誕生日パーティーを開くことにしたのだ。
これからの彼女の予定としては、家に帰って支度をし、友達の家に招かれ、そこで誕生日のお祝いをするというもの。
場所が愛理本人の家でないのは、自分の誕生日の準備が大変なのは変だよ!という友人達の配慮からである。
それに彼女自身、参加人数自体が4人と、それほど多くなく、家の方向もそれぞれ違うのによくここまで親密な関係になれたものである。と何かしらの運命を感じていた。
そしてまた、この偶然かつ順風満帆な運命を言い訳するように愛理は
(いいよね? お姉ちゃん。わたしがちょっといい思いしても……)
そう自分に言い聞かせた。その時に彼女の顔が少し暗くなったことも一瞬のことであった。
傷つき、震えていた少女の心は月日の流れによって修復されているのである。
ほとんどの物事は、時間が修復してくれる。例えば人の悲しみや苦しみは時間が進むにつれて記憶から忘れ去れらてしまい、次第にその事実をしる人もいなくなってしまう。
これが時間のもつ恐ろしい力だ。この世で最も強大といっても過言ではない。
しかしながら、この力は絶対に誰にも悪用されないという決まりがある。仮にタイムマシンが開発されたならばそうとは言い切れないが、逆に時間を自由に移動できるような装置を作り出せば、間違いなく宇宙の覇権を握れるのは間違いない。
もう目的の駅は間近に迫っていた。
愛理、はやく降りてしまいたい衝動を押さえつつ、頭ではこれから始まるであろう楽しいことで一杯だった。
車両を絶え間なく流れる風、地下鉄特有の暗闇、そしてアナウンスをもかき消そうとする騒音。何事も愛理を止めることはできない。
はずだったのにーー
「どうして、私は望んじゃいけないの……」
時間が止まった。
慣性の法則をまるで無視して、列車はいきなり速度0で停止した。
つり革は無重力空間のように斜めに曲がったままを維持している。
まばたきをする人も、携帯の画面をスクロールする人もいない。
「え……」
何が起きたのか全くわからない愛理。ただただ目を開らいて、周りを見渡すだけで精一杯だった。
「なにこれ……何?何があったの?意味わかんないよ」
込み上げる恐怖が彼女を襲う。
一体何が起きているのか。本能的に身の危険を感じた愛理は、息が苦しくなり、身体中から汗が出てくる。一言でいえば緊張していたのだ。
しかし彼女にできることはなにもない。扉に背中を着けて、怯えることしかできなかったのだ。
彼女がいるのは、有という形を偽った無の空間。見ている風景が全く変わらないのは、日の入らない闇の中にいるのと同じことである。そこからどことなく来る冷たさに、まるで氷の世界に閉じ込められたような錯覚を覚えた。
そして更なる恐怖が何一つ進んでいないこの場所で彼女を襲う。
「あっ、いた」
車両間にあるドアをあけて入ってきたのは、一人の男。
まず真っ先に飛び込んできたのは彼が着ていた上下黒一色の背広。それは愛理に対して真面目さというよりも冷酷さを印象付けた。
またそれを加速させるような高圧的な視線は背が高いせいもあるだろう。これで細身ならまだしも、割りと筋肉質なのでたちが悪い。
年は20くらいだろうか。それに特徴的なのは髪の色が黒ではなく、灰色であることだ。
顔立ちは日本人にも、逆に欧米人とも似つかない感じで、どこか洗練されているように顔の一つ一つのパーツだけ見ると薄いが、全体で見ると整っているようには見えた。そして肌は男性にも関わらず、白かったのだ。
そんな男は愛理を刺すような目付きで確認すると、薄気味の悪い笑いを浮かべた。そして革靴の音をたてながら、一歩ずつ彼女に近づいていく。
「近づかないでください……」
愛理は考えもせずに、まるで熱いフライパンを触って、無意識的に手を離すというような反射行動のごとく、この言葉を発していた彼女自身恐怖に襲われていたこともあるが、単純にこの男が信用できなかったのである。
「それ以上来ると警察呼びますよ」
さらに愛理は言葉を重ねる。実際繋がるかどうかは別として、目の前の男に勝てるのは警察しかいないと思ったのだろう。確かに彼女が単なる市民に助けを求めても、こんな大柄の男が相手ではとても勝ち目はないだろう。
すると男は律儀にも彼女の2メートルほど前でピタリと停止した。
警察にびびったかどうかは分からないが、しばらくの間睨み合いが続く。
この時愛理は、必死に逃げるチャンスをうかがっていた。というよりもその方法は反対方向に逃げればいいだけのことだが、なかなか勇気が出ない。
そしてそうこうしている内に男が口を開いた。
「最初に……えっとー名前は本織 愛理でいいのか?」
そう言いながら男はポケットからなにやら手帳を取り出してその中の資料を確認して、しばらく書類と愛理の顔を交互に見比べている。恐らく男が手に入れた愛理の写真と本人を照合しているのだろう。
「でもまあー空間掌握してんのに動けてる時点でほぼ確定だな」
愛理の答えを待つ間もなく男は自分なりにそう結論付けた。資料をまた手帳に挟んで内ポケットに戻すと、視線を彼女に戻した。
男の睨み付けるような目に怯えるが、気の強くない彼女でも、これだけのことに巻き込まれて黙ってはいられなかった。
「ねえ。一体何をしたの?どう見たっておかしいよ。列車も人も動かないなんて。はやく直してよ!」
愛理は今できる精一杯の気力で男に迫った。こんな馬鹿げたことははやく終わらせて欲しい。その思いで一杯だった。
しかし返ってきたのは予想もしない言葉だった。
「それは無理だ。俺はお前を回収に来たんだから」
さらりと答えたが、愛理に対するダメージは計りしれなかった。
この男は自分を拉致しようとしている。彼女はそう悟ったのである。また、それなのに妙に親近感を持たせようとしている男の口調も余計に恐怖を増大させた。
「だからさー」
男がこの台詞を言うときにはもう、愛理は走っていた。ただ無心に走り続けた。どうせ逃げたって動いていない人間は助けてくれない。頭では理解していても、わずかな望みにかけるように彼女は走る。
とりあえず列車の端まで行こう、そう思って車両のドアに手をかけたその時ーー
銃声!
愛理がいままで聞いたことのないような巨大な破裂音、そして熱気を感じた。と思ったのもつかの間、それとほとんど同時に目の前のガラスが蜂の巣状に割れた。
「きゃああ!」
弾丸に撃ち抜かれたドアの破片が、容赦なく愛理の身体を打ち、反射的に目の前を腕で覆ったまま縮こまってしまう。
凍えそうな先程の風景、比較的落ち着いていた彼女の心とはうって代わって、立ち込める硝煙の匂いと心の乱れを制御できない愛理。
「あーだからさー待ってよ」
男が持っていたのは拳銃だった。
名称はジェリコ941。イスラエルの軍用拳銃であり16発の拳銃弾を装填できる。
特徴としては重量が1kgオーバーであり、他の拳銃と比べるとわりと重いということと、整備がしやすいということだ。
イスラエルは砂漠があるので、砂の粒が拳銃をダメにする。このためによりこまめな整備が必要なのである。
男はこれで扉を撃ったのだ。
人に危害を加えたという気持ちはもちろん全くなく、半分遊んでいるようであった。
「や……やめて」
飛び散ったガラスの前でしゃがみ込んだ愛理。その顔には涙が溢れていた。
しかし男は
「お前の方こそ、やめてくれよ……わらっちまうじゃねえか。俺ってさあ、人の泣き顔とか見るとコウフンしちゃうんだねー。お前みたいに平然としわくちゃの顔を見せやがるからさー!」
そう言うと顔を押さえて笑い始めた。
愛理の方は笑われようがもう反抗する力はなかった。先程の銃声が響いているのだろう。
またガラスで守れなかった脚などが切れて血が出ている。これだけのことがあれば、一般人として生活をしていた彼女にとってはとてもつらい現実だった。
「ほんとはこのまま俺の家に持って帰りてえところだがよ、依頼されて来たもんだからそれは叶わねえな、ああ残念!まあ、依頼主の所に連れてかれても本質は変わらないと思うがなあ!」
さらに大声で笑う男。愛理に片手で物騒に持った銃を向けて近づいてくる。
そしてへたれ込んでいる彼女の姿勢に合わせるように腰を下ろした。
何人もの人を殺めてきた男の殺意と快楽の顔が愛理の目の前にあった。彼女の顔は完全にひきつっていた。
「なあー。選ばせてやるよ!安全な輸送をするために、こいつでお前の手を撃っとかなきゃなんねーんだよ。手の甲からがいいか?それとも逆か?」
こう言って男は愛理の手を取って順番に銃口を手のひら、手の甲の両側につけた。
どちらも結果は変わらないのに、わざと質問した意図は理解できないが、男の興奮度は最高潮になっていた。
「や……めて……下さい」
しかしもう抗えない彼女はこう言うしかなかった。
「バーカ!どっちも変わらねえよ!この下等種族め!ハッハハ!俺達“ユークリッド人”に楯突こうなんざ早すぎんだよ!」
そして次の瞬間にはもう、男は愛理の手のひらにむかってトリガー引いていた。瞬く間に銃弾は押し出されようとしている。
この女の悲鳴が聞きたい!苦しみに歪む顔、そしてもがき苦しむ姿を見たい……
男はそんな安易な気持ちで容赦なく引き金を引くのである。
銃声が鳴り響いたーー
いかがでしたでしょうか。
次は早速戦闘シーンになりそうです!
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