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役立たず令嬢と呼ばれ婚約破棄されましたが、実は古文書解読で王国中枢を支える唯一の存在でした。今さら必要だと言われても遅いです、私は戻りません   作者: 御上常陸介寛浩(常陸之介寛浩)


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第1話 役立たず令嬢の朝

 朝の光は、いつもアリアの部屋にだけ控えめに差し込む。


 伯爵家の屋敷の東側。広い庭に面しているはずなのに、彼女に与えられた部屋は、古い棟の二階の端だった。窓は細く、カーテンも華やかさに欠ける生成り色で、冬の名残を引きずる薄い空気が、隙間から静かに忍び込んでくる。


 けれどアリアは、その部屋を嫌ってはいなかった。


 むしろ好きだった、と言った方が正しい。


 豪奢な調度も、鏡台を埋める香油や宝飾品もない。けれど静かだった。誰にも邪魔されず、本を開ける。文字を追うことができる。彼女にとって大切なのは、それだけで十分だった。


「お嬢様、朝でございます」


 控えめなノックのあと、年若い侍女が盆を持って入ってくる。湯気の立つ紅茶と、薄く切られたパン、それに少量の果実。侯爵家や公爵家であれば軽食にも見えない質素な朝食だが、伯爵令嬢の部屋に運ばれるものとしては、あまりに簡素だった。


「ありがとう、マリー」


「……本日は旦那様が、朝食には必ずお顔を出すようにと」


 侍女はそう言って、気まずそうに目を伏せた。


 アリアは苦くもなく、甘くもない表情で微笑んだ。


「分かっているわ。今日はカイル様も来られるのでしょう」


「はい。侯爵家の馬車が、八刻前には着くそうです」


「そう」


 それだけ答えて、アリアは寝台の脇に置いていた本へと視線を落とした。


 昨夜、眠る前まで読んでいた一冊だった。革表紙は擦り切れ、背はひび割れ、金文字もところどころ剥げている。古い交易記録を写した写本で、王国がまだ今ほど国境を安定させる前、北方諸侯と交わした租税の取り決めが記されている。


 家の誰も、この本に価値を見出さない。


 けれどアリアには分かる。この本の中には、今も生きている言葉がある。人が忘れ、棚の隅で眠っているだけで、文字は死なない。読まれる日を待っているだけだ。


「お嬢様?」


「ええ、ごめんなさい。すぐに支度をするわ」


 侍女が部屋を出ると、アリアは本の頁をそっと撫でた。


 かすれた文字列は、彼女にとって宝石よりも美しかった。


 幼い頃からそうだった。


 魔力の測定で、彼女がほとんど無属性に近い弱い値しか示さなかった日から、屋敷の中の空気は変わった。父は露骨に落胆し、母は「女の子は愛らしければそれでいいのだけれど」と言いながら、どこか諦めたように笑った。やがて生まれた妹セレナは、強い光属性を示し、しかも見目も華やかで、よく笑い、よく泣き、周囲に愛される才を生まれつき備えていた。


 比べられるまでもなかった。


 アリアは静かで、地味で、魔力がなく、社交界で話題になるような派手さもない。


 けれど、文字だけは違った。


 誰も読めない古い書付を、彼女だけは拾い上げることができた。古い綴り、今は使われない単語、文法の揺れ、他国語との混交。そういうものが彼女には、なぜだか自然に見えた。


 最初にそれに気づいたのは、屋敷の古書庫番をしていた老執事だった。


『お嬢様、これは本当に読めておいでですかな』


 震える指で羊皮紙を差し出された日のことを、アリアは今でも覚えている。


 あの日だけが、たしかに誇らしかった。


 だがその誇らしさも、長くは続かなかった。


 父にそのことを話した老執事は、翌日には「書庫の古い紙をいじるより、刺繍の一つでも覚えなさい」と言われた。母は「まあ、そういう地味なことが好きなのね」と微笑み、妹は「お姉様って本当に書庫が好きなのね」と無邪気に笑った。


 褒められたことは、一度もなかった。


 役に立つのかどうか、そう問われれば、アリア自身にも答えられなかった。少なくとも、家族はそう思っていない。それなら、役に立たないのだろうと、いつしか彼女自身もそう思うようになっていた。


 鏡台の前に座り、アリアは侍女の用意した青灰色のドレスに袖を通す。


 飾り気の少ない朝用の一着だ。布地は上質だが、妹セレナのもののような華やかな刺繍もレースもない。だが、その静かな色は嫌いではない。少なくとも、彼女にはよく似合っている。


 髪を半分だけまとめ、控えめな真珠の耳飾りをつける。鏡の中の自分は、やはり地味だった。


 だが不思議と、醜いとは思わなかった。


 ただ、好まれない顔立ちなのだろう、と知っているだけだ。


 階下の食堂へ向かう廊下は、朝だというのにもう忙しなく人が行き交っていた。厨房からは焼きたてのパンの匂い、磨き上げられた床の上を靴音が滑る。使用人たちは皆、忙しそうにしているが、その目がアリアに向く一瞬だけ、どこかよそよそしくなる。


 彼女は慣れた足取りで食堂の扉の前に立った。


 中から、明るい笑い声が聞こえる。


 セレナの声だった。


「ですから、お父様、春の夜会には薄桃の絹を仕立てていただきたいのです。今季の流行は絶対にあのお色ですわ」


「おまえには何でも似合うからな、好きにするといい」


「まあ、お父様ったら」


 扉の前に立ったまま、アリアは一度だけ息を整えた。


 いつものことだ。何も珍しくない。


 そう自分に言い聞かせてから、静かに扉を開く。


 伯爵である父ベルナールは、上座で新聞を脇に置きながら機嫌よさそうに娘を見ていた。母マルグリットは香草入りの茶を口にし、セレナは朝だというのに花が咲いたような顔で笑っている。


 そしてその隣には、すでに侯爵令息カイル・ローデンが座っていた。


 彼はいつ見ても整った顔立ちをしている。金に近い淡褐色の髪、涼しげな目元、隙のない身なり。社交界の誰もが認める好青年。少なくとも外から見れば、そうだった。


「おはようございます、お父様、お母様。セレナ。それから、カイル様」


 頭を下げると、母はちらりとだけ視線を寄越した。


「遅くはないけれど、もう少し明るい色のドレスでもよかったのではなくて? 朝からその地味な色では、気分まで沈みそうだわ」


「申し訳ありません、お母様」


「謝るほどのことではないよ、アリア。ただ、令嬢は家の顔でもある。少しは気を遣うべきだろう」


 父も続ける。


 まだ席にもついていないうちから、いつもの言葉が並ぶ。アリアはそれに反論せず、自分の席へ向かった。


 カイルは一度だけ彼女を見たが、その目は婚約者を見るものではなく、家の調度品の一つに軽く視線を滑らせるのと大差なかった。


「アリアお姉様、今朝の紅茶はとても香りがいいのよ。ほら、少し柑橘を入れたのでしょう? お姉様はこういうの、お好きかしら」


 セレナがにこやかに言う。


「ええ、香りは好きよ」


「でもお姉様は、やっぱり書庫の古い紙の匂いのほうがお似合いかもしれないわね」


 ころころと鈴を転がすような笑い声。


 悪意はない。少なくともセレナ本人は、そう信じている顔をしていた。


 父も母も、軽く笑った。


 カイルさえ、口元だけをわずかに緩める。


 アリアはパンに手を伸ばしながら、「そうかもしれないわ」とだけ答えた。


 本当のことだったからだ。


 華やかな香水の匂いより、革表紙の本が湿気を含んだ匂いのほうが落ち着く。舞踏会の熱気より、書庫の冷たい空気のほうが好きだ。そこに引け目を感じなくなったのは、いつからだろう。


「アリア」


 父がナイフを置く。


「今朝おまえを呼んだのは、王城からまた文書が来ているからだ」


 それを聞いた瞬間、母が露骨に面倒そうな顔をした。セレナも「またですの?」と首をかしげる。


「文書、ですか」


「北の古い関税記録の写しらしい。役人どもが解釈に手間取っているとかでな。うちに回ってきた。まったく、王城も人を便利に使いすぎる」


 父はそう言ったが、その声音には不満よりも、自分が王城から頼られているという満足のほうが滲んでいた。


 アリアは黙って聞く。


 どうせその文書は、自分に回される。


 父は内容を読まない。母は興味がない。セレナは読む気もない。カイルはそもそも、こうした「地味な実務」を下に見ている。


 そして今日も、その通りだった。


「食後に書庫へ行け。昼までに目を通し、分かることだけまとめて執事へ渡せ」


「かしこまりました」


「お姉様、本当にそういうのがお得意なのね」


「ほかにできることが少ないからだろう」


 何気ない口調で、カイルが言った。


 食卓が一瞬だけ静まる。


 セレナは「あら」と可愛らしく目を丸くし、母は困ったように微笑む。父は苦笑しながらも、否定はしない。


 アリアはゆっくりと顔を上げた。


 カイルの表情には、悪意らしい悪意はなかった。むしろ、当然のことを言っただけという顔をしている。


「申し訳ありません。お役に立てるのが、その程度で」


 自然にそう言えた自分に、アリアは少し驚いた。


 傷つかなかったわけではない。けれど泣きたくなるほどでもなかった。あまりにも聞き慣れた言葉で、もはや胸の深いところに届かないのだ。


 カイルはそんな彼女の返答にも関心を示さず、代わりにセレナへ向き直った。


「今度の夜会だが、君は春色のドレスがいい。あの淡い桃色なら、君の髪にもよく映えるだろう」


「まあ、カイル様ったら。嬉しいですわ」


 アリアは紅茶を口に含む。


 ぬるくなっていた。


 香りはたしかに悪くない。だが、胸の内に広がる空しさまでは誤魔化してくれない。


 婚約者は妹を見て笑い、家族はそれを自然に受け入れている。誰もそれをおかしいと思わない。自分だけが妙な立場に取り残されているようでいて、しかし抗議する理由さえ見つからない。


 魔力がなく、華もなく、愛想も足りない。


 それがアリア・ウェルグランだと、この家ではもう決まりきっているのだ。


 朝食が終わる頃には、父はすでに仕事の話へ、母は夜会の招待客の話へ、セレナは新しい髪飾りの話へ移っていた。アリアの存在は、文書の処理が済むまでは辛うじて必要だが、それ以外の場面ではただ静かに席に座っているだけのものになる。


「では失礼いたします」


 椅子を引いて立ち上がると、父は「ああ」と気のない返事をし、母は「紙で手を汚さないようになさい」とだけ言った。セレナは「お姉様、難しいお仕事がんばって」と笑い、カイルは見送りもしない。


 食堂を出た瞬間、アリアはようやく息を吐いた。


 重たいわけではない。ただ、冷たい。


 石造りの廊下を歩きながら、彼女は無意識に胸元へ手を当てた。鼓動は乱れていない。昔なら、少しは痛んだだろう。けれど今は、痛みよりも諦めのほうが先に来る。


「……役立たず、か」


 小さく零す。


 口に出してみると、不思議と実感が薄れた。


 役立たず。


 それならなぜ、王城からの文書はいつも自分のところへ来るのだろう。


 役立たず。


 それならなぜ、誰も読めない紙束を、自分だけが読まされるのだろう。


 役立たず。


 ――本当に?


 足が自然と向かうのは、屋敷の奥の古書庫だった。


 使用人棟にも客間にも近くない、北向きの静かな一角。昼でも薄暗く、窓は高く小さい。古びた扉を押し開くと、すぐに乾いた紙と革の匂いが迎えてくれる。


 その匂いに触れた瞬間、アリアの肩から余計な力が落ちた。


 ここだけは、自分を責めない。


 棚に並ぶのは、家系図、交易記録、古い手紙、地誌、税台帳、写本、異国語の祈祷文。誰にも見向きもされず、ただ静かに息を潜めている言葉たち。


「お嬢様」


 古書庫の一番奥から、白髪混じりの老執事が姿を見せた。先代の頃からこの屋敷に仕える、ローベルトだ。


「旦那様から文書を預かっております」


「ありがとう、ローベルト」


 差し出された封筒は、王城の蝋印で封じられていた。封蝋には薄く剥がした跡がある。父が一度開け、中身を理解できずに閉じ直したのだろう。


 アリアは文机へ向かい、丁寧に封を切った。


 中から出てきたのは、数枚の羊皮紙の写しと、現行文官による短い添え書きだった。北方交易路に関する古い課税規定の再確認、過去の条約文との照合依頼、ついでに今使われている通行税率の根拠確認――一見すると地味で、読む気さえ失せるような内容だ。


 だがアリアの目は、最初の数行を追っただけで止まった。


「……綴りが違う」


「お嬢様?」


「この単語、今の綴りではなく、二百年ほど前の北方方言です。写し取った人が標準語と同じだと思ってしまったのね。でも意味が変わってしまっている」


 ローベルトが目を瞬かせる。


 アリアはもうその視線に気づいていなかった。紙に意識が吸い込まれている。


 ここでは、自分は息ができる。


 文字は彼女を嘲笑わない。地味だとも、華がないとも言わない。ただそこにあり、読まれることを待っているだけだ。正しい形で拾い上げれば、必ず応えてくれる。


 彼女は二枚目、三枚目へと視線を滑らせた。


 添え書きには「古い免税特権の継続条項の有無を確認されたし」とある。だが写本の末尾には、現行の文官たちが見落とした別表記の注記がある。しかも別の年の追記が側注として書き込まれている。これでは単に読むだけでは足りない。時代ごとの言葉の癖を知らなければ、意味を取り違える。


「お嬢様……お顔が変わられましたな」


「え?」


「いえ。先ほどまでのお顔とは違います」


 アリアは思わず自分の頬に触れた。


「そうかしら」


「はい。ようやく、お嬢様らしいお顔です」


 その一言に、胸の奥がかすかに揺れた。


 お嬢様らしい。


 それが褒め言葉なのかどうかも分からない。けれど少なくとも、食堂で向けられる視線よりは、ずっと温かかった。


 アリアは羊皮紙を机に広げ、ペンを取る。


「午前中いっぱいかかると思うわ。誰も入れないでくれる?」


「かしこまりました」


 ローベルトが去ると、古書庫は静寂に包まれた。


 窓の外では、春の初めの風が梢を揺らしている。遠くから鳥の声が聞こえた。


 アリアはペン先をインクに浸す。


 役立たずと呼ばれる令嬢の指先は、誰よりも確かに文字を掴んでいた。


 彼女はまだ知らない。


 この一枚の古い羊皮紙が、王国の中枢で小さな綻びを生み始めていることを。

 そして、彼女の価値に気づき始めた者が、この屋敷の外にいることを。


 今はただ、静かな書庫の中で、彼女は文字と向き合う。


 誰にも望まれない朝の終わりにだけ、ようやく彼女は、自分自身でいられた。

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