8話
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足元が崩れる音。
「危ないっ」
視線の先で、若い探索者が、崖の縁から滑り落ちかけていた。
考えるより先に、体が飛び込む。岩に胸を打ちつけながら、腕を伸ばす。
手首を、掴んだ。
首元で、何かがぶつりと切れる。
小さな茶色い粒が、目の前を落ちていった。暗い谷底へ。
「ごめんな、颯太」
つぶやいて、掴んだ手首を、両手で引き上げる。
◇
記憶が途切れた。
颯太くんが、心配そうにこっちを見上げていた。
「おにいさん、だいじょうぶ?」
「大丈夫です」
俺は、毛糸のちぎれ目を見た。
岩の角に引っかけて、切れた跡だった。
「颯太くん」
「なに」
「パパは、どんぐりを適当になくしたんじゃないです」
颯太くんが、目を丸くした。
「パパは、これを落としたとき、崖から落ちそうになった人の手を掴んでました。両手でつかまないと、その人を助けられなかった。だから、どんぐりを拾いに行けなかったんです」
「……ほんと?」
「本当です。落とし物を見れば、だいたいわかるんです」
颯太くんは、どんぐりをじっと見つめた。
にっこり笑った顔が、カウンターの上でこっちを見ている。
「パパ、なんで言ってくれなかったんだろ」
「たぶん、宝物を落としたのが、悔しかったんだと思います」
そう答えると、颯太くんは少し考えて、うなずいた。
「パパ、負けずぎらいだから」
◇
お父さんが窓口に駆け込んできたのは、それから三十分後だった。
作業着のまま、息を切らしていた。学童から、颯太くんが来ていないと連絡があったらしい。
「颯太! お前、何やって……」
「パパの宝物、見つけた」
颯太くんが、どんぐりを掲げた。
お父さんの言葉が、そこで止まった。
「……これ」
俺は受領書をカウンターに置いた。
「三浦さん。こちらのペンダントの持ち主は、三浦さんで間違いないですか」
「え、あ、はい。息子が作ってくれた物で」
「では、持ち主の方にお返しします。サインをお願いします」
お父さんは、震える手でサインをした。
俺はどんぐりを、颯太くんではなく、お父さんの手のひらに載せた。落とし物は、持ち主に返す。そういう決まりだ。
お父さんは、ちぎれた毛糸を、指でなぞった。
「パパ」
颯太くんが、お父さんの作業着の裾を引っぱった。
「人を助けたんでしょ」
お父さんが、ばっと俺のほうを見た。俺は、何も言わずに会釈した。
「……ちょっとだけな」
「ちょっとじゃないでしょ」
「ちょっとだよ」
負けずぎらいなのは、たぶん遺伝だ。
帰り際、颯太くんがカウンターの縁から、また背伸びをした。
「おにいさん。新しいひも、パパとかいにいく」
「いいですね」
「こんどは、ちぎれないやつ」
二人の背中が、ブルーシートの向こうに消えていった。
「ああいうの、いいよね」
鳴海さんが言った。
「落とした物が、ちゃんと帰る場所があるの」
「……そうですね」
ちぎれた毛糸は、新しい紐に替わる。どんぐりは、また誰かの首に掛かる。
落とした人が、探しに来てくれたからだ。
俺は、保管棚の最上段を見ないようにして、受領書をファイルにしまった。
◇
閉館後。
誰もいなくなった窓口で、俺は机の引き出しを開けた。
真鍮の鈴。紐に結ばれた、俺の字の荷札。
拾得場所、八層。拾得日、来週の水曜日。
昨夜から、一度も手袋を外さずに触れてきた。
でも、颯太くんのどんぐりを見て、思った。落とし物には、落とした理由がある。見ないままでいたら、その理由ごと、誰にも届かない。
手袋を外した。
指先で、鈴に触れる。
◇
赤い光。
八層の、赤柱の回廊だ。郷田たちが削っていた結晶の柱が、左右に並んでいる。
走っている。荒い息。腰のあたりで、鈴がちりちりと鳴っている。
前方の暗がりで、何か大きなものが動いた。
腰に手を伸ばす。鈴の紐を、ぐっと掴む。
引きちぎって、横の暗がりへ投げる。
ちりん、と鈴が鳴った。
その音に重なって、叫ぶ声がした。
「湊っ!」
◇
記憶は、そこで途切れた。
俺は鈴から手を離せないまま、しばらく動けなかった。
声に聞き覚えがあるのかどうか、わからなかった。叫び声は、ほんの一瞬で、反響にまぎれていた。
わかるのは、ひとつだけだ。
来週の水曜日、八層で、誰かがこの鈴を落とす。
俺の名前を、叫びながら。
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