EP 15
「ルナキンで、乾杯」
冷えたジョッキの表面に浮かんだ水滴が、蛍光灯の明るい光を弾いている。
「それじゃあ、村の平和と、我らがスポンサー様の身を削った『残業』に――乾杯!」
「「「乾杯!!」」」
深夜の二十四時間営業ファミリーレストラン『ルナミスキング』ポポロ村支店。
今夜はニャングルが「村の防衛経費」という名目で店を貸し切りにしてくれたおかげで、店内は俺たちだけのプライベート空間となっていた。
ジョッキを打ち合わせ、黄金色の麦酒を喉の奥へ流し込む。
冷たさと炭酸の刺激、そしてホップの苦味が、激闘を終えてカラカラになった身体に染み渡っていく。
「ぷはぁっ……! 美味い……!」
思わず声が漏れた。
肉まんの屋台営業でコツコツと貯めた積立金は、あの『魔導誘導バズーカ』の一発で完全に消滅してしまった。口座残高は文字通りゼロだ。
だが不思議と、後悔は一ミリもなかった。むしろ、全財産を吹き飛ばした後に飲むビールが、これほどまでに美味いとは知らなかった。
テーブルの上には、ルナキン自慢のメニューが所狭しと並べられている。
熱々の鉄板に乗った『ロックバイソンのデミグラスハンバーグ』からは、濃厚な肉汁がジュージューと音を立てて溢れ出している。
山盛りの『フライド太陽芋』は、外はカリッと、中はホクホクとした甘みが絶妙で、備え付けのケチャップとマヨ・ハーブのソースをつければ無限にビールが進む。
さらに、村特産の『肉椎茸とピラダイのアヒージョ』。オリーブオイルとガーリッ君(今日は大人しい)の香りが食欲を刺激し、カリカリに焼かれた米麦草のバゲットにオイルを染み込ませて齧れば、至福の味が口いっぱいに広がる。
「んん〜っ! このハンバーグ、最高ですわぁーッ!!」
リーザは、両手にフォークとナイフを握りしめ、お子様ランチの旗が立った超特大ハンバーグプレートを猛烈な勢いで平らげていた。
芋ジャージは土埃で汚れているが、その表情はこれ以上ないほど輝いている。足元には、無事に回収された古びた賽銭箱が大事そうに置かれていた。
「おいおい寄生魚、少しは落ち着いて食えや。誰も取らへんわ」
キセルを吹かしながら呆れ顔のニャングルだが、その手元ではしっかりと魔導算盤が弾かれている。
「ま、村の被害も最小限で済んだし、バズーカの代金は経費で落としたるわ。リクトはんの鮮やかなロジスティクスには、それだけの価値があったからな」
「ありがとうございます、支店長。……でも、次はもっと安い手段を考えますよ」
俺が苦笑して答えると、隣に座っていたキャルルが、少し心配そうに俺の顔を覗き込んできた。
「リクト君、胃の痛みはもう大丈夫ですか? 無理して残業申請なんて使わせてしまって……」
有給休暇でしっかりと休養をとった彼女は、顔色もすっかり良くなり、本来の凛とした美しさを取り戻している。
ただ、そのルビー色の瞳が俺を真っ直ぐに見つめてくる距離が、以前よりも明らかに近くなっていた。
「寝れば治りますよ。総務の仕事は、いかに素早くトラブルを処理して平穏な日常に戻すか、ですから」
俺は笑って誤魔化しながら、ハンバーグを切り分けた。
(……自由って、何もしないことだと思ってたんだけどな)
口の中に広がる肉の旨味を噛み締めながら、俺はふと、そんなことを考えていた。
前世の俺は、会社というシステムに縛られ、他人のために時間を奪われ続ける人生を呪っていた。
だから異世界に来て、【就業時間】という概念を与えられた時、俺は「何もしない権利」を手に入れたのだと歓喜した。
だが、あの広場で【残業申請】のボタンを押した時、俺の意思を決定づけたのは、会社や上司の命令ではなかった。
目の前で歌う少女の居場所を守りたい。懸命に村を支える彼女たちの平穏を守りたい。
それは、俺自身が「選び取った」残業だったのだ。
誰にも強制されず、自分が大切だと思ったもののために、自分の力を使う。
その結果として、今こうして温かい飯を囲み、美味いビールを飲めている。
(……悪くない。こういう残業なら、たまにはしてやってもいいか)
そんなことを考えていると、満腹になったリーザが、ふうっと満足げな息を吐いて俺の方を向いた。
「スポンサー様」
「ん?」
「今日は、私のステージを守ってくれて……それに、私の歌を応援してくれて、本当にありがとうございました」
いつものふざけた調子ではなく、どこか真剣な、照れくさそうな声だった。
彼女の翡翠色の瞳が、真っ直ぐに俺を捕らえている。
「みかん箱でも、木製のステージでも、私が立つ場所はどこだって宇宙一のステージですわ。でも……いつか、私がこの世界で一番大きな、大ステージに立つ日が来たら」
リーザはそこで言葉を区切り、ニカッと悪戯っぽく笑った。
「その時は、スポンサー様の席は、最前列のド真ん中に用意してあげますわ!」
「おお、それは光栄だな」
「ええ! もちろん、チケット代は特別価格の金貨十枚(百万円)で優待して差し上げますわ!」
(やっぱり有料かよ!! しかもボッタクリ価格!!)
俺は心の中で激しくツッコミを入れたが、彼女の顔に浮かんだ「だからずっと、一番近くで見守っていてくださいね」という本音は、痛いほど伝わってきた。
「……せいぜい、稼いでおくよ」
俺が苦笑していると、キャルルがスッと俺の腕に触れてきた。
「あの、リクト君。少し村も落ち着きましたし、今度、ポポロ山の奥へ狩猟に行きませんか?」
「狩猟、ですか?」
「はい。美味しいお肉が取れるんです。……ふたりきりで。あ、私が渡した人参のハンカチ、ちゃんと持ってますよね? あれがあれば、山の中でリクト君がどこへ逃げ……迷っても、私がすぐ匂いで見つけ出せますから♡」
キャルルの兎耳がピコピコと弾み、瞳の奥が微かにトロンと濁った気がした。
(いや、今『逃げても』って言いかけただろ。やっぱりあのハンカチ、GPS機能付きのヤンデレアイテムだったのか……!)
俺は背筋に冷たいものを感じながらも、「前向きに、検討いたします」と営業スマイルで返すのが精一杯だった。
宴もたけなわとなり、俺は席を立って洗面所へと向かった。
冷たい水で顔を洗い、ふと鏡を見上げる。
そこに映っていたのは、徹夜明けの死んだ魚のような目をした社畜の顔ではなかった。
激痛に耐え、理不尽に立ち向かい、自らの意志で選び取った時間を生きた男の顔。
目を凝らすと、残業申請の後遺症で黒く淀んでいた目の下のクマが、昨日よりもほんのわずかに、薄らいでいるような気がした。




