01.音
人は、初めに耳で聞いた音を忘れる。
だが逆に、死ぬ間際、最後まで残っている五感は聴覚だと言われている。
完全に意識が落ちても、耳だけは機能しているのだという。
人は最後まで、聞くことをやめない。
見えずとも、触れずとも、聞くだけで相手を思い、愛し、慈しみ、敬い、寄り添い、受け入れ、許すのだろう。
全てのものに、音がある。
人や動物に限らず、自然、無機物、有機物に関わらず音がある。
小さな音、大きな音。
リズム良く奏でられるその音一つ一つに魂がある。
楽しい音。
悲しい音。
怒っている音。
嬉しい音。
生きている音が聞こえる。
死者も例外ではなかった。
音が聞こえる。
死んでいるはずの、居ないはずの者から音が聞こえる。
その音は、不思議な程響いている。
心音。
呼吸音。
体の骨が軋む音。
足音。
瞬きの音。
どれも聞こえないはずなのに、聞こえてくる。
嫌でも耳に入ってくる。
耳を塞ぎ、自ら聞かないようにしても、まるで耳元で囁くかのように聞こえてくる。
笑い声。
すすり泣く声。
ブツブツと呪詛を吐くような恐ろしい声。
無邪気な声も。
全て聞こえてくる。
いつしか、聞こえる音も気にしなくなってきた。
そこに居るのだから、聞こえるのだから仕方ない。
聞かないでいるなんて、到底無理な話と言うなら、聞き分けて聞こえないふりをするしかない。
目が見えないのだから、音に頼るしかない少年はそう考えて今日この日まで生きてきた。
生者も死者も関係ない。
音があるのなら、そこに居るのなら、そういうものとして考えるだけ。
同級生たちの声が聞こえる。
挨拶を交わし、馬鹿な話で盛り上がっている。
後ろから走ってくる音が聞こえる。
先生の挨拶が聞こえてきた。そろそろ校門が近いのだろう。制服を正すように言う声に軽い返事が飛び交った。
その横で、重く暗い声が聞こえる。先生と同じように挨拶をしている死者が居る。
誰にも見えていない。
誰にも聞こえていない。
それでも、先生を真似るかのように『おはよう』と言っている。
一定の間隔で、何度も挨拶をしている。
(誰にも気づいて貰えないのに、よくやるよ)
それは自分も同じか、と自嘲気味に笑った。
教室にたどり着き、空いている席へと座る。
そして、周りの音を聞きながら、しばし黄昏れるのだった。
チャイムが鳴り、朝礼が始まる。
ガラガラという戸が開く音と共に聞こえる挨拶の声。先生の声に混じり、低くそして呻くような挨拶が聞こえる。
その後ろから、軽い足音も聞こえてくるようだった。
いつもと違うなと少年は意識して教卓の方に耳を傾けた。
「落花 千鶴と言います。よろしくお願いします」
ピンと張った糸を弾いた時のような声が聞こえる。
透明感があり、真っ直ぐ突き抜けるような響き。それでいて、今にも切れてしまいそうな張り詰めた美しさがあった。
先生が後ろの空いてる席へと促す。
コツリ、と足音が鳴った瞬間、先程まで先生の声に重なっていた低く唸るような声が消えた。
隣の椅子が引かれる。
椅子にスカートが擦れた音が聞こえた。
「よろしくね」
小さく聞こえた「よろしく」の声に返すことはしなかった。
だが、その声が耳から離れなかった。




