第1話 朝の目覚め
甘い香りが鼻先をくすぐった。
まだ夢の中にいるような、ぼんやりとした意識。
柔らかな温もりが背中を包み込んでいる。
毛布じゃない。
もっと心地よくて、もっとあたたかい何か。
「んん……」
寝返りを打とうとして、動けないことに気づいた。
腕。
誰かの腕が、胸の前でしっかりと回されている。
そして、その先には――
「おはよう、レオちゃん」
耳元で、優しい声。
びくっ、と肩が跳ねた。
「っ……アイリス、さん!?」
「あら、お姉さんって呼んでくれないの?」
くすくす、と笑う吐息が耳にかかる。
ぞわり。
背筋を何かが駆け上がった。
振り返ろうとしても、腕が離れない。
そのせいで嫌でも意識してしまう。
背中に押し当てられた感触を。
やわらかい。
すごく、やわらかい。
「なんで僕のベッドに……!」
「だって、レオちゃんったら」
細い指が前髪を梳く。
耳に触れた指先が、そのまま輪郭をなぞった。
「今日はずいぶんお寝坊さんだったから」
――たしかに、いつもより部屋が明るい。
しまった。完全に寝過ごしている。
「見に来たら、うなされてたの。『ごめんなさい』って。何度も」
心臓がどくんと鳴った。
夢の内容は覚えていない。
でも、その言葉には覚えがあった。
「だから、少しだけ隣にお邪魔したの」
「少しだけ……?」
思わず聞き返した。
どう考えても抱き締められている。少しじゃない。
「そしたら、すぐに落ち着いたのよ」
どこか嬉しそうな声。
ふわり、と何かが頭に触れる。
何をされたのか理解して、耳まで熱くなった。
「っ……!」
見なくても分かる。
絶対笑ってる。
「もう、子供じゃないんですから……」
もごもごと抗議すると、肩越しに楽しそうな声が返ってきた。
「あら」
腕の力が緩んだ隙に身体をひねる。
するりと抜け出して距離を取った。
はぁ、と息をついたところで固まった。
――きれいな顔。
翠の瞳がこちらを見ている。
銀色の髪が枕の上に広がっていた。
長い耳がぴくりと動く。
ご機嫌な時の癖だ。
「子供じゃない?」
「そう……です」
負けるものか。
必死に目を逸らさず言い返す。
すると、唇の端がゆっくり持ち上がった。
嫌な予感しかしない。
「じゃあ」
すっと腕が伸びてきた。
次の瞬間には引き寄せられていた。
というか、引きずり込まれた。
「えっ――」
ふに。
息が詰まるほどの弾力。
やわらかすぎる。
何だこれ。
いや知ってる。
知ってるけど。
「むぐっ!?」
呼吸ができない。
「子供じゃないなら、平気よね?」
平気なわけがない。
近い。
苦しい。
心臓がうるさい。
「もがっ……!」
必死にもがく背中を、あやすような手つきでぽんぽんとたたかれる。
頭上から降ってくるのは、余裕たっぷりの甘やかな笑い声だ。
息が上がる直前、意地悪な腕の力がふっと緩められた。
すぐさま、顔を引き抜く。
「はっ……!」
肺いっぱいに空気を吸い込む。
「し、死ぬかと思いました……!」
「大丈夫、お姉さんがいるもの」
「それが危ないんです!」
「そうかしら」
微笑みながら、今度はそっと頬を包み込まれた。
ひんやりした感触に、熱を持っていた部分が冷えていく。
「でもほら」
親指が頬をなぞる。
「ちゃんと元気」
言葉に詰まった。
からかわれている時とは違う。
こういう顔をされると困る。
「お姉さん、レオちゃんが元気なのが一番嬉しいの」
抱き締められていた時より、ずっと近く感じた。
「……だから」
双眸が、射抜くようにこちらを捉えている。
「無茶しないでね?」
胸の奥が痛んだ。
視線を逸らそうとしても逸らせない。
「アイリス、さん……」
「お・ね・え・さ・ん」
ぴしりと。
人差し指が鼻先を突く。
「お、お姉さん……」
満足そうに頷くと、当然のように頭を撫でてくる。
「よしよし」
「だから子供じゃ……」
「はいはい。一人前の冒険者さんね」
どう聞いても子供扱いだった。
さらり、と髪を梳かれる。
額から頭へ。
乱れたところを整えるみたいに。
指先が通るたび、変に力が抜けていく。
「ん……」
まずい。
気持ちいい。目が閉じそうになる。
「まだ眠い?」
「っ、眠くないです」
「そう?」
まるで信じていない。
甘やかすような手つきは止まらない。
「起きなきゃ……」
ようやく絞り出した言葉に、残念そうな表情を見せる。
「まだいいじゃない」
「よくないです。皆、待たせてるだろうし……」
「待たせておけばいいのよ」
「よくないです!」
即座に言い返すと、アイリスの肩が小さく揺れた。
「そういうところ、好きよ」
……ずるいと思う。
そんな顔で言われたら。
「……起きます」
照れ隠しに視線を逸らして答えると、楽しそうに目を細めた。
最後に寝癖をひと撫でしてから立ち上がる。
「じゃあ、お姉さんは先に行ってるわね」
ぱたん、と扉が閉まる。
ようやく静かになった。
――ドンドンッ!
「レオォォォ!」
静かじゃなくなった。
着替えの手を止め、深々と溜め息をつく。
聞き慣れた女性の声が廊下に響いた。
「お前まだ寝てんのかー!」
ガルだ。間違いない。
「起きてます!」
慌てて叫び返す。
「飯!あと三分な!」
「分かった!すぐ行く!」
「あと一分!」
「減ってる!?」
げらげらと笑う声が遠ざかっていく。
上着を掴んで袖を通す。
「急がなきゃ」
部屋を飛び出すと、階下から喧噪が聞こえる。
今日も一日が始まる。自然と足が速まった。




