序章 第一夜 夢の始まり
Ⅰ
人は誰しも欲望という名の願いを持つ。金が欲しい、酒が欲しい、色が欲しい。
しかし100年にもみたないわずかな生涯のなかで そのすべての願いを叶えることはない。いや、人である以上幾年あろうとも際限のなき願いを叶え尽くすことはない。
現実では叶うことのない願い。
叶わぬことを願い続けた末に人は『夢』を見る。
願いは夢へと昇華し、夢は現実世界と同化する。
夢と現実の混ざり合った場所、その中でもドロッとした、一際人間らしい感情でできた川の瀬に産まれたもの、それが『鬼』。
欲の権化でありながら欲を求め夢に生きる。
人々は忌避の念を込めて彼らをこう呼んだ。
『夢鬼』と……。
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喉の渇きで目が覚めた。
視界の片隅で黄色いカーテンが風にはためいてている。
体を起こそうとすると頭の芯がつくんと痛んだ。
昨夜遅くに帰ってきて、酔いざましにと窓を開けたところまでは覚えている。
何か夢をみていた気がする。
何をみていたんだろう。
ーー彼女の名は柊 鏡華。
年は29歳。
住まいはアパートの2階で一人暮らし。
ドラマでお馴染みの警視庁捜査一課に所属している。
顔立ちは中の上といったところで、彼氏に死なれて既に2年が過ぎていた。
彼、焦斗とは大学生の時に知り合った。
川で段ボールに入れられて流されていた猫を助けようと飛び込んだ時、同じく川へ飛び込んだのが焦斗だった。
焦斗は正義感に溢れる人で、警察官に憧れていた。
鏡華もその影響で警察官の道を目指し、共に警官学校に入学した。
1つ年上なのに留年して同学年だった焦斗は少し子供っぽくて、それがなんだか可愛く思えて、そんな彼が顔を真っ赤にして告白してきた時、鏡華は『あぁ、私も彼のことが好きだったんだ』と、気がついた。
21から付き合い続けて6年間、周りから冷めてると言われるような淡白な関係を続けた。
肌を重ねることはせず、どちらかの部屋で勉強して、毎週日曜に2人で戦隊物を観ることも日課だった。
一緒に警察官試験に合格できた時に初めて、2泊3日の温泉旅行に行った。
幸せだった。
結婚は時期が来ればすることになる程度に思っていた。
ある日、焦斗が帰らぬ人となったことを、その時の上司に聞かされた。
飲酒運転の車との衝突。
即死だったそうだ―――。
昨日は仕事終わりの更衣室で、同期の真由美に合コンの人数が足りないからと言われ飲み屋に連れて行かれた。
が、帰り際、鏡華に声をかけてきた者は誰一人としていなかった。
真由美は早々に狙いをつけていた男とどこかへ消え、最後の男はお金だけ払うと一人で帰っていった。
特に寂しいとも思わなかった。
鏡華はシワのよったシーツに座り直すと、右足にだけ履いていたパンプスを床に投げ捨てた。
フローリングには今投げたパンプスだけでなく、最近多発している空き巣に関する資料や、カップ麺、缶ビールの空になった入れ物等が至るところに散乱している。
鏡華はまだ覚めきらない目でそんな部屋の様子をうすらぼんやりと眺めた。
散らかってるな、とは思えても、片付ける気には到底なれなかった。
掃除しても数日で汚くなるなら、する必要なんてないように考えてしまう。
布団から離れ温もりを失った背中に、冷えた空気が入り込み、思わず身震いを覚えた。
「コーヒー、まだあったかな。」
鏡華はこめかみを指で押さえつつ立ち上がり、爪先歩きで障害物の隙間を縫ってキッチンへと向かった。
木製の戸棚を開くと、中からはインスタントコーヒーの入ったビンが出てくる。
スプーンに2杯分程残っていたそれを手元にあった白いマグカップに入れ、ケトルのお湯を注いだ。
スプーンを探すが近くになく、箸を1本取ってガチャガチャかき混ぜる。
スーパーで安売りしていたコーヒーの香りがあたりに立ち込め、鏡華の眠気を遠くへ運んでゆく。
淹れたてのコーヒーを口に少し含んでからポケットの中を探る。
出てきたのはしわくちゃになったハンカチとピンク色で涙の形をしたストラップをつけたスマホ。
ハンカチは昨日は山積みになった洗濯物のうえに落とし、スマホの電源わ入れる。
ホーム画面には3件の新着メッセージのお知らせがあった。
内2件は昨日は親からのメール。
1件は同僚の真由美から、車で迎えに行くからいっしょに署まで出勤しないか、とのことだった。
画面上の時計には 5:30 と表示されている。
すぐに出なければという程ではないが、シャワーも浴びることを考えるとあまり余裕はない。
鏡華はコーヒーの残りをぐいっと飲み干すと洗面所へ向かった。
長いクセっ毛な髪を後ろで一纏めにし、鏡華は外へ出た。
階段を下りると、路肩にはシルバーのワゴンが停められていた。
中でウェーブのかかった茶髪でスーツ姿の真由美が待っている。
「昨日はごめんね~」
車に乗り込んだところで真由美は話しかけてきた。
「一人で帰ったらしいけど大丈夫だった?」
「うん、大丈夫」
鏡華ははっきりと答えた。
嘘偽りのない本心からの言葉。
強がりでないことを確認したのか、それを聞いて真由美は明るくなった。
「ならよかった。ほら、私あんたのこと誘っといて他の男と帰ったでしょ?ちょっと悪いな~って思ってたのよ」
鏡華は弁解を述べる真由美の声を無表情のまま聞いていた。
他人から見れば鏡華は無愛想な奴だと思われるだろう。
長年の付き合いである真由美だけが、決して鏡華が自分を嫌っているわけではないと理解していた。
移り変わる景色を眺めつつ、真由美の終わりのない話に鏡華は頷くふりだけしていた。
「……でさぁ、グラス傾ける仕草とかめっちゃかっこいいの~!ってねぇ、聞いてる?」
「聞いてるよ。コウスケさん、かっこいいね」
「ちっが~う、佳祐だってば。ちゃんと聞いててよ?それでねぇ、……」
真由美も聞いていないことを分かっていて話しかけているのだろう。
鏡華のために。
話を止めた時に鏡華が他の、昔のことを考えてしまわぬように。
しかし鏡華はありがたく思うと同時に、そんな真由美の態度に嫌気が差していた。
真由美は鏡華が幸せになれるようにと動いてくれる。
鏡華は幸せなんて望んでないのに。
幸せは2年前に潰えた。
正俊を失って生きる意味をなくした。
もう何を失ってももうかまわない。
鏡華には真由美との関係が崩れる音を確かに聴こえていた。
端から見てもそんな鏡華の暗い雰囲気は目立つ。
ましてや真由美がそれに気付かぬわけがなかった。
正俊が死んでからの鏡華の性格は一変した。
昔は真由美とお喋りするのが好きで、いつものろけ話をもって来た鏡華はもうどこにも居なかった。
駐車場で車を降りると、鏡華は軽くお礼を伝えて真由美と別れた。
交通部の真由美と刑事部の鏡華では持ち場が異なるので、署内に入れば出会うことはまずない。
室内に入ると既に出勤している人がいくらかおり、鏡華はその中でも大きなデスクに陣取った太めの男に話しかけた。
「西警部、おはようございます。」
西警部と呼ばれた貍親父は不快感を露にして、
「あぁ、おはよう。今朝はまた随分ごゆっくりな出勤だね。真面目に仕事する奴はもっと早く出勤するものだと思っていたんだがね?」
と、嘲りの言葉を浴びせてきた。
「本日の出勤時間には十分に間に合っていますし、他の方より仕事をしていないということもないので十分かと」
「仕事をしっかりしているというのかね?乃木君、君のところは今月に入って何件検挙したかな?」
突然話を振られた若い刑事はしどろもどろになりながら答えた。
「はっ!さ、3件になります!」
「鏡華君、君は?」
「…1件です」
「ほら見たことか、新人にすら劣る成果で仕事をしているだって?バカ言っちゃいけない。刑事は犯罪者を捕まえてこその仕事だろう!私達の頃はみんな血
眼になって罪人を探したものだ、それなのに君ときたら」
貍親父はそう言ってわざとらしくため息を吐いた。
鏡華にも言い分はある。
わざと検挙の難しい仕事を回されているしこれに関しては早く来たからといって解決するものではない。大体が昨日までは誰より早く出勤していた。連日の苦労の為一日少し遅くなったらこれだ。
「私は君を憎くて言ってるんじゃない、刑事としての心構えを説いているんだ!」
嘘つくな貍。
鏡華は心の中で叫んだ。
彼女と西警部の関係が険悪なのはこの場にいる全員の知るところだ。
まぁ恐らく原因を完全に把握しているものは少ないだろうが…
「では警部、遅く出勤した分を取り返そうと思うので失礼します。」
鏡華はこんな長話付き合ってられないとばかりに言い捨てた。
貍親父も不満そうではあったが文句は思い付かないようだ。
「昨日の今日で災難ですね」
デスクにつくと隣の西園寺未来が小声で話しかけてきた。
「なんでもまた奥さんと喧嘩したらしいですよ、警部」
その八つ当たりだと思うと鏡華もやるせない気持ちになる。
「なら早く離婚しちゃえば良いのに」
「それが出来ないのは鏡華さんだって知ってるじゃあないですか…」
西園寺は最近の若者らしいタイプでショートの巻き髪が特徴である。
署内の嫌われものとして鏡華とは一くくりにされがちだが、その理由は真逆にあることを鏡華は知っている。
「そんなことより空き巣の新しい情報とか入ってないの?」
「えっと、届け出が1件増えて計13件。今度は神保町の60代女性宅です。例によって盗られたものは思い当たらないそうです。侵入経路も不明、手がかりもありません。」
「同一犯と見て良いかしらね、犯行時間の特定と周囲のカメラ映像、それに聴き込みまで今日中に終わらせるわよ」
「はっ、はい!」
鏡華はデスクの資料と家から持ってきた資料を1つに纏めると、現場へと急いだ。
面白くなーれ!




