表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢鬼  作者: ピエロ
2/2

序章 第二夜 黒紅の瞳

「それで、お婆さんほんとに何も盗られてないのね?」


「そうじゃ、なーんも盗られとらん」


「ちゃんと鍵全部掛けてたんだよね?」


「古い家じゃから穴は空いとるけども…「!?」…ネズミの穴じゃしのう…」


被害者のお婆さんに対して西園寺が事情聴取を行っている。

しかしこの調子では新しい情報は得られそうにない。

何か少しでも情報をと被害届のあった家に来てみたが時間の無駄だったかもしれない。


「先輩ダメでした~」


「聞こえてたから、一応報告だけして」


「はーい、被害者の内田キヨさん67歳、犯行時刻は一昨日の夜中で寝ている間に入られたようで鍵は毎晩閉めて寝ているそうです。荒らした形跡はありますが衣服はおろか、金銭にもまったく手をつけていないところから例の空き巣で間違いないと思います」


鏡華は西園寺の話を聞きながら情報を整理する。

犯行区域は最初の現場から2㎞圏内、被害者の唯一の共通点は一人暮らしの女性というところだ。

若い女性だけ狙われるならまだわかるがこんなババァまで守備範囲に持つ男もいないだろう。


「寝静まった頃に音もたてず好きだった女性の陰を探す、まさに夜の男爵(ナイトバロン)ですね!」


「何それ」


「知らないんですか?今けっこう話題なんですよ。被害者なんですけどみんな独り身の女性ですし綺麗な人ばかりなんですよ!」


頬を軽く染めて目を潤ませる西園寺はまるで恋をしているようだ。

(ナイト)騎士(ナイト)なのか、と鏡華は一人で納得し、被害者の一人を指差してこう言った。


「あのしわくちゃなのが綺麗に見えるとは思えないけど」


「……。」


それを見た西園寺も同じ意見だったようだ。

被害者の中では最年長のきよさんはおせじにも綺麗な人ではない。

若い頃は綺麗だったのかもしれないがそれにしたってもっと綺麗な人などいくらでもいるだろう。

現代に現れた騎士(ナイト)は大部趣味が悪そうだ。


「先輩せっかくの乙女の夢を壊さないでくださいよう…」


鏡華はもの悲しそうな顔をして訴える乙女を無視して話を進めた。


「近くの監視カメラはもう把握してあるのよね」


「はい、ここにその一覧と連絡先があります」


そう言って西園寺が出してきた書類を鏡華はむしるように奪い、背を向けた。


「じゃあ残りやっておくから帰って良いよ」


「ちょっと待ってくださいよ先輩!前だってそれで私怒られたんですから、私も行きます!」


「ここまで来れば車なくても大丈夫そうだし、付いて来る必要もないのに?」


鏡華が困った顔を見せると西園寺は顔を真っ赤にして叫んだ。


「必要かどうかの問題ではなくてパートナーだから一緒に行くんです!特に今回は手がかりが無くて出来ることも少ないんですから、私にも行かせてください!」


今日の西園寺は大部しつこい。前に2人で捜査した時はさっきの一言で退いてくれたが今日は無理そうだ。

鏡華は鬱陶しそうに「そんなに来たいなら来れば?」と一人さっさと歩き始め、西園寺もそれを追いかけた。




監視カメラは周囲の店や、マンション等にもある。

現場から近いマンションの監視カメラ映像は業者に後で送って貰うようにしてある。


「コンビニのも送って貰った方が良かったんじゃないですか?」


「送ることが出来ないらしいから仕方ないの、あそこはビデオテープ使ったタイプだからこうしてテープ持ってダビングしに向かうの」


鏡華にとってはむしろ願ったりかなったりである。

署で視聴覚室の申請をして狸に会わなければならないことを想像するとそれだけでやってられない。


「この捜査いつまで続くんですかねぇ、私ちょっと飽きちゃいました」


西園寺の不謹慎極まりない発言には鏡華も呆れるばかりである。


「まぁ血生臭くないしやることも大体決まってるんで悪くはないんですけど、捕まって欲しいような捕まって欲しくないような…」


西園寺の言っていることもわかる。

何かしらの進展が欲しいのだろう。

この事件が始まってから担当として捜査を続けているが、手がかりが残されていたことはなくすることが決まってしまっている。

仕事をしているはずなのに結果が何もないのでは、疲ればかりが残ってしまう。


「未來は捕まらなくても良いの?」


「だって捕まって気色悪いオジサンだったりしても嫌じゃないですか!」


どうやら西園寺の中では騎士はかっこいい男性であることが確定らしい。


「さっきも言ってた夜の男爵のことよね、どこの噂 なの?」


「あぁ、ネットの書き込みにあったんですよ。なんでも凄くかっこいいらしくて」


「姿見た人居たならそっちを先に言いなさい!」


鏡華が食いぎみにと捲し立てると、西園寺はあわあわしながら訴え返した。


「いや、ガセかもしれませんし匿名で発信元が誰だかもわからなかったんですよ!ていうか先輩もネット自分で見ましょう?せっかくのパソコンスキルがまったくの無駄じゃないですか!」


鏡華は痛いところを突かれたとばかりに言葉を詰まらせた。


「先輩がなんでネット嫌うのか知りませんけど自分が見てなかったことを私に当たらないでくださいよ!」


「…わかった。たぶんコンビニでパソコン貸してもらえると思うからそこで見せて」


西園寺は仕方ないといった素振りを見せて言った。


「了解しました。あっ、そこです!そこのコンビニですよ!」


西園寺が指を指した先には今時珍しい個人経営のコンビニがあった。

鏡華も資料では知っていたが、実物はそれ以上である。

もうこれは個人商店と言うべきだろう。

茶色く汚れて元の色もわからなくなってしまった看板には9のマークと共にナイン・ナインと書かれたいた。


「「いや、色々アウトでしょ(ですよ?)」」


まず働きすぎと言われる日本にあって12時間営業とはサボりすぎではないだろうか。

西園寺も鏡華もここ数日は1日15時間勤務であることを考えると随分なものだ。


「とりあえず入ってみますか」


西園寺に促され、鏡華も足を進める。

店内には手書きポップが貼られ少し薄暗い。

カウンターを見るがレジに人影はなく周囲を見渡しても気配がないことから奥に引っ込んでいるのだろう。


「おはようございますー、どなたかいらっしゃいませんかー!?」


西園寺が声をあげるとガタゴトとものを動かす音がしてレジ脇の扉から一人の老人が姿を現した。


「やぁすみません、何かお探しですか?」


老人の髪は白く制服から出てる細い腕は骨と皮ばかりである。

丸いフチなし眼鏡の奥では温かい光を含んだ眼がこちらをとらえていた。


「今朝お電話差し上げた警視庁の西園寺と…」


「柊鏡華です。お忙しい中申し訳ありません、とある事件の捜査の為監視カメラの映像を見せていただきたいのですが」


老人はにこやかに笑って答えた。


「もちろん良いですとも。儂は店長の高橋茂雄と申します。お巡りさんがこんな日中からご苦労様ですね」


鏡華達はお巡りさんと呼ばれる役職ではないが老人はよく知らないらしい。

珍しくもないことなので二人もそれについては触れずに尋ねた。


「慣れっこなのでそんなに苦にはなりませんよ、今は他に店員は居ないんですか?」


「えぇ、一昨年の冬に連れを亡くしまして。それ以来一人で続けているんですよ」


「それは辛いことを思い出させてしまいました、申し訳ありません」


鏡華にも大切な人を失った気持ちはよくわかる。

今まで心のよりどころにしていたものが無くなった時の胸の痛みは1年やそこらでは癒えてくれない。

恐らくこれから先もずっと痛み続けるのだろう。


「いやいや、元々病弱な奴で覚悟はしておったことですし、思い出もたくさん作ることができました。この店だって家内と二人で作り上げたんですよ?子宝には恵まれませんでしたが、もうこの店が息子のようなものです」


「きっと素敵な奥さんだったんですね」


「口うるさいやつでしたが梅干しを作るのが上手な奴でして、ここの一押しの梅干しおにぎりは昔婆さんが漬けたものなんです。もう残り少ないので今年限りですが…」


鏡華と老店主が哀愁を漂わせていると、西園寺が顔を真っ赤にさせて叫んだ。


「二人ともおしゃべりしすぎですよう!早く終わらせちゃいますよ!」


「ははは、これはすみません。お嬢さんに老いぼれの話は退屈でしたな。この奥で見れますからどうぞ中まで入ってください」


老店主はそう言って二人を先ほど自分が出てきた扉へ案内する。

中へ入ると段ボールや書類の山でいっぱいだった。

鏡華の部屋もひどいものだがここまで雑然としてはない。


「いや、片付けは家内の方が得意でして。パソコンはそこの机で見れますから」


「このパソコンですね!」


西園寺が商品の入ったケースを避けた向こうに、黄ばんだ大きいパソコンが一台置かれている。


「薄くないタイプのパソコンなんて久しぶりです~」


防犯カメラの映像はすべてここで見れるらしい。


「未來、それ全部ダビングしてくれる?」


「出来ますけどけっこう時間かかりますよ?」


「それは構わないよ、ここでチェックもしちゃえば早く済むし」


鏡華はこの場で全部終わらせる気らしくどこからかパイプ椅子を引っ張り出して座っている。

彼女がそれとなく老店主に視線を向けると、老主人もその意味を理解したのだろう。


「では儂は店に戻りますので、失礼させて頂きます」


と、言い残して部屋から出て行った。


「鏡華さん再生できますよ~。それにしてもあのおじいちゃん…事件の匂いがしますね」


準備ができたのか西園寺が話しかけてきた。

パソコンに映されているのは昨夜のものと思われる監視カメラの映像だ。


「そう?悪い人には見えなかったけど」


「鏡華さんわかんないんですか!?警察は知識と推理力だけあれば良いってものじゃありません。特に大事なのは観察力なんです!」


熱を込めてグイグイ来るがそれは警察の条件じゃなく探偵ではないだろうか。

鏡華はその極度に近い顔を押し返して尋ねた。


「で、一体貴女は茂雄さんの何を不審に感じた訳?」


「それはですね、梅干です!一昨年死んだおばあさんが作った梅干を今売ってるなんて犯罪ですよ、市民にカビ入りのおにぎりを食べさせるなんて、ゆるせない!!」


「自家製の梅干は3年以上持つよ、保存食だし」


「そうなんですか!?私ったらてっきり食品衛生法にバリバリ引っかかってるのかと思いましたよ!」


「声大きい。未來もいい加減出会う人全員を疑うのはやめなよ」


「だってあのおじいちゃんめちゃんこ妖しいじゃないですか。絶対定年過ぎてるのになんでこんなところで売れないコンビニなんか営業してるんですかね?」


「それだけ離れがたい店ってことでしょ、身寄りがないんじゃ猶更」


鏡華の父もボケがきて今は施設に入っているがまだ元気だった頃はだいぶ嫌がったものだ。初めて認知症だと診断された日、兄がお金を出すから施設に入ろうと話したら怒りだし「親不孝者め」「勘当だ!」と罵った挙句に追い出し、泣きながらなだめる母に手をあげた。結局兄を兄とも認識できなくなり最後は何の抵抗もなく施設に入っていった。

人間思い出の詰まった場所を離れるのは抵抗があり、人生も残り少ないのであれば余計にとどまりたいものだろう。


「あぁいう人も珍しくないし、私たちが口出しすべき話じゃない」


西園寺は納得したのかしてないのか動画の再生ボタンにカーソルを合わせ、クリックした。

--------------------------------------------

「何も映ってないですね」


先に声を上げたのは西園寺だった。鏡華はまだ何の言葉も発しない。眉間に深いしわが寄っているのが見て取れる。

人が考え込んでいるときに話しかけるのはよくないと、西園寺は水筒で持ってきた紅茶を紙コップに二つ 注ぎ、一つを鏡華の前に置いた。

犯人が通るとしたらこの道か、あるいは被害者宅を挟んで反対側の道。

監視カメラに何も映ってないならばこの道は使われなかったのだ。

であるにも関わらず、再生が終わり制止した画面をにらみ続けている。


「…ねぇ未來」


「ひっ、ひゃいっ!」


「未來は犯人がどうやって犯行に及んだか想像つく?」


鏡華はまだ表情を変えていない。


「そうですね、反対側の道からか…屋根でも伝ってたんでしょうか」


「とりあえずダビングした分は持って帰ろうか、何かわかるかもしれないし」


そう言って荷物をまとめ始めた彼女を真似て、西園寺も器材をバッグに入れる。

物音で気付いたのだろうか、引っ込んでいたはずの老店主が扉から顔を出した。


「おや、もう宜しいのですか?」


「えぇ、あとはダビングテープでいつでも見れますので。ご協力ありがとうございました」


「また何かありましたら声をおかけください」


西園寺が器材を詰め終えると、二人は老店主に見送られて外へ出た。

お昼はとうに過ぎて西の空が赤みを帯びている。


「今度はぜひ何か買いにいらしてください、死んだ婆さんもきっと喜びます」


老店主は最後にそれだけ言って手を振っていた。

西園寺も悪い気はしないのか一礼した後に小さく手を振って返す。

老店主は二人が見えなくなるまでこちらを見ていた。


「不気味なんて言って悪かったかもしれません、先輩の言う通りの人でほんとは寂しい思いをたくさんしてきたんでしょうね」


西園寺の問い掛けに対しても鏡華はまだ、眉間に皺をよせていた。


「鏡華さんどうしたんですか?変ですよさっきから」


あの映像を見た限り何の問題もない。人通りはまるでなく野良猫や雀が時折見られただけである。


「あれ、誰も映ってなかったね」


「そうですよ?だから犯人はここを通ってないってことですよね?元々人通りが少ないところですし何の不思議もないじゃないですか」


「でも、誰一人(・・・)映らないって普通かな?」


「えっ…」


元々人通りが少ないにしても、近隣に住宅地もありかのナイトバロン様も通らなければならない一本道である。


「監視カメラの映像確認依頼出した時にあのお店の噂とか調べたりしてる?」


「いえ、重要性を感じなかったので。でも事件があったと思われる昨夜の映像しか見てませんし、気にするほどのことですか?」


鏡華はその問いには答えず、真っ直ぐ歩き続けた。

振り替えれば老人の手を振る姿が見える気がして…




警察に勤めると帰りが早い日はまずない。

今日だって空き巣に加え老人を調べることにしたから遅くなった。

「なんで自分で仕事増やしちゃうんですかぁ~」

とわめく後輩も付き合わせて、もう8時だ。

普段は髪を染めた女子高生や、帰宅途中の顔が赤いおっちゃんくらいはいるのだが、今日に限っては猫一匹いない。

均等間隔に置かれた街灯がぱしぱしと明滅を繰り返してる。


─そろそろだろうか


先程から後をつけてくる者がいることには気付いていた。

途中ペースを変えたりしてみたのだが、相手も同じようにペースを変えた。

歩くテンポはかなり遅い。


鏡華は身長も163とまま高めなので相手は大柄な男だろうと睨んでいる。

何気ない風を装ってハンドバッグの中を探り、スマホを握りしめる。


─一人でも、捕まえてやる


普通一人で不審者と対峙することはない。

刑事なら応援を呼びそれを待ってから動くことは警察学校でも習った。


しかし、鏡華はたった一人で挑もうとしている。

狸をギャフンと言わせられるなら多少の危険等厭わない彼女がいた。


追い付いて来ないところを見ると付けてきて自宅を特定する気なのだろう。


──独り暮らしの女性をこんな方法で特定してたのか


単純な方法である。

このまま付けさせても良いが自宅を教えてやる義理もない。

鏡華はこの重要参考人を路地裏へ誘い込むことにした。

路地裏なら普通は通らない道なので言い逃れもしづらい。

鏡華は人2人がギリギリすれ違えるくらいのビルの隙間へと入った。

期待した通り、付けてきた者は路地へ入ったようだ。


少し距離を離したのだろうか。

さっきまでより足音が遠いことに気付く。

路地で察知されることを恐れたのだろう、と、鏡華は思った。

鏡華は怪しまれぬようペースを崩さず歩いた。

まだ付けてくるつもりならまた距離を詰めてくるだろう。

そこで問い詰め、捕まえてしまえば良い。

路地は短い。


足音がまた近付いてきた時、鏡華はタイミングを計って振り向いた。


「いったい何の用?さっきからずっと後ついてきてましたよね?」


てっきりそのまま襲いかかられると思って身構えていたのだが、そこに居たのは酔って顔を赤くしたおっちゃんだった。


「えっと…、落としたよ?」


手には鏡華の青いハンカチが握られている。


「あ…、ありがとうございます」


どうやらいつの間にか落としてしまっていたようだ。


「もしかして不安にさせちゃったかな?最近空き巣多いからね」


「いや、え?でも駅からずっと」


鏡華の謝罪におっちゃんは人の良さそうな笑いで返した。


「まぁ私のような奴が後ろから追いかけてきたらそりゃ不安にもなるよ、お嬢ちゃんも気をつけて帰ってな」


「あ、少し待って。」


そう言って帰っていくおっちゃんは全然悪人には見えなかった。

ならなぜずっとつけて来たのか問い詰めたいが証拠もないだろう。


「…気のせいだったのかな?」


鏡華は一言溢して、おっちゃんの小さな背中を見送った。


コンビニに寄ってビールを2本と弁当を1つ買った。

おつまみも何か買いたかったが、1枚しかない諭吉を崩すのが惜しく、諦めた。



ジャケットとスカートを脱いでハンガーにかける。

アイロンをした方が良いのだろうが疲れているのでそんな気が起こらない。

散らかったものをぐいと部屋の端に寄せて座るスペースを作りテレビをつける。


『…は晴れ、今週で一番の快晴になるでしょう。紫外線量は』


テレビを聞きながら弁当を取り出し、ビールを開けた。

帰りが遅いと料理することなんてめったになくなる。

鏡華も昔は手料理なんかを◯◯に振る舞ったが、今はコンビニに頼りきってる。


鏡華はビールを飲むとすぐ眠くなるタイプだ。

今日はいつもより早く眠気がきた為、2本目は明日に残して置くことにし、ベッドに潜り込む。

テレビは点けたままでもタイマーで勝手に消えるだろう。


何度目かの寝返りをうった。

頭上のデジタル時計はまだ2:18を表している。

ビールを飲んでこの時間に目が覚めていることはかなり珍しい。

今日のおっちゃんが引っ掛かるのだ。

あのハンカチはハンドバッグの中に入れていたものでそう落とすとは思えない。

落とすとしたらスマホを操作したあの時だろう。

つけてきていたのはおっちゃんだと思っていた。

悪人らしくないおっちゃんの笑顔が問い詰めることを止めさせた。


ギシッ


しかし、今思い返せば、どうして気がつかなかったのか。

おっちゃんとの間にはどう見ても5m以上はあった。

そしてそれ以上になぜ、あの短足のおっちゃんに何の疑問も抱かなかったのか。


ギシッ


あそこでおっちゃんが帰ったのを確認したのはそこからつけられない為。

もしつけていた奴がまた別に、すぐ側に居たのなら


ギシギシッ


撒いたことにはならない。


『ガサッ』


鏡華がそれに思い至った時、音は耳元のすぐそこまで来ていた。


「──────っ!」


叫ぼうとしたが口は塞がれ、大きな手が鏡華の両手を捕まえる。

足で蹴りあげようとするが上に覆い被され押さえこまれてしまった。

訓練は受けていてもこの状況を打破できる程ではない。


「黙れ!騒ぐな」


低い男の声だ。

身の危険を感じ懸命に暴れるが手はがっちりと手錠のように動かず、腰を固定され口からは声にならない声しか出ない。

必死に体を捩らせて声の主を見ると、黒紅の瞳が鏡華を写していた。


赤い。

この色は知ってる。

色鉛筆でも、絵具でも描けない。

人の手では作り出せない色、血の色だ。

事故、投身、殺人、自殺──

いくつもの現場で見てきたあの血の色だ。

カラコンとは思えない、美しいくらいに哀しい色。


そこに写りこみ真っ赤に染まった自分を見た瞬間、鏡華の恐怖は溶けて消えた。

男は鏡華を押さえつけたまま、じっと見つめるだけであった。



時間にして1分だろうか。

30分は過ぎたのかもしれない。

先に動いたのは鏡華だった。

強引に動くとより強く掴まれる。

鏡華は暴れることなくそっと、手を動かした。

手錠のようだと思えた男の手は軽く外れた。

外れた手を口元の手へ。

ゆっくりと、優しく。

鏡華は自由になった口で囁いた。


「私に何か、用?」


男が危害を加えようとしていないのは何となくわかった。

鏡華が暴れるのを止めたかっただけで、それから先は考えていない。

そんな風に感じられた。

男は鏡華の予想を裏付けるかのように動揺を見せた。


「いや、オレは…」


「とりあえず起こして貰って良い?」


「あぁ」


男は上から避けて手を貸してくれた。

鏡華は自身の状態を確認する。

大きな怪我はないが捕まれた手首が赤くなっていた。

ブラウスの上2つのボタンがないのは今の騒ぎで取れてしまったせいだろうか。

シーツを引き寄せて身体を隠し、男を見る。

何故だろうか、男の方が動揺してるようである。


「着替えるから後ろ向いててくれる?」


そう言うと鏡華はタンスからダボッとしたシャツを1枚被った。

気を張ってないと倒れてしまいそうで、今更ながらに感じる恐怖を意思の力でねじ伏せる。

わからないことだらけだ。

何故襲われたのか、何故男の方が動揺しているのか

不安と恐怖の中で鏡華が出した答えは、最もシンプルな疑問であった。



「ーー貴方、誰?」







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ