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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第2話 婚約者は、私を見ていない

 古書庫に籠もっている時間だけは、屋敷の空気が別のものになる。


 食堂では、アリアは伯爵家の長女であり、魔力を持たぬ不出来な令嬢であり、侯爵令息の婚約者という立場にしがみついているだけの存在だった。けれど古い木の匂いと紙の乾いた香りに包まれると、それらは一枚ずつ薄い布を剥いでいくように遠のいていく。


 今、彼女の目の前にあるのは、北方交易路に関する古い課税規定の写しだった。


 現在使われている法文と照らし合わせると、内容そのものは難解というほどではない。だが問題は、そこに混じっている単語の揺れと、余白に書き込まれた注釈の癖にあった。


 王城の文官たちはおそらく、本文しか読んでいない。


 けれど本当に大切なのは、末尾近くに異なる筆跡で書かれた短い追記だった。


「『冬季封鎖期間に限り、北方羊毛の搬入税は通常の二分の一とする』……」


 アリアは小さく読み上げ、現行の税目一覧と見比べた。


 今の王国では、北方羊毛に対して通年同一の税率が課されている。だがこの追記が正しいなら、冬季だけは減税措置がとられていたことになる。そしてその措置が、後年の改訂で明示的に廃止された記録は、少なくとも彼女の知る限り存在しない。


 つまり、今の制度は、ずっと昔の例外規定を見落としたまま続いている可能性があった。


「そんな……」


 思わず呟き、アリアは別の棚から北方諸侯との交易協定に関する索引帳を引き抜く。重たい本の背表紙には埃がたまり、普通の令嬢なら顔をしかめるだろう。けれど彼女にはむしろ馴染んだ重みだった。


 頁をめくる指先は迷わない。


 二十年前の協定書。三十六年前の改訂案。七十年以上前の暫定付則。文面の形式は違っても、使われている語の癖には時代ごとの規則がある。語尾の硬さ、接続詞の省き方、余白の使い方。人は時代とともに文字の置き方まで変えるのだ。


 その変化を追うのが、アリアは好きだった。


 人の気まぐれな感情より、ずっと誠実だから。


 紙は、自分が書かれた通りにしかそこにいない。勝手に機嫌を変えたりしない。昨日と今日で言うことが違うこともない。注意深く読めば、ちゃんと答えを返してくれる。


 やがて、探していた一冊に行き当たった。


 北方交易協定集、第三改訂版。


 革の留め具を外し、慎重に頁を開く。現行制度の基礎になったとされる文書群だ。父はこれを「古い紙束」と呼ぶが、王国の金の流れの土台が何でできているのかを知っている者なら、そんな言い方はしない。


 アリアは該当箇所を探し当て、思わず息を止めた。


「やっぱり……」


 第三改訂版には、冬季減税条項そのものが記されていない。


 だが記されていないのではなく、意図的に省略された跡がある。前の頁からの流れが不自然で、条項番号が一つ飛んでいた。しかも余白には、別の文官が後年に書いたらしい短い書き込みがある。


 ――旧例維持、本文記載省略。


 たったそれだけ。


 だがそれで十分だった。


 本文から消えても、慣習として生き続ける規定はある。だが慣習は、人が忘れれば消える。誰かが「もう使われていない」と思い込めば、それで終わる。そうして細い糸のように残っていた決まりが、何十年も経つうちに見えなくなっていく。


 アリアはペンを走らせた。


 写本の綴り違い。追記の年代推定。省略条項の存在。現行税率との矛盾。暫定付則の読み直しの必要性。これらを整理し、誰が読んでも分かるように要点をまとめていく。


 こういう時だけは、胸の奥が静かに熱を持つ。


 役に立つ、という感覚に近いのかもしれない。


 ただしそれは、家族に褒められるためではない。誰かに認められたいからでもない。文字が正しい位置に戻る、その瞬間が嬉しいのだ。ばらばらになっていた破片が噛み合い、一つの意味になる。あの感覚だけは何にも代えがたい。


 昼近くになって、ローベルトが紅茶を持ってきた。


「少しはお休みください、お嬢様」


「ありがとう。でも、もう少しだけ」


「ずいぶん熱心に見ておられますな」


「見落とされている条項がありそうなの。もしこれが生きているなら、北方商人たちが異議を唱えてもおかしくないわ」


 ローベルトは難しい顔をした。


「それは王城にとって厄介なことですかな」


「ええ。けれど、もっと厄介なのは、間違いに気づかないまま誰かの損を当たり前にしていることよ」


 その言葉に、ローベルトは少しだけ目を細めた。


「お嬢様は、やはりお優しい」


「優しくなんてないわ。ただ、書いてあることを、書いてある通りに読みたいだけ」


「それを、優しいと言うのです」


 アリアは小さく首を振った。


 そんな立派なものではない。自分はただ、人より少し文字が読めるだけの、地味な娘だ。それ以上でもそれ以下でもない――そう思い込んできた。今さら別の言葉をあてがわれても、うまく馴染まない。


 けれどローベルトは、彼女の前に茶器を置くと、そのまま立ち去らなかった。


「旦那様から伝言がございます」


「お父様から?」


「はい。本日の午後、カイル様がお嬢様と庭園を歩かれるそうで」


 ペン先がぴたりと止まった。


「……私と?」


「そのように」


 珍しい、と思った。


 婚約者である以上、二人きりで話す機会がないわけではない。けれどそれは多くの場合、夜会の前の形式的な確認や、家同士の顔合わせに伴う短い会話に限られていた。わざわざ庭園を歩く、などということは、少なくともここ一年はなかったように思う。


 アリアは胸の奥に小さな違和感を覚えた。


 期待ではない。もちろん不安だけでもない。


 ただ、何かを言い渡される時の、嫌な静けさに似ていた。


「そう。分かったわ。では、この文書だけ先にまとめてしまう」


「ご無理なさらぬよう」


 ローベルトが去ったあと、アリアはもう一度報告書へ視線を落とした。


 だが先ほどまでの集中は、少しだけ薄れていた。


 カイルがわざわざ庭園を歩く。


 その言葉の意味を考えるほどに、胃のあたりが重くなる。


 彼はアリアに優しい言葉をかけるために、そんな時間を作る人ではない。必要なことがあるから呼ぶのだ。そして彼にとって必要なことは、たいてい彼自身の都合に基づいている。


 報告書を書き終え、最後に「旧例精査の必要あり」と追記したところで、ちょうど昼の鐘が鳴った。


 アリアはペンを置き、乾燥砂を軽く振る。


 書いた文字は端正だった。自分で見ても無駄がないと思う。必要な情報を削らず、余計な感情を挟まず、短くまとめた。それでも父はおそらく半分も理解しないだろうし、執事を通じて王城へ渡されたあと、どこの誰の手柄になるかも分からない。


 それでも、書くしかない。


 もし自分が書かなければ、間違ったまま進む。そう思うから。


 それは誇りというには小さすぎる感情で、義務というには個人的すぎる執着だった。


 昼食は部屋へ運ばせ、アリアは軽く済ませた。


 午後に入るころ、侍女のマリーが薔薇色のリボンを持ってやって来た。


「旦那様が、せめて少しは華やかに、と」


 言われなくても、その意図は分かった。


 カイルと庭園を歩くのだ。伯爵家として恥ずかしくないように、少しでも令嬢らしい見た目に整えろということだろう。


「これをつければいいの?」


「……はい。ですが、お嬢様には元のお色のほうがよくお似合いだと、私は思います」


 小さな声で言った侍女に、アリアはわずかに目を瞬いた。


「ありがとう、マリー」


 礼を言って、結局リボンはつけなかった。代わりに淡い灰青色の外出用ドレスに着替え、日差し避けの薄いショールだけを羽織る。


 庭園へ向かう途中、廊下の角でセレナに出会った。


 妹は春の花のような黄色のドレスをまとい、午後の日差しのなかで本当に眩しく見えた。彼女の周囲だけ明るさの質が違うようで、思わず見惚れるほどだった。


「お姉様、今からカイル様とお散歩?」


「ええ、そのようね」


「素敵。いいなあ。カイル様、お忙しい方だから、こうして二人でお話しできるなんて大事な時間だわ」


 無邪気な声だった。


 けれどその目の奥に、ほんの一瞬だけ奇妙な揺れが差した気がした。


 アリアは見逃しかけ、けれど見逃せなかった。何かを知っている目だった。秘密を抱えた子どもが、言いたくてたまらないのを隠しているような。


「そうね」


 それだけ返すと、セレナはすぐにいつもの笑顔へ戻った。


「お姉様、今日は少しだけ柔らかいお顔をなさるといいわ。あまり難しい本ばかり読んでいると、眉間にしわが寄ってしまうもの」


「気をつけるわ」


「それと……」


 セレナは何か言いかけ、結局やめて首を振った。


「ううん。なんでもないの。行ってらっしゃい、お姉様」


 庭園は春の初めの匂いに満ちていた。


 まだ咲ききらない薔薇の蕾、若い葉の青さ、手入れされた土の湿り気。噴水の音が遠くで柔らかく響き、陽光は白い石畳に反射してまぶしい。こうして見ると、美しい屋敷だと思う。外から見れば、この伯爵家に不満などひとつもないように見えるだろう。


 カイルは中央の散策路で待っていた。


 濃紺の上着に銀糸の刺繍。手袋を片手に持ち、背筋をまっすぐ伸ばして立つ姿は絵になる。若い令嬢たちが憧れるのも無理はない。


「お待たせしました、カイル様」


「いや、私も今来たところだ」


 形式通りの挨拶を交わし、二人は歩き出した。


 しばらくのあいだ、会話はなかった。


 小鳥の声と噴水の音だけが、妙に耳につく。


 婚約者と二人きりだというのに、何を話せばいいのか分からない。正確に言えば、何を話しても彼の興味を引かないと知っているから、最初から言葉を探す気になれないのだ。


 先に口を開いたのはカイルだった。


「父上から聞いた。今日も王城の文書を見ていたそうだな」


「はい。北方交易路に関する旧規定の写しでした」


「そういうことは相変わらず得意らしい」


 褒めているのではない。


 それはすぐに分かった。彼の声には、便利な道具の使い勝手を確認するような温度しかない。


「お役に立てたなら良かったです」


「役に立つ、か」


 彼は歩調を落とし、庭園の中央にある白い石像の前で立ち止まった。


 女神像の足元には、小さな花壇がある。春の花々が植えられていたが、まだ満開ではなく、色の少ない景色がかえって寒々しく見えた。


 カイルは像を見たまま言った。


「アリア、君は誤解している」


「誤解、ですか」


「私が言いたいのは、そういう細かな文書処理が悪いということではない。だが、君はそれにばかり向きすぎている」


 アリアは黙って次の言葉を待つ。


「私の婚約者として必要なのは、別の資質だ」


 やはり、と思った。


 ああ、やっぱり今日はそういう話なのだ、と。


 期待していたわけではない。それでも胸の内側が少しずつ冷えていくのを、止めることはできなかった。


「たとえば、でしょうか」


「華やかさだ。社交の場で人を惹きつける華。あるいは気の利いた会話。場を明るくする愛嬌。君にはそれが決定的に足りない」


 言葉は整っていた。


 怒鳴るわけでもなく、嘲るわけでもない。けれどその分だけ容赦がない。彼は本気でそう思っているのだ。君のためを思って言っている、とでも言いたげな、正しさの顔をして。


「申し訳ありません」


 口をついて出たのは、いつもの謝罪だった。


 だがカイルは、その返答にむしろ苛立ったように眉をひそめた。


「すぐ謝るのも良くない。そういうところだ。君は何を言われても受け入れるばかりで、自分から何かを変えようとしない」


 アリアは一瞬だけ、奇妙な気持ちになった。


 変えようとしない?


 では、自分は何をどう変えればよかったのだろう。


 明るく笑えばよかったのか。華やかなドレスを欲しがればよかったのか。魔力のない身で、どうやって妹のように輝けばよかったのか。


 答えのない問いが胸の奥に落ちていく。


「君には、もっと婚約者としての自覚を持ってほしい」


「婚約者としての……」


「そうだ。君は優秀なのかもしれないが、それは侯爵家の妻として求める優秀さではない」


 そこで彼は、ようやく真正面からアリアを見た。


 その視線の冷たさに、彼女は指先を少しだけ握りしめた。


「文書が読めることや、古い記録に詳しいことに価値がないとは言わない。だが、それはあくまで補助的な能力だ。君自身の魅力にはならない」


 補助的。


 魅力にはならない。


 その言葉だけが、妙に鮮明に響いた。


 アリアは、なぜだかすぐには返事ができなかった。


 怒りが湧いたわけではない。泣きたくなったわけでもない。ただ、これまで曖昧だったものが一つの形をとって目の前に置かれたような感覚があった。


 この人は、私を見ていない。


 できないことを見ているのでもない。足りないところを指摘しているのでもない。そもそも見ようとしていない。自分の隣に置くべき婚約者の型が先にあって、そこに合わないから価値がないと言っているだけだ。


 アリアの喉の奥で、何かがひどく静かにひび割れた。


「……そうなのですね」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


 カイルはその穏やかさに気づかず、話を続ける。


「君も伯爵令嬢なら、その程度のことは理解すべきだ。書庫に籠もるばかりではなく、もっと外へ目を向けろ。セレナを見ていれば分かるだろう」


 やはり妹の名が出る。


 当然のように。比較することに、ためらいもなく。


 アリアは視線を少し下げ、石畳の上に落ちた木漏れ日を見た。細かな光の揺れが、風に合わせて形を変えている。


「セレナはよくお出来になります」


「ああ。明るく、愛らしく、周囲への気遣いもある。ああいう女性は自然と人に好かれる。君も少しは見習うべきだろう」


「……ええ」


 それ以上、言葉はなかった。


 カイルはきっと、これを建設的な会話だと思っている。婚約者を正しい方向へ導く助言だと。本気で。


 だからこそ残酷だった。


 悪意を持って傷つける人より、自分が正しいと信じて疑わない人のほうが、深く刺すことがある。彼はまさにそういう人だった。


 短い沈黙のあと、カイルは話題を変えるように言った。


「今度の春の夜会だが、君はなるべく控えめにしてほしい」


「控えめに、ですか」


「先日のように、使節の前で急に口を出されると困る。たまたま間違っていなかったから良かったものの、君が目立つのは得策ではない」


 たまたま。


 その言葉に、アリアは初めてほんの少しだけ目を上げた。


 先日の夜会で、外国使節が持ち込んだ記章の文言を正した時のことだ。あれは偶然ではない。古い綴りの変化と、南方語の借用句の混ざり方を知っていれば分かることだった。


 けれどカイルにとっては、たまたま当たった余計な口出しに過ぎないのだ。


 ここまで来ると、むしろ清々しいほど何も通じていない。


「分かりました、カイル様」


「理解が早くて助かる」


 彼は満足したように頷いた。


 その瞬間、アリアの中で、これまで曖昧に受け入れていたものの輪郭が急にはっきりした。


 この婚約は、少なくとも彼にとって、私という人間との約束ではない。


 侯爵家にふさわしい飾りをどこに置くかという話なのだ。


 彼女はそれを、初めて言葉として理解した。


 傷ついたというよりも、冷えた。


 ずっと薄い霧の向こうにあった景色が、風に吹き払われて急に見えたような、そんな冷たさだった。


「では、私はこれで」


 アリアは静かに礼をした。


 カイルは少し驚いたように眉を上げる。


「もう戻るのか」


「報告書をまとめ終えたばかりですので、書庫へ戻って確認したいものがございます」


「相変わらずだな」


 呆れ半分の声だった。


 だがアリアはもう、その呆れが自分の価値を決めるもののようには思えなかった。


「申し訳ありません」


 そう言って一礼し、彼の返事を待たずに踵を返す。


 背中に視線を感じたが、振り向かなかった。


 庭園を出るころ、春風が頬を撫でた。


 少しだけ冷たい。


 けれどその冷たさは、先ほどまで胸に溜まっていたものより、よほど心地よく思えた。


 廊下へ戻ると、窓辺に立つセレナの姿が見えた。妹は中庭の方を見ていたが、アリアに気づくとぱっと明るい顔をした。


「お姉様、お散歩はもう終わり?」


「ええ」


「そう。……どうだった?」


 何気ない問いに見えて、その実、何かを確かめている響きがあった。


 アリアは数歩だけ立ち止まり、妹を見た。


「カイル様は、とても正直な方だと思ったわ」


 それだけ言うと、セレナは一瞬だけ表情を曇らせた。


 罪悪感か、戸惑いか、それとも別の感情か。まだ見分けはつかない。


 だが少なくとも、彼女も何かを知っている。


 その確信だけが、アリアの中に残った。


「お姉様……」


「書庫へ戻るわ。お父様に渡す前に、もう一度だけ文書を見直したいの」


 妹はそれ以上何も言わなかった。


 アリアはそのまま古書庫へ戻り、扉を閉める。


 静寂が迎えてくれる。


 その場で、彼女はしばらく動かなかった。背を扉に預け、天井を見上げる。胸が苦しいわけではない。ただ、どこか遠くへ押しやられていた思考が、ゆっくりと自分の足で戻ってくるような感覚があった。


 私は何をしてきたのだろう。


 何を望まれていると思っていたのだろう。


 いや、違う。


 私は望まれてなどいなかった。ただ、都合よく「置かれて」いただけだ。


 その事実が、ようやく形になった。


 文机に歩み寄り、先ほどまとめた報告書を手に取る。自分の文字は静かに整っている。そこには感情の揺れなどなく、ただ必要な情報だけが並んでいた。


 アリアはその紙を見つめながら、ふと思う。


 もし、これを本当に必要としてくれる場所が、家の外にあるのなら。


 もし、これを「補助的な能力」ではなく、必要な力として扱う人がいるのなら。


 ――私は、どうするのだろう。


 まだ答えはない。


 けれど一つだけ、これまでとは違うことがあった。


 カイルの言葉に従って、自分を変えようとは、もうあまり思えなかった。


 彼が求めるものになれないのではない。

 なりたいとも思えなくなったのだ。


 その気づきは、怒りよりもずっと静かで、けれど後戻りのできないものだった。


 窓の外では、午後の日差しが少しずつ傾き始めている。


 アリアは椅子に座り直し、新しい紙を取り出した。


 父へ渡すための報告書とは別に、自分用の控えを作るためだった。重要な条項と注釈の位置、関連する旧協定の番号、そして見落とされた可能性のある旧例維持の記録。誰が何をどう読み違えたかが、あとで追えるようにしておく必要がある。


 なぜそこまでするのか、自分でもよく分からなかった。


 ただ一つ分かるのは、こうした記録だけは裏切らないということだ。


 人の言葉は都合で歪む。愛情は比べられる。婚約さえ飾りになる。

 けれど文字は、ちゃんと残る。


 アリアはペンを握り、ゆっくりと書き始めた。


 その頃、彼女の知らぬ場所で、伯爵家から王城へ届けられる報告書を待つ者がいた。


 ただの文官ではない。

 ただの好奇心でもない。


 誰にも読めぬ古い文字を、ここまで正確に拾い上げる者がいる。

 その事実に、すでに目を留めている者たちがいることを、彼女はまだ知らなかった。


 今はまだ、役立たず令嬢のままでいい。


 だがその呼び名が、長く続かないことだけは、世界のほうが先に知り始めていた。

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