第129話 布告が人の口に入った日
王城布告が市場に貼られた翌朝、市場の空気は昨日とは少し違っていた。
昨日は、驚きが先にあった。
王城の布告なのに読める。
しかも、そこに商人の言葉のような一文が入っている。
行けます。ただし。
その言葉を見た者たちは笑い、驚き、隣の者に読み聞かせた。
だが一晩が過ぎると、その言葉はただの珍しい布告ではなく、市場の中で使われる言葉になり始めていた。
「行けます。ただし、だろ。だから荷車はまだ引っ込めとけ」
「細荷だけだって書いてあるじゃないか。字が読めないなら読んでやろうか」
「昼前後だ。朝一番に出そうとするな、道守りに怒鳴られるぞ」
商人たちが、王城の言葉をそのままではなく、自分たちの口調に少し変えて使っている。
アリアは、商人組合から届いた聞き取り控えを読みながら、胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
言葉が、紙から離れている。
それは危ういことでもある。
紙を離れた言葉は変形する。短くなり、強くなり、時には都合よく削られる。
けれど今日は、少なくともまだ“ただし”が落ちていない。
それが何より大きかった。
「市場の声が変わっていますね」
フェリクスが、控えを横から読みながら言った。
「はい」
「昨日までは“行けるらしい”が増えそうでした。今朝は“ただし”まで残っている」
「布告のおかげでしょうか」
「それもありますが」
フェリクスは少し考えた。
「たぶん、リゼット殿の顔見せも効いています。布告だけなら、まだ疑う者もいる。けれど、泥だらけで戻った本人がそこに座っていた。あれは強い」
アリアは頷いた。
王城の布告。
帰還者の顔。
道守りの制止。
商人同士の噂。
それらが合わさって、ようやく市場は動く。
ひとつだけでは足りないのだ。
「ルカさんとミーナさんは?」
アリアが尋ねると、ちょうどハインツが閲覧室へ入ってきた。
「準備中です」
「荷量は」
「三分の一以下。ミーナが兄貴の帳面を取り上げて、自分で量りました」
フェリクスが真顔で頷く。
「よい管理体制です」
「兄妹喧嘩に王城語をつけると、ずいぶん偉そうになりますな」
ハインツが呆れたように言うと、グレゴールが低く笑った。
「実際、良い管理体制でしょう」
「まあ、否定はしません。ルカは放っておくと布を一巻き増やしますから」
アリアは思わず微笑んだ。
ルカの顔が目に浮かぶ。
帳面を抱え、青い顔で利益を計算し、ミーナに釘を刺される兄。
彼は決して勇敢な英雄ではない。
だからこそ、第二往復にふさわしい。
条件を守らなければ怖いと分かっている。
それでも客を失いたくないから動く。
市場が日常へ戻る時に必要なのは、きっとそういう人間なのだ。
その日の午前、市場からさらに詳しい報告が届いた。
――ルカ・ミーナ兄妹、軽布三分の一以下に調整完了。
――人足二名、道守り二名確保。
――出発は昼前。
――リゼット、店先にて短時間顔見せ。
――ローバン商会、荷車は出さず。ただし中荷試験枠について問い合わせあり。
――見物人増加。布告を読み上げる者あり。
――「条件を守る者から、道は戻る」が商人間で使われ始める。
最後の一文で、アリアの指が止まった。
条件を守る者から、道は戻る。
王城布告の最後に入った一文。
あれが、商人たちの間で使われ始めている。
「……重い言葉になりましたね」
アリアが呟くと、レオンハルトが文面を覗き込んだ。
「あなたが書いた言葉です」
「でも、もう私のものではありません」
自然にそう返していた。
言ってから、自分でも少し驚く。
けれど、その感覚は確かだった。
言葉は書いた者のものとして生まれる。
だが、人に読まれ、使われ、行動を変え始めた時、もう書いた者だけのものではなくなる。
リゼットの「行けます。ただし」もそうだ。
彼女の口から出た言葉が、アリアの記録に入り、王城の布告に入り、今は市場の人々の口に入っている。
「少し、怖いです」
アリアは正直に言った。
「自分が書いた一文が、誰かの荷を減らしたり、止めたりするのは」
レオンハルトは頷いた。
「怖いでしょうね」
「でも、必要なのですね」
「ええ」
短い返答だった。
だからこそ、逃げられなかった。
昼前になると、第二往復の出発確認が始まった。
アリアは今回は館に残ると決めていた。
初回往復と同じだ。
彼女が同行すれば、また話の中心がずれる。
だが、見送りには出た。
門の前には、ルカとミーナがいた。
ルカはやはり顔色が悪い。
だが、昨日よりは腹を決めた顔をしている。帳面は胸元にしっかり抱えていた。
ミーナは荷を一つずつ確認していた。
布の包みを手で押し、縄を確かめ、少しでも余計だと思えば迷わず外す。
「それも置いていくのですか」
ルカが悲しげに言う。
「置いていきます」
「でも、それは軽い」
「軽いものも積めば重くなります」
「正論が強い」
「道の方がもっと強いです」
ミーナの一言に、道守りが低く笑った。
「その通りだ」
アリアは二人へ近づいた。
「準備は大丈夫ですか」
ルカがぎこちなく頷く。
「大丈夫……だと思います。いや、大丈夫です」
ミーナが横から言う。
「兄さんの“大丈夫だと思います”は大丈夫ではないので、私が確認しました」
「そこまで言わなくても」
「言わないと荷が増えます」
この兄妹は、出発直前までこんな調子なのだ。
けれど、それがかえってアリアを少し安心させた。
無理に勇ましく振る舞っていない。
怖さも、欲も、兄妹の言い合いも、そのまま持っていく。
それでいい。
「ルカさん、ミーナさん」
アリアは二人をまっすぐ見た。
「今日は、無理に成功させようとしないでください」
ルカが目を丸くする。
「成功させなくていいんですか」
「戻ってくること。条件を守ること。違和感があれば止まること。それが今日の成功です」
ミーナが、少しだけ表情を引き締めた。
「分かりました」
ルカも遅れて頷く。
「分かりました。……たぶん」
「兄さん」
「分かった。ちゃんと分かった」
アリアは少し笑った。
「その“たぶん”も、記録しておきます」
「それは恥ずかしいので勘弁してください」
「では、心の中にだけ」
ルカは少しだけ笑った。
その顔から、ほんのわずかに緊張が抜ける。
そこへ、リゼットがハインツに支えられるようにして現れた。
「リゼットさん」
ミーナが驚いたように声を上げる。
「寝ていなくていいんですか」
「寝ています。今は少し起きただけ」
「それは寝ているとは言わない」
ハインツが横から苦い声で言う。
リゼットは気にせず、ルカとミーナを見た。
「行けるよ。ただし、欲を出さなければ」
「出しません」
ミーナが即答する。
ルカは少し遅れて、
「出さないよう努力します」
と言った。
ミーナが無言で兄を見る。
「出しません」
言い直した。
リゼットは満足そうに頷いた。
「戻ってきたら、うちにも顔を見せて。次に誰が動くか、また変わるから」
「はい」
ルカはその言葉には素直に頷いた。
第二往復隊は、初回より静かに出発した。
見物人はいた。
だが、昨日ほどの張りつめた空気ではない。
初回往復は、誰も知らない道へ出る一歩だった。
第二往復は、条件を知った上で出る一歩だ。
怖さはある。
けれど、前より少しだけ人の呼吸が入っている。
馬が歩き出す。
荷は軽い。
道守りが前を行き、人足が声をかける。
ルカは何度も後ろを振り返りかけ、そのたびにミーナに肘で小突かれていた。
リゼットが小さく笑う。
「大丈夫。あれくらい怖がっている方が、今日はいい」
アリアはその言葉を胸に刻んだ。
出発を見送ったあと、閲覧室へ戻る途中、マリーがそっと言った。
「今日は、前より少し静かですね」
「ええ」
「怖くないのですか」
「怖いわ」
アリアはすぐに答えた。
「でも、初回の時とは違う怖さです」
「違う?」
「昨日は、戻るかどうかが怖かった。今日は、条件が守られるかどうかが怖い」
マリーは少し考え、頷いた。
「どちらも怖いですね」
「ええ」
アリアは苦笑した。
「でも、今日は布告があります。リゼットさんの言葉も、市場に残っています。ルカさんとミーナさんも、条件を分かっている」
「なら、少しだけ信じられますね」
「少しだけ」
アリアはそう答えた。
閲覧室へ戻ると、机の上には王城布告の写しが置かれていた。
行けます。ただし。
その文字を見る。
今、その言葉が第二往復隊と一緒に道へ出ている。
アリアは記録帳を開いた。
――王城布告、市場に浸透。
――「行けます。ただし」が人の口に入り始めた。
――第二往復、出発。
――初回より静か。けれど、怖さは残る。
――言葉はもう、私のものではない。
最後に、もう一行書く。
――届いた言葉が、今日の道を守ってくれますように。
ペンを置いた。
窓の外では、昼の光が石畳を照らしている。
第二往復は、もう道の上にいる。




