第90話 王都で最初に慌てるのは、元婚約者ではなく父
王都の朝は、隣国館の朝とは違う音で始まる。
伯爵家ウェルグラン邸の中庭には、毎朝決まった時刻に水を打つ使用人がいる。石畳に落ちる水の音は静かだが、静かであるがゆえに、この家の朝がどれほど整えられているかをよく示していた。屋敷の扉は決まった順に開き、廊下の燭台は決まった者が下げ、書斎の火は書記が入る前には必ず起こされる。
乱れない家だった。
少なくとも、外からはそう見える。
だがその朝、ウェルグラン伯爵は、いつも通りに整った書斎へ入った瞬間、机の上の封書を見て足を止めた。
王城からの正式封。
しかも一本ではない。
二本。
赤い封蝋の押し方が違う。
ひとつは政務調整局、ひとつは交通管理局の印だ。
「……朝から何事だ」
低くそう呟いたが、返事をする者はいない。
書斎へ先回りしていた書記も、さすがにこの封の内容までは知らされていないらしく、机の端に控えたまま黙っている。
伯爵は上着の袖を整え、まず政務調整局の封から切った。
読み始めてすぐ、眉間に深い皺が寄る。
一枚目で表情が変わり、二枚目で口元が硬くなり、最後まで読んだ時には、もはや最初の“朝から面倒だ”という種類の顔ではなくなっていた。
「……おい」
書記へ向けた声が、いつもより低い。
「はい」
「これは、昨日届いていたものではないのだな」
「はい、今朝一番で王城使いより」
伯爵は文書へもう一度目を落とす。
そこに書かれていたのは、事務的でありながら、見過ごしようのない文言だった。
アリア・ウェルグランの隣国側滞在について、当面の継続を要す。
現地照合担当としての実務参加は、新たに起草される北方越境路再構成草案の基礎条件に属する。
ついては伯爵家においても、不用意な帰還命令その他、照合作業を妨げる行為なきよう配慮されたし。
“配慮されたし”。
王城の文としては穏やかだ。
だがその穏やかさの内側にあるものを、伯爵はすぐに読み取っていた。
つまりこれは、遠回しに言っているのだ。
口を出すな、と。
しかも対象は、伯爵家の長女アリア。
つい先日まで、家の内側で古文書を読ませておけばよいと思っていた娘だ。
「……まさか」
思わず漏れた声は、怒気よりも困惑に近かった。
伯爵はすぐに二本目の交通管理局の文を開いた。
こちらはさらに直接的だった。
現地照合担当アリア・ウェルグランの抽出結果なくして、現行仮再構成案の代替起草は困難である。
よって少なくとも第一草案成形までは現地継続を必要とする。
王城はこれを一時的便宜ではなく、現時点における実務上不可欠の措置と認める。
不可欠。
その一語が、伯爵の胸へ重く落ちる。
書斎は静かだった。
窓の外では、水を打ち終えた使用人が道具を片付けている。
家の朝は何も変わっていない。
だが、伯爵の中だけが明らかに変わり始めていた。
アリアが必要不可欠。
王城にとって。
現時点で。
それは、簡単に飲み込める事実ではなかった。
「旦那様……?」
書記が恐る恐る声をかける。
伯爵は返事をしなかった。
代わりに、文書を机へ置き、両手をその端へついた。
必要不可欠。
あの娘が。
幼い頃から、字を読むのは早かった。
草案や控えの細い差異にもよく気づいた。
だがそれは、あくまで家の中で役立つ才だと思っていた。
記録整理。
文の見比べ。
父である自分が必要な時だけ呼び、家の中で静かに使えばよいと。
婚約が決まった時でさえ、伯爵はその認識を大きく変えなかった。
侯爵家へ入るなら、余計な前へ出方はしない方がいい。
静かな妻として、家格に合う振る舞いを覚えればよい。
そう考えていた。
だが今、王城は書いてきている。
帰還命令その他、照合作業を妨げる行為なきよう配慮されたし、と。
つまり伯爵家の意向より、王城の実務の方が上へ来ている。
いや、それだけではない。
伯爵家が不用意に動けば、王城の仕事を止める側へ回るとまで言っているのだ。
「……どこまで行った」
誰へともなく漏れる。
そしてそれは、アリアの滞在先だけを問う言葉ではなかった。
あの娘が、いったいどこまで行ってしまったのか。
自分の認識の外で、どれほどの位置へ立ってしまったのか。
そこへ、扉の向こうから柔らかな声がした。
「入ってもよろしいですか」
伯爵夫人だった。
「……入れ」
夫人は静かに書斎へ入ってくる。
朝の支度を終えたばかりで、まだ髪はきっちりと結い上げられたままだ。
彼女は夫の机の上の封書を見て、すぐに事情を察したらしい。
「王城からですのね」
「ああ」
「アリアのこと」
伯爵は言葉を濁さなかった。
「……あれが、王城にとって必要不可欠だそうだ」
少し皮肉の混じった響きになった。
だが夫人はそこに反応しない。
ただ机へ近づき、置かれた文面を静かに読んだ。
読み終えたあと、彼女はほんの少しだけ目を伏せた。
「ようやく、外が追いついたのですね」
その一言に、伯爵の眉がぴくりと動く。
「追いついた、だと?」
「はい」
夫人は夫を見た。
その視線は責めるものではなかったが、やわらかくも甘くもなかった。
「あの子ができることに、です」
伯爵はすぐには返せなかった。
追いついた。
外が。
つまり今まで追いついていなかったのは、外だけではないと言われているのと同じだった。
「お前は、前からそう思っていたのか」
夫人は少しだけ考えてから答える。
「前から、あの子はただ家の中で使うにはもったいないと思っていました」
「なぜ言わなかった」
思わず強い声が出た。
だが夫人は表情を変えない。
「言いました」
静かな返答。
「何度か。ですが、あなたは“伯爵家の娘として余計に目立たぬ方がよい”と仰った」
伯爵は言葉を失う。
たしかに、そう言った覚えがある。
言ったどころか、それが父として穏当で、現実的で、家にとって一番よい判断だとさえ思っていた。
夫人はさらに続ける。
「私も、あの子を無理に前へ出したかったわけではありません」
「……」
「ただ、あの子は家の中で静かに置いておくには、読むものが大きすぎたのです」
読むものが大きすぎた。
その言い方は、ひどく鮮やかだった。
伯爵は思わず、アリアが幼い頃、分厚い帳簿の束を机へ並べていた姿を思い出した。
紙に埋もれているように見えた。
だが、本当は違ったのかもしれない。
あの娘は紙に埋もれていたのではなく、そこから外へ伸びる筋を読んでいたのかもしれない。
「……今さらだな」
伯爵の声は、先ほどよりも低く、やや掠れていた。
夫人は否定しない。
「ええ」
「今さら、か」
「はい」
その短い応答が、妙に胸へ刺さる。
今さら。
その言葉は、ユリウスだけに向かうものではなかったのだ。
父である自分にも、そのまま返ってくる。
夫人は文書の一番下を指で軽く押さえた。
「でも、今さらでも、王城はこうして書いてきたのですね」
伯爵もそこを見た。
“帰還命令その他、照合作業を妨げる行為なきよう配慮されたし”。
「つまり、あの子は今、戻ってこいと簡単に言える位置にはいないのです」
その言葉は事実だった。
父としての感情や、家としての都合とは別に、もうアリアは王城の実務の中へ入っている。
伯爵は深く息を吐いた。
「書記」
「は、はい」
「この件について、家中にはまだ何も漏らすな」
「承知いたしました」
「それと……」
伯爵は一瞬だけ迷う。
迷ってから、ようやく言った。
「王城へは、伯爵家として協力を妨げぬ旨を返せ」
その一言を口にした瞬間、胸のどこかが重く沈んだ。
だが同時に、そうする以外にないとも分かっていた。
いまここで家の都合を優先してアリアを引き戻そうとすれば、伯爵家は王城の実務を止めた家になる。
それは体面にも響く。
だが、それだけではなかった。
それをすれば、父である自分が、あの娘の価値に最後まで追いつかなかったことを、自分の手で決定づけることになる。
「かしこまりました」
書記が下がると、書斎には再び夫婦だけが残った。
夫人は少しだけ机から離れたが、まだ出ていこうとはしなかった。
「……あの子に、何か書きますか」
その問いに、伯爵はすぐには答えられなかった。
何を書く。
健康に気をつけろ。
家の名を損なうな。
王城に迷惑をかけるな。
そういうことしか、すぐには浮かばない。
だが今、そのどれもがひどく空疎に思えた。
「まだ、いい」
ようやくそう言う。
夫人はただ静かに頷いた。
「では、私からは短く書いておきます」
「何を」
「机が広い場所へ出ましたね、と」
伯爵は思わず夫人を見た。
彼女は穏やかな顔をしていたが、その目には静かな確信があった。
机が広い場所へ出た。
その言い方は、ひどく正確に思える。
娘が変わったのではない。
机の置かれる場所が、ようやく本来の広さへ出たのだ。
「……好きにしろ」
ぶっきらぼうにそう言うのが精いっぱいだった。
夫人が出ていったあと、伯爵はしばらく一人で座っていた。
机の上には王城の文。
政務調整局、交通管理局、正式印。
どれも疑いようのない現実だ。
アリア・ウェルグラン。
必要不可欠。
現地照合担当。
第一草案成形まで継続を必要とする。
紙の上のそれらの語は、父である自分の認識よりも、ずっと早く、ずっと遠くまで進んでいた。
「……今さら、か」
もう一度、同じ言葉が漏れる。
今さらだ。
あの娘が何を読めるのかも、何をつなげるのかも、どこまで行けるのかも、父は今になってようやく、外からの文書で知る。
窓の外では、朝の水気がもう乾き始めていた。
だが伯爵の胸の内には、乾ききらない重さが残る。
最初に慌てたのは、元婚約者ではなかった。
父である自分だったのだと、その朝の伯爵ははっきり知っていた。




