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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第91話 元婚約者ユリウス、初めて自分が“何を失ったのか”を言葉にできなくなる

 侯爵家の朝は、伯爵家の朝よりさらに静かだった。


 広い中庭へ面した回廊には、足音が吸い込まれるような厚い絨毯が敷かれている。使用人たちも声を張らない。扉の開閉さえ、どこか音を立てぬよう調えられていた。


 整っている。

 すべてが。

 それが侯爵家の美徳であり、誇りでもあった。


 だからこそ、その朝ユリウス・アルヴェーンが父に呼ばれた時、彼は最初、何か家の外向きの用件だろうとしか思わなかった。


 北方の件か。

 王城の何かか。

 それとも、婚約白紙の後処理でまだ残っている形式の話か。


 そんな程度だった。


「失礼します」


 父の執務室へ入ると、侯爵はすでに机についていた。

 窓は半分だけ開かれていて、朝の淡い光が書面の上へ差している。机上には封書が二通、そのうち一通はすでに開かれていた。


 侯爵は息子の顔を見ても、いつものような前置きをしなかった。


「座れ」


 声は低い。

 感情を荒立てているわけではない。

 だが、整えた上でなお硬い時の声だった。


 ユリウスは少しだけ眉を寄せたが、言われた通りに椅子へ腰を下ろす。


「何かあったのですか」


 侯爵はしばし答えず、机上の一通を指先で押した。


「王城からの文だ」


「王城」


「北方越境路再構成の件」


 そこで初めて、ユリウスは少しだけ姿勢を正した。

 北方越境路。最近王城で動いているという話は聞いていた。だが自分はその担当ではないし、侯爵家としても直接の差配に入っているわけではない。


 ならば、なぜ今、自分が呼ばれるのか。


「読め」


 差し出された文書を受け取り、目を通す。


 最初の数行で、何が書かれているのかは分かった。

 北方越境路の運用見直し。

 従前の仮案を破棄。

 新たに再構成草案を起こす。

 現地照合担当の抽出結果を基礎資料とする。


 そこまではまだ、ただの実務文だ。

 だが、その次の行でユリウスの目が止まった。


 照合担当アリア・ウェルグラン


 その名が、あまりに事務的に、当然のように文中へ置かれていた。


 アリア。

 ウェルグラン。

 照合担当。


 婚約白紙となった元婚約者の名が、感情も説明もなく、王城実務の中核の一部として書かれている。


「……これは」


 思わず声が漏れる。


 侯爵は息子の反応を静かに見ていた。


「続けて読め」


 ユリウスは文書へ目を戻した。


 現地滞在継続を要す。

 第一草案成形まで照合参加を必要とする。

 抽出結果なくして代替起草は困難。


 最後まで読み終えた時、胸の奥で妙な空白が広がった。


 意味は分かる。

 文も読める。

 だが、理解がそれに追いつかない。


「……アリアが?」


 ようやくそれだけ言う。


「そう書いてある」


「北方越境路の再構成案に、必要不可欠だと?」


「そう書いてある」


 侯爵の返答は平坦だった。

 だからこそ、その事実だけが重く響く。


 ユリウスはもう一度文書を見た。

 必要不可欠。

 第一草案成形まで継続を要す。

 照合担当。


 そこに書かれているのは、自分の知っているアリアではない気がした。

 いや、正確には違う。

 自分が“知っていたつもりだった”アリアと、あまりにも違いすぎた。


 静かな娘だった。

 控えめで、目立ちたがらず、書庫にいる時間が長かった。

 婚約者として隣へ立たせても、余計なことを言わず、家の空気を乱さない。

 そういうふうに見ていた。


 見ていた、のだ。


「なぜ、誰も」


 そこまで言いかけて、言葉が止まる。


 誰も教えなかった。

 そう言おうとしたのだ。

 だが、口にする前からそれがひどく浅い言い訳に思えた。


 侯爵は容赦なく言った。


「教えられなければ分からぬ程度にしか、見ていなかっただけだろう」


 その一言が、まっすぐ胸へ刺さる。


 ユリウスは言い返せなかった。


 たしかにそうだ。

 アリアが書を読み、細い注記を見て、違和を拾うのは知っていた。

 だがそれを“婚約者としては静かな長所”くらいにしか捉えていなかった。

 外へ出れば、それがどこまで届くものか。

 王城がどれほど必要とするものか。

 そんなことは、一度も本気で考えなかった。


「……父上は、ご存じだったのですか」


 やっとのことでそう問うと、侯爵はわずかに眉を動かした。


「ここまでとは思っていなかった」


 その返答は正直だった。

 だからこそ余計に重い。


「だが、読解と整理の才があることは、前から聞いていた」


「聞いていた?」


「お前の側近からも。王城の記録係からも。伯爵家の古書庫で、あれがかなり深いところまで見ていると」


 ユリウスはそこで、さらに言葉を失う。


 側近。

 記録係。

 つまり周囲には、もう少し見えていた人間がいたのだ。

 見ようと思えば、自分にも見えたかもしれない。


「なぜ、何も」


「言えばお前が見ると思ったか?」


 侯爵の声は低かったが、怒鳴ってはいない。

 それがかえって逃げ場をなくす。


 ユリウスは視線を落とした。


 見たか。

 見なかった。

 いや、見ようとしなかった。


 婚約者として不足がないか。

 家格に合うか。

 静かでいるか。

 そういうことばかり見ていた。

 つまり、自分にとって都合の良い形の中にアリアを置いたまま、その外側を見なかったのだ。


 侯爵は机の上でもう一通の紙を指した。


「交通管理局の別紙だ。読むか」


 ユリウスは無言で受け取った。


 こちらはさらに直接的だった。


 現地照合担当アリア・ウェルグランの抽出結果なくして、現行仮再構成案の代替起草は困難である。


 困難。

 その言葉は、必要不可欠よりもむしろ生々しく感じた。


 王城がいま本当に困っている。

 そして、その困りごとの中心に、アリアの名前がある。


「……そこまでなのか」


 それは、ほとんど独り言だった。


 侯爵は答えなかった。

 答える必要もないのだろう。

 文書がすでに、十分に答えていた。


 しばらく沈黙が落ちる。


 窓の外では、朝の庭師が低木の剪定をしているらしく、ときおり鋏の乾いた音がした。

 侯爵家の朝はいつも通り整っている。

 だが、ユリウスの中だけが明らかに整わなくなっていた。


「……失った、のですね」


 自分でも、何を言っているのか分からないまま漏れた言葉だった。


「何をだ」


 侯爵が問う。


 ユリウスは答えようとして、答えられなかった。


 婚約者。

 それはもちろん失った。


 だが、今胸を揺らしているのは、それだけではない。


 アリアという人間が、自分の隣にいた時、自分は彼女の何を知っていたのか。

 何を見ていたのか。

 いや、本当は、何を失ったのか。


 それをまだ、うまく言葉にできない。


「……分かりません」


 そう言うのが精いっぱいだった。


 侯爵は少しだけ息を吐いた。


「分からぬなら、少しは考えろ」


 声音は厳しい。

 だが、息子を打ちのめすためのものではなかった。

 むしろ、ようやくそこから考え始めろという種類の冷たさだった。


「婚約が白紙になったこと自体を惜しんでいるのか」


 侯爵が続ける。


「それとも、王城が必要とするような才を、自分の隣に置いていたのに見抜けなかったことを惜しんでいるのか」


 ユリウスは顔を上げられなかった。


 その二つを、まだ分けられない。

 どちらもあるのかもしれない。

 片方だけなのかもしれない。


 ただ一つだけ確かなのは、今この文書を読んだあとでは、アリアをただ“過去の婚約者”として思い出すことがもうできなくなったということだった。


 彼女はいま、王城の実務の中にいる。

 必要不可欠な照合担当として。

 新草案の基礎資料を返す人間として。

 そして自分は、そのことを、文書で知った。


 侯爵はもう一度、机上の紙を揃えた。


「この件で、こちらから余計な手を出すな」


「……はい」


「王城は今、あれを実務の核として見ている。侯爵家が軽々しく口を挟めば、愚かに見える」


 その言い方は、ユリウスの胸へさらに冷たく刺さる。


 愚かに見える。

 つまり今さら“戻ってこい”だの“話がしたい”だのと言うこと自体が、もうずれているのだ。


「それでも、お前が何か思うところがあるなら」


 侯爵はそこで少しだけ言葉を切った。


「まずは、自分が何を見てこなかったのかを考えろ」


 ユリウスは長く息を吐いた。


 何を見てこなかったのか。

 その問いは、あまりに重い。

 だが、逃げても消えないのだろう。


 アリアは静かな娘だった。

 それは嘘ではない。

 でも、その静かさの中でどれだけのものを読んでいたのか。

 どれだけのものをつないでいたのか。

 どれだけ王城の実務へ届く力を持っていたのか。


 自分は一度も、本気で見なかった。


「下がれ」


 侯爵の声に、ユリウスははっとした。


「……はい」


 立ち上がり、文書を戻し、礼をする。

 だが扉へ向かう足は、いつものように整っていなかった。


 廊下へ出た瞬間、ようやく大きく息を吐く。


 窓から差し込む朝の光は明るい。

 だが、視界の中の何もかもが少し遠く見えた。


 必要不可欠。

 第一草案成形まで継続を要す。

 照合担当アリア・ウェルグラン。


 その文字ばかりが頭の中に残る。


 そして、それらを思い浮かべるたびに、自分の中で何かが崩れていくのを感じた。


 それは恋情の痛みだけではない。

 もっと別のものだ。


 自分の隣にいたはずの人間を、どれほど浅くしか見ていなかったか。

 その事実が、自尊心のどこかを静かに砕いていく。


「……何を書けばいいんだ」


 気づけば、そう呟いていた。


 誰に、とは言わなかった。

 けれど自分でも分かっている。


 もし文を書くとして、何を書けばいいのか。

 戻ってきてほしい、では違う。

 必要だった、では遅い。

 すまなかった、だけでも足りない。


 そもそも、何を失ったのかをまだ言葉にできないのに、書けるはずがなかった。


 ユリウスはその朝、初めて本当に知った。


 婚約が白紙になったことの意味を。

 そして、失ったものの大きさを、自分はまだまともに言葉にすらできないのだということを。

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