第1章「定時退社と、みかん箱の歌姫」
「終電の隣に、女神が座っていた」
ガタン、ゴトン、という単調な揺れが、すり減った神経をヤスリのように削っていく。
時刻は深夜一時。終電の車内は、終点まで運ばれるだけの屍たちがまばらに座っているだけだった。
冷え切ったコンビニの肉まんを紙袋ごと握りしめながら、俺、早川陸斗はスマホの画面を虚無の目で見つめていた。
画面には、直属の部長からのメッセージが表示されている。
『早川、悪いんだけど例の就業規則改定とBCP(事業継続計画)の資料、明日の朝イチまでによろしく!』
(……出たよ、「明日の朝イチ」。今の時刻知ってるか? 明日っていうか、もう今日なんだけど)
専門商社の総務部で働く俺の日常は、常に誰かの尻拭いと理不尽な要求で構成されていた。
営業時代に培った愛想笑いとハッタリでクレームを処理し、総務に異動してからは社内の安全管理から防災訓練の段取りまで、すべてを丸投げされる日々。
胃は常にキリキリと痛み、エクセルを睨み続けた肩と首はコンクリートのように凝り固まっている。
「はぁ……人生やり直してぇ……仕事やめてぇ……」
誰に宛てるでもなく、ポツリと呟いた時だった。
「じゃあ、やり直してみる? 何が欲しい?」
不意に隣から声がした。
見ると、いつの間に乗り込んできたのか、一人の女が座っていた。
年齢は高校生から大学生くらいだろうか。妙に整った顔立ちをしているが、着ているのはダサい小豆色の芋ジャージの上下で、足元は健康サンダル。
プシュッ、と小気味良い音を立てて缶ビールを開け、彼女はぐびぐびと喉を鳴らした。
(なんでジャージ姿の女が、終電でビール飲んでるんだ? ていうかあの足元のトートバッグからはみ出てる封筒……『親展・重要』って赤字で書いてあるけど、あれ絶対カードの督促状だよな……)
完全にヤバい奴に絡まれた、と総務の危機管理センサーが警鐘を鳴らす。
だが、連日の徹夜と疲労で、俺の脳は正常な判断力を失っていた。
「何が欲しい?」という問いに対し、半ば無意識のうちに、心の底から求めているものを口走ってしまったのだ。
「福利厚生の……しっかりした職場……」
有給が取れて、残業代がちゃんと出て、家賃補助がある。そんな当たり前の環境が欲しかった。
女は缶ビールを口から離し、きょとんとした後、ニヤリと笑った。
「福利厚生? 変な願い。でもまあいいわ、こっちも今月の転生ノルマを達成しないと上がうるさいしね。せいぜい私の世界で、新しい人生を頑張りなさいな!」
その直後、女の頭上にピカピカとネオンのように光る輪っかが出現したかと思うと、俺の視界は強烈な白い光に包まれた。
* * *
「……ん、朝か?」
目を開けると、そこは満員電車の中ではなく、見渡す限りの青空と緑の草原だった。
そよ風が頬を撫で、どこかで小鳥が鳴いている。
俺はゆっくりと上体を起こし、自分の体を見下ろした。
着ているのは昨夜と同じくたびれたスーツ姿だが、何かが決定的に違う。
(……体が、軽い?)
エクセルと睨み合い続けたことで石のように固まっていた肩こりがない。重い荷物を運び続けた腰痛がない。そして何より、常にキリキリと俺を苦しめていたストレス性の胃痛が、嘘のように消え去っていた。
深呼吸をすると、肺の奥まで澄んだ空気が行き渡る。新卒の入社式の日以来、いや、それ以上に健康的な肉体になっていた。
「本当に、やり直したっていうのか……?」
戸惑いながら立ち上がり、周囲を見渡す。
ビル一つない。アスファルトもない。どこか遠くに、絵本で見るような城壁に囲まれた街のシルエットが霞んで見えた。
どうやら、あの芋ジャージの女は本当に神様か何かで、俺を異世界とやらに飛ばしてしまったらしい。
呆然としていると、頭の中で唐突に澄んだ電子音が響いた。
『ピコン』
(……なんだ? スマホの通知音?)
俺の目の前の空間に、半透明の青いウィンドウがふわりと浮かび上がった。
そのデザインを見て、俺は思わず目を疑った。
【早川 陸斗 様 ログインしました】
【現在の時刻:9:00】
【本日の業務を開始します】
【保有ユニークスキル:福利厚生】
(なんだこれ、前の会社の社内ポータルサイトの画面とそっくりじゃないか)
空中に浮かぶその画面には、見慣れたタブがいくつか並んでいた。
【社員食堂】【救急箱】【支給品】【健康診断】【住宅手当】
俺は恐る恐る、一番上にあった【社員食堂】の項目を指でタップしてみた。
『ピコン』
【本日の日替わり朝定食を支給しますか?(残り3/3回)】
迷わず【はい】を選ぶ。
すると、目の前の草むらの上に、淡い光とともに黒いプラスチックのお盆が出現した。
そこに乗っていたのは、ほかほかの白いご飯、豆腐とワカメの味噌汁、脂の乗った焼き鮭、そして少し甘めの卵焼きとほうれん草のお浸しだった。
完璧な、そして理想的な「日本の朝定食」だ。
「……いただきます」
俺は用意されていた割り箸を割り、味噌汁を一口啜った。
カツオ出汁の香りが鼻を抜け、温かい汁が五臓六腑に染み渡っていく。
(……美味い。深夜残業明けに駅前で食べる牛丼の百倍美味いぞ、これ)
焼き鮭は箸を入れるとホロリと崩れ、程よい塩気がご飯泥棒として完璧な働きを見せる。卵焼きは出汁が効いていて、噛むとジュワッと優しい甘さが広がった。
夢中で白米を掻き込んでいると、体の内側からポカポカとした熱が湧き上がってくるのを感じた。
ただ美味しいだけではない。食事を摂るごとに、残っていた僅かな疲労感すらも急速に回復していくような、不思議な滋養強壮効果があった。
あっという間に平らげ、お茶を飲み干したところで、お盆は光の粒子となってふっと消え去った。
手に握りしめていたはずの、あの冷え切ったコンビニの肉まんは、いつの間にか消えていた。
ふと、ポータル画面の隅にある表記に目が留まる。
【就業時間:9:00〜18:00】
そこをタップすると、詳細な説明文がポップアップした。
『※上記時間外に本スキルの機能(福利厚生)を利用する場合、別途「残業申請」が必要となります』
俺はその一文を三度読み返し、ようやくその意味を理解した。
つまり、俺が働かなければならないのは、朝の9時から夕方の18時まで。
終電まで残る必要はない。深夜に上司から「明日の朝イチで」と理不尽なLINEが飛んでくることもないのだ。
「自由だ……俺は、自由だあああああっ!!」
誰もいない草原に向かって、俺は思い切り叫んだ。
定時退社。風呂に入って、ビールを飲んで寝る。そんな人間として当たり前の生活が、この世界なら送れる。
俺の第二の人生は、希望に満ち溢れていた。
そう、完璧な滑り出しだった。
「きゃあああああっ!!」
遠くから、少女の悲鳴が聞こえた。
俺は空中のポータル画面の時計を見る。時刻は「9:15」を示していた。
「……まだ、就業時間内か」
ため息をつきながら、俺の足は勝手に悲鳴の方向へと動き出していた。
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