悪魔の息子①
甲板に出ると、風が冷たかった。
島根県警刑事部捜査一課の嘉本雄三はデッキに出ると、晴れ渡った空を見上げた。空は抜けるように青い。目に染みるようだ。
フェリーが風を切って進む。吹きつける海風の冷たさに、嘉本は「寒っ!」と一声漏らすと、慌てて喫煙場所を探した。甲板の隅に設けられた喫煙コーナーを見つけると、胸ポケットから煙草を取り出しながら歩き出した。
嘉本は捜査一課の係長として、嘉本班と呼ばれるチームを率いている。嘉本班は県警一の検挙率を誇っており、一課のエースと言えた。当然、リーダーの嘉本に対する県警上層部の信頼は厚く、一課で一目置かれる存在だった。
嘉本は若い頃から武勇伝の多い人物で、噂を聞く限り、強面の刑事を連想させる。だが、実際の嘉本は中肉中背、平坦で特徴の無い顔をしており、一度会ったくらいでは印象に残らない。
嘉本自身、そのことを自覚しているようで、いつも黄色いネクタイをしていた。顔は覚えてもらえなくても、ネクタイで印象づけようと言う作戦のようだ。「派手なネクタイは刑事に相応しくない」と陰口を叩かれたことがあるが、気に止めなかった。黄色は目立つし、以前、誰かから「昔、中国では、黄色は皇帝だけした使えない色だった」と聞かされたからだ。
黄色は高貴な色なのか。悪くないと黄色いネクタイを締めるようになった。今では黄色いネクタイを締めただけで身が引き締まるようだ。
嘉本班は島に向かっていた。
「御礼島」というのが島の正式な名称であり、島根県隠岐郡御礼村というのが「御礼島」の住所となる。だが、近隣の島民は島を「怨霊島」と呼ぶ。その「怨霊島」と呼ばれる絶海の孤島で、世間の耳目を集める大事件が発生した。
御礼島は島根半島の北方の海上にある隠岐諸島に属している。まるで離れ小島のように孤立しており、隠岐諸島より島根半島に寄った南西の海上に御礼島はある。人口六百人ほどの小さな島で、島は円錐状の切り立った山地で占められ、島の南東部にわずかに広がる平地に島人は寄せ集まるようにして暮らしている。
島の唯一の玄関口と言える神門港を起点に、東西に御礼島の大通り、神門通りが伸び、そこから幾つもの路地が枝分かれしている。神門港からは一日三便、対岸の松江市の七類港と隠岐の西郷港を結ぶフェリーが運航している。フェリーは島から隠岐の学校に通う学生や松江に働きに出たり、買い物に行ったり、病院に通ったりする島人の貴重な足となっている。
これと言った観光資源もない島だ。酔狂に島を訪れようとする観光客が、フェリーに乗り合わすことなど滅多にない。フェリーの客室は島人の社交場だった。
急峻な山が海岸に押し寄せてできたような地形をしているため、島は耕作に適さず、島民は代々、漁業を生業としてきた。
島一番の網元を津島家と言った。
津島家は源義親の末裔を称しており、島民の尊敬を集めていた。義親は八幡太郎こと源義家の子であり、為義、義朝、そして鎌倉幕府を興した頼朝へと続く、河内源氏の嫡流だ。前九年の役、後三年の役で活躍した父、義家譲りの豪傑として知られ、対馬守に任官されていたことから、「悪対馬」と渾名された。
津島家の姓は義親の官職である対馬守より来ている。
義親は対馬守に任じられるが、対馬へ渡らず、九州の地で略奪を働いたとして朝廷より追討を受けてしまう。朝敵となるに忍びず、朝廷の捕縛を受けた義親だったが、朝廷はさらに隠岐への配流を命じる。
摂関家の武士として、朝廷に使えていた義親は、摂関家と対立する院の最高実力者、白河法皇にとって目の上のたんこぶだった。義親の隠岐配流は摂関家の勢力を削ごうとする白河法皇の策謀だったと言われている。
度重なる理不尽な仕打ちに憤った義親は、出雲国の目代を殺害して、ついに朝廷に反旗を翻した。
嘉承二年(一一○七年)十二月、義親の謀反の知らせを受けた朝廷は隠岐守であった平正盛を義親追討に差し向ける。「天下第一の武勇の士」と謡われた八幡太郎義家の子として剛勇で知られた義親だ。正盛は出陣にあたり、勇気を奮い起こす為に、「京都にあった義親の邸宅に向かって三度、鬨の声をあげ、三度、鏑矢を放って出立した」と「源平盛衰記」に記されている。
歴史上、義親は正盛にあっさりと誅せられてしまう。
出雲国へ到着した正盛は義親と一戦に及び、義親とその五人の従者の首を切り、いとも簡単に反乱を平定してしまう。正盛は義親の首を掲げて京の都に凱旋し、義親の首は七条河原に晒された。
勇猛果敢な武将として知られた義親を、さして武功もなかった正盛が簡単に討ち果たしてしまったことに対し、昔より疑問の声を差し挟む者が多い。そして、ここ御礼島には史実にない義親の最後に関する伝説が残っていた。
御礼島にある神社、御礼神社に伝わる「対馬守始末記」という巻物には、義親の最後がこう記されている。
朝廷の追討を受けた義親は手勢を掻き集めると、出雲国の国衙に拠って徹底抗戦の構えを見せた。だが、寄せ手の大将が弟、義忠の舅、正盛と知ると、義に厚い義親は朝廷を恨みつつも義忠の胸中を慮り、兵を散じ、従者五人と出雲沖の御礼島へと逃れ去った。
御礼島の島民は義親の突然の来襲に驚いたが、世に高名な武将であると知り、義親を厚くもてなした。
寄せ手の将であり、義親の武勇を知る正盛は無理に島に攻め寄せようとはせず、隠岐国中に、「源義親を生け捕って差し出せば、恩賞は思いのまま」と触れを出した。
最初は義親を手厚くもてなした御礼島の島民だったが、正盛の触れを伝え聞くと、恩賞に目がくらんだ。義親を捕縛して差し出すことにした。だが、何せ勇猛を謳われた義親である。漁師たちが束になっても、太刀打ちできないことは初めから分かっていた。




