表
切ない恋愛の短編です。少しBLの要素が入っているように感じられるかもしれませんが、BLでは在りません。「表」が前半、「裏」が後半となります。「表」だけだとアンハッピーエンドかもしれません。
表
黄昏の戦場に、一つの影が在った。
血と鉄と火薬の匂いで噎せ返るような中、その影だけが凛として立っている。
足軽の一人が、その影を見て悲鳴を上げた。影がその男を振り返る。
影は、形だけなら人の姿をしていた。だがその、黒い髪の間から覗く耳は鋭く尖っており、長い前髪の奥に見える細い目は血のように紅い。
足軽達が、必死の形相で逃げ出した。その影は顔を顰め、死体の上に座った。そして腰の袋から食料を取り出し、口に放り込む。
「鬼だ、戦場の鬼だ!」
影―――鬼は叫んだ男をぎろりと睨んだ。男は息を飲み、腰を抜かして、それでも逃げようと這いながら鬼から離れる。
鬼は死体から着物を剥ぎ取る。襤褸切れで刀の血糊を拭き取り、数本の刀を布で束ねた。鬼はちらりと死体に目を向け、唇を舐める。が、微かに眉宇を顰めると、頭を振って死体に向き直った。
「……貴方が、死体を喰らう鬼?」
ちりん、と鈴の音がした。鬼が弾かれたように振り返る。巫女の服を着た女が立っていた。艶やかな黒髪には、透明な硝子製で、桃色の桜の飾りが描かれた鈴が括り付けられていた。
女は鬼に近付いた。鬼は刀を構え、血色の目を鋭く細める。
「そう警戒しないで。随分と……美しい鬼も居たものね」
女は足を止め、微笑む。
「貴方―――人鬼なのでしょう? 人に戻る気は無い?」
女の言葉に、鬼は顔を上げ、目を瞬かせた。
「私はスズ。悪い妖怪を退治し、人を救う仕事をしているわ」
女、スズは鬼に手を差し出した。
「ねぇ、ガオウ。貴方は幸せだったのかしら」
布団に寝、か細い声でスズが言う。鬼――ガオウは何も言わず、スズのくすんだ髪を撫でた。
「ガオウさん! ねぇ、母上様、もう入って良い?」
障子を開き、幼児が顔を出す。
「まだよ、愛之介。もう少し外に居てね」
スズが言い、幼児、愛之介は返事をして障子を閉める。
「……流行病なんて、情けないわね……貴方は鬼だから平気なのかしら、ガオウ」
ガオウは答えない。只、前髪の間から覗く目が、悲しげに細められた。
「貴方はまだ、人を愛せない? 人に戻れない?」
ガオウは答えない。
「……愛之介を託していいかしら。あの子は武士になるわ。強くなる、きっと」
ガオウはやはり、黙っている。が、スズは微笑んで、膝の上で握られているガオウの手に自分の手を重ねた。
ガオウは口を開く。鋭い犬歯がその奥に覗いた。
「……ガオウ?」
ガオウは俯いた。そしてスズの顔に触れ、唇を噛む。
スズは小さく微笑み、目を閉じる。ガオウは、余りにも軽くなったその体をそっと抱え上げた。ガオウはスズの、俯いた額に唇を押し当てる。
「ガオウさん、」
愛之介がガオウとスズを見上げる。
「母上様、寝ちゃったの?」
ガオウは小さく頷いた。そしてスズを抱えたまま、愛之介を連れて廊下を歩く。
スズの髪から、硝子の鈴が滑り落ちる。愛之介がその鈴を拾い上げた。
「これ、綺麗だよね。貰って良い?」
ガオウは暫時愛之介を見詰め、頷いた。
凛とした羽織袴姿で、愛之介は屋敷の廊下を歩いていた。
「ガオウ、居るか?」
愛之介が障子を開く。部屋の中に居たガオウは愛之介を振り返った。相変わらず髪は長く、目は紅い。
「ガオウさん」
ふにゃり、と愛之介の表情が緩んだ。愛之介は倒れ込むようにガオウの後ろで膝を付き、背後からガオウに抱き着く。
「ガオウさん、疲れた……父上様、いつも優しいのに会議の時は怖いんだもん」
愛之介の髪を束ねていた紐を引き抜き、ガオウはその頭を撫でる。愛之介は緩んだ笑みを見せてガオウの首に手を回した。
ガオウは磨いていた刀を仕舞い、愛之介を体ごと振り返る。そして、懐から櫛を取り出した。
「髪やってくれるの?」
ガオウは頷く。愛之介は嬉しそうに正座した。
ガオウは愛之介の髪を梳かし、丁寧な手つきで髪を束ねる。愛之介は何かを思い出したようにガオウを見上げた。
「ガオウさん、今日、一緒に寝て良い?」
手元が狂ったのか、ガオウは微かに顔を顰めた。そして愛之介の言葉に、呆れたように息を吐く。
愛之介はスズの子らしく、妖怪や幽鬼の類に敏感であった。ガオウは呆れ顔で、しかし頷いて了承する。
「よしっ! じゃ、また頑張って来るね、ガオウさん!」
愛之介は笑顔で立ち上がる。そして、障子を開いて外に出た。
瞬間、緩んでいた顔が引き締まり、無表情がその顔に凝る。愛之介はガオウを振り返り、手を差し出した。
「ガオウ。今日も『俺』をよろしく」
ガオウは愛之介の手を握る。愛之介はまた、顔を緩ませて小さく笑った。ガオウがその頬を摘む。愛之介は首を横に振って表情を洗った。
ガオウは愛之介に従って部屋を出る。血のように紅い目が、愛之介の腰帯に吊るされた鈴を見遣った。
ガオウは目を僅かに細め、空へと視線を移す。ざあっ、と風が吹き、庭の紅葉が揺れた。木の塀の向こうからは、子供達の笑い声が聞こえてくる。秋の空は何処までも蒼く、澄み切っていた。
鈴が鳴る。ガオウは視線を前へと戻し、小さく頭を振った。
蝋燭の明かりを消し、ガオウは布団に入る。既に隣の布団には愛之介が寝ていた。愛之介はガオウに近付き、胸の前で手を握る。
「……入って良い?」
ガオウは黙って自分の布団を持ち上げた。愛之介は顔を輝かせ、ガオウの布団に移動する。そして、横向きになったガオウに擦り寄った。
「ね、ガオウさん……我儘、言っていい?」
ガオウは僅かに目を細める。愛之介は其処に疑問を読み取り、言葉を続けた。
「……その、く、口……」
愛之介の顔がみるみる赤くなる。ガオウはそれで意図を察したのか、愛之介の頬に手を当てた。愛之介は固く目を瞑る。
「んぅ……?」
ガオウは愛之介の唇に、自分のそれを重ねる。そしてそっと、頬に添えていた手を首元へと下ろす。愛之介はガオウの首に手を回した。
「……ふふっ」
ガオウが離れても、愛之介は手を離さず、顔をとろけさせる。そして、ガオウの胸元に額を押し当てた。
「ガオウさん……大好き……」
愛之介はガオウの手を握り、やがて寝息を立て始める。ガオウは黙ってその背を撫でた。
「……行きたくないな」
愛之介は鎧兜を身に付け、そう零した。
戦が起きたのだ。武士である以上、愛之介はそれに駆り出されることになる。
「俺がちゃんと女だったら、戦になんて行かなくて済むのに」
ガオウが愛之介の髪を整えながら、首を捻った。愛之介は笑う。
「ガオウさんは来なくていいよ。また人を殺したら、きっと、鬼に戻っちゃう。それは駄目だよ」
愛之介はそして、表情を引き締めた。そして、ガオウを振り返る。
「頑張るから。……ねぇ、ガオウさん」
愛之介はガオウの胸に手を当てた。武骨な鎧に覆われた手に、ガオウの手が重なる。
「俺、必ず戻って来る。だからさ、帰ってきたら、返事を聞かせて?」
ガオウの手を握り、愛之介はガオウを見上げる。
「ガオウさんは、母上様が好きかも知れない。でも、俺、ずっと小さいころから一緒に居てくれた、ガオウさんが、好きだ。……親愛じゃないよ」
愛之介はそして、気恥ずかしそうに微笑んだ。ガオウは目を瞬かせる。
「じゃ、行ってきます」
愛之介が踵を返し、部屋を出て行こうとする。ガオウは少し俯き、それから愛之介の手を握って引き留めた。
「?」
振り返った愛之介の腰紐に、ガオウは、硝子の鈴を括り付ける。それから、そっと愛之介の頭を撫でた。
「……ガオウさん」
ガオウは小さく口元を笑わせ、愛之介の背を押した。
噎せ返るような血臭に、愛之介は顔を顰めた。既に馬は逃げた。愛之介は曲がった刀を足で踏んで直し、兜の緒を引く。
「くっ、」
愛之介は周囲を見回して、退路を探した。既に軍勢は敗北、父達も敗走を始めている。愛之介は重い兜を引き摺るようにして走った。
戦場近くの村が見えて来た。愛之介は敵兵が追ってくることを考え、藁が積まれている納屋の近くに隠れる。
「はあっ、はあっ、はあっ……!」
愛之介は苦い顔で、腰に在る鈴を握る。
「ガオウさん……助けて……」
愛之介は俯いて呟いた。
「……?」
その愛之介に、影が掛かる。愛之介は顔を上げ―――顔色を変えた。敵国の旗を背負った二人の男達が、愛之介の兜を掴む。
「わっ!」
愛之介は兜を押さえようとするが、遅い。男が兜を剥ぎ、愛之介の顔が日の本に晒された。愛之介は舌打ちをし、刀を握る。
が―――男達の一人が、その刀を蹴り飛ばした。
「この顔……女か?」
「っ!」
愛之介は、驚いたような顔をしている男の足を払い、立ち上がって逃げ出す。最早荷物となる鎧兜を脱ぎ捨て、母親の鈴と、ガオウの牙から作った懐刀だけを握り締めて―――
愛之介は足を滑らせて転んだ。男が愛之介の足を掴む。良く鍛えられていても、その足は細くて白かった。
「やっぱり女だ! おいお前!」
男達が、愛之介を引っ張り寄せる。愛之介は恐怖に顔を引きつらせた。
「声出させるなよ、俺達だけで楽しんじまおう」
「そうだな、其処の納屋借りるか……」
愛之介の口に、男が布の切れ端を詰め込む。何をされるか察したのか、愛之介は顔を蒼白にした。
「うーっ! うーっ!」
愛之介は男の顔を蹴り飛ばす。男は顎を押さえて顔を顰めた。
「男の格好なんかしてるんだ、何か事情が在るんだろ? 大声出すなよ、人が集まるぜ」
「うー……」
愛之介は懐刀を掴む。男がそれを見付け、愛之介の腹に強烈な蹴りを入れた。
「――――っ!」
愛之介は体を折って咳き込む。男は愛之介の襟首を掴み、納屋の戸を開いて中に放り込んだ。腰帯が外れ、鈴と懐刀が戸の外に落ちる。
男が納屋に入り、ぴしゃり、とその戸を閉じた。
「ひっ……」
藁の上に放り出され、愛之介は服の襟を掴む。
「嫌だ、止めろ、来るな……」
男が愛之介の肩を押さえつけ、もう一人が服を大きくはだけさせる。愛之介は嫌悪を顔に剥き出しにして叫んだ。
「止めろって言ってんだろうがこのクソ野郎共―――っ!」
愛之介が、悲鳴にも近い叫びを発して男の顔に蹴りを喰らわせようとして――――男に足を掴まれ、息を飲んだ。
「あんまり調子に乗るなよ、女如きが」
男が愛之介の首を掴む。もう一人が、愛之介の両腕を掴み、胸に巻かれたさらしをむしり取った。
「男の真似事なんかしねぇで、家で大人しくしてればいいんだよ、女はよ!」
男は愛之介の両脚を開かせた。愛之介は絶望を顔に浮かべる。
「嫌だ、助けて……うあっ!?」
「何だ、やっぱり生娘か……悪くねぇ」
「あ、あ、あ……うわあああああああああああああああああっ!」
愛之介は、両腕を掴まれたまま体を仰け反らせ、絶叫した。
家の門の近くに立ち、ガオウは待っていた。間も無く、強い血の匂いと共に、軍勢が戻って来る。ガオウは、その先頭に居る、愛之介の父親に駆け寄った。
「ガオウ! 愛之介は、愛之介は帰っているか!?」
父親の言葉に、ガオウは困惑顔で首を横に振る。父親は青い顔になった。
「……まさか、」
死んだのか。その言葉を、父親は飲み込む。ガオウは暫時俯いて黙り込み――――そして、鋭く、戦場の方を見遣った。
「ガオウ?」
ガオウは何も言わずに走り出す。引き留める声がするが、それに構わず、ガオウは足を速めた。その顔には、苦々しい焦燥が浮かんでいる。
ガオウは紅い目を細め、戦場を見渡した。何度も見慣れた光景だ。ぎり、とガオウの牙が鳴る。
「――――!」
ガオウは鋭く、戦場近くの村を振り返った。そして、顔色を変えて走り出す。
悲痛な鈴の音が、ガオウには聞こえていた。
藁と衣の上に倒れたまま、愛之介は虚ろな表情で天井を見上げていた。男達は、反応を示さなくなった愛之介に、つまらなそうな視線を向ける。
「此奴の父親、敵方の武将だよな?」
「此奴に案内させて首を取るか……」
戸が蹴り開けられた。
「「っ!?」」
男が同時に入り口を振り返り、愛之介は、光に眩しそうに目を細める。
「……何だ、てめぇ!?」
入って来たのは―――ガオウであった。ガオウは藁の上に愛之介を見付けると、男達には目もくれずにそちらに向かう。
「……ガオウさん……?」
ガオウは、脱がされていた衣で愛之介の体を包み、肌を隠す。愛之介はしばしぼんやりとした表情でガオウを見上げていたが―――やがて、くしゃりとその顔を歪ませた。
「ガオウさん……!」
愛之介はガオウにしがみつく。ガオウもそれを受け入れ、幼子をあやすように、愛之介の背を撫でた。
それから、ガオウは殺気の漲る視線を、呆然としている男達に向ける。男達は青い顔になった。
「こ、此奴、鬼だ! 人鬼だ!」
男の一人が叫んだ。ガオウは顔を顰める。
「鬼?」
「戦場で、死体を喰らう鬼だよ! 大昔は人間だったんだが、咎を重ねて人の言葉と体を失った、化け物だ!」
もう一人に説明し、男は腰を抜かした。ガオウは愛之介から離れ、男に向き直る。
ざわっ、と、その髪が逆立った。艶やかな黒であった髪は、目と同じく、血のような紅色へと変わる。
「ガオウさん、駄目だ! 殺したら鬼に戻っちゃうよ!」
愛之介が叫ぶが―――ガオウが伸ばした手は、既に男の首に届いていた。
「ぐげっ!?」
「ガオウさん!」
男が白目を向いて泡を吹く。愛之介は後方からガオウに抱き着いた。
「駄目だよ、そっちに行っちゃ駄目だ! ガオウさんは、人間なんだろう!?」
ガオウは二人目の頭を掴み―――そこで手を止めた。愛之介はほっとしたように息を吐く。ガオウは納屋の外に出ると、帯と鈴、懐刀を拾って愛之介に突き出した。
「……ガオウさん、」
ガオウの髪は、日の本で見ると更に鮮やかな紅だ。異形と呼ぶのがまさにふさわしい姿であった。愛之介の顔に、僅かに畏怖が浮かぶ。
ガオウは心配しているように愛之介の頬に手を伸ばし―――触れる寸前で、手を引っ込める。愛之介はその様子に、苦い顔になった。
「……帰ろう、ガオウさん」
ガオウは愛之介を背負った。愛之介はガオウの首元に顔を寄りかけ、目を閉じる。
「……ガオウさん、人の言葉を失ったって……何?」
ガオウは歩き出す。愛之介はガオウの首に回した手を握った。
「ガオウさんが喋らないのは、まだ鬼だからなの?」
ガオウは小さく頷いた。愛之介はガオウの紅い髪に目を細める。
「……母上様が、好きじゃなかった? 俺も……大切じゃない? 鬼の心を持ったままなの?」
ガオウは首を小さく横に振った。愛之介を背負い直し、ガオウは裸足の足で土を踏みしめる。
「じゃあ何で? 何で何も言ってくれないの? 俺、……ちょっとで良いから、ガオウさんの声聞きたい……ねぇ、もう、撫でるとか触るとかじゃなくて、言葉で慰めて欲しいんだよ……!」
愛之介は額をガオウの髪に押し付ける。
「……痛いよ……」
ガオウはやはり、何も言わずに歩を進める。愛之介はガオウの背で、静かに涙を流し始めた。
ガオウは絞った布を、布団に寝ている愛之介の額に乗せた。髪は既に黒髪に戻っている。愛之介は苦しそうな顔になった。
「ガオウさん……俺、死ぬの?」
ガオウは首を横に振った。そして、足音に廊下を振り返る。
「愛之介」
愛之介の父親だった。ガオウは小さく頭を下げる。
「愛之介……どうだ? 熱は下がったか?」
「父上様……大丈夫です、でも……」
「ガオウ、お前は下がっていろ」
父親の言葉に、ガオウは暫時、愛之介を見詰める。愛之介は首を横に振って起き上がった。
「嫌です、ガオウさんには此処に居て欲しい……」
「愛之介、大事な話だ。我慢しなさい」
ガオウは小さく礼をして廊下に出る。愛之介は少しだけ残念そうな顔になり、布団に横たわった。
「……熱が下がったら、家を出るぞ」
「え?」
「我々は負けたのだ。死にたくなければ―――逃げなければなるまい」
父親はそして、愛之介の頬をそっと撫でた。
「戦場で嫌な思いをしたお前は、暫く行きたくないだろうが……あの戦場を通り、都の方面に向かう。護衛は二人と、ガオウだ。良いな?」
「……はい」
愛之介は小さく頷いた。
馬にまたがり、愛之介は苦い顔になった。ガオウが馬の手綱を取る。愛之介は前を向き、顔に無表情を凝らせた。
ガオウは、少々先に行っている父親を追って歩き出す。
戦場が近付き、愛之介の表情が硬くなる。ガオウは愛之助を見上げた。
「――――っ!」
ガオウが息を飲んだ。愛之介の体が傾き――――落馬する。ガオウは手綱を離し、愛之介を受け止めた。
「愛之介っ!?」
父親が馬を止め、振り返る。その左右に居る護衛の足軽二人が、鋭く視線を交わした。
愛之介は顔を赤くし、荒い息を吐いている。ガオウは額に手を当てた。酷い熱だ。
「愛之介、大丈夫か!?」
父親がガオウの横に降りる。ガオウは水が入った竹筒の栓を抜き、口に水を流し込んだ。愛之介はガオウの服の袖を掴み、荒い息を吐く。
「ごめんなさい、ガオウさん、父上様……病気、治ってなかった、みたいです……」
ガオウは愛之介を抱き寄せ―――はっとして振り返る。そして、何かを叫ぼうとするように、大きく口を開いた。鋭い牙がむき出しになる。
「ガオウ?」
その、鬼のように恐ろしい顔を正面から向けられ、父親は困惑した顔になった。
そしてその父親の背後では、二人の護衛が、刀を振り上げていた。
「御免!」
刀が振り下ろされる。ガオウの顔面に、血飛沫が飛んだ。
「……御館様、我々はまだ、永らえたいのです……ガオウ殿、愛之介殿、三人の首を差し出せば敵将に取り入るも容易……」
ガオウは愛之介の目を覆い、地面に転がった父親の首を見つめる。
「ガオウ殿、貴方の事は前々から存じ上げておりました。古の時代より生きる、人にも妖にもなりきれぬゆえに、言葉も死も持たぬ怪物だと……」
ガオウは愛之介を両手で抱えて立ち上がる。そして髪の間から鋭く、二人を見た。
「しかし、情に絆された貴方など、最早冷酷な鬼ではない……恐るるに足りぬ!」
二人が同時に、ガオウと愛之介に切りかかる。ガオウは小さく息を吐いた。
――――鬼は貴様らだ。その唇が、声もなくそう紡ぐ。
ガオウは飛び上がった。人鬼の跳躍力は、常人のそれを遥かに凌ぐ。愛之介を抱えているとはいえ、ガオウが足軽二人如きに負ける道理は無かった。
ガオウは一人の顔面を踏み、二人を蹴り飛ばして地面に転がす。その隙に馬の手綱を取り、愛之介を抱えたまま、ひらりと馬に飛び乗った。
ガオウはそして、馬を走らせる。愛之介はガオウに抱えられたまま、体を丸めて震えていた。ガオウは愛之介の頭を撫でる。
「ガオウさん……俺もう、死んじゃ駄目かな」
愛之介が呟いた。
「母上様を、流行病で失って、女であることを隠して生きて、男達に弄ばれて、病気になって、父上様も失った……俺、ガオウさんが居なかったら、もう死ぬよ……?」
ガオウは、追っ手を振り切ったのを確認し、馬を止める。そして、愛之介を抱えて馬から降りた。戦場からそう遠くない、山のふもとである。
ガオウはそのまま、馬を放って歩き出す。愛之介は黙って揺られていた。
やがて二人は、山の中腹、小さな泉が在る場所にたどり着いた。木の間から差し込む日光に照らされ、鏡のように凪いだ水面が輝いている。
「……ガオウさん?」
ガオウは泉の畔に愛之介を寝かせた。そして、優しく、その髪を撫でる。
「……嘘でも良い、死ぬ前に一回で良いから……俺が好きだって、言ってくれないかな、ガオウさん」
愛之介は弱々しく微笑んだ。ガオウは泉の水で顔の血を濯ぎ落とし、愛之介を振り返る。
暫時、二人は黙っていた。ガオウの無表情からはやはり、その心中を窺い知ることは難しいが――――
「……嘘は苦手だ」
掠れた深い声で、そう、ガオウが言った。愛之介は微かに目を見開く。
「スズには感謝している。だが俺が欲しいと思うのは、アイだよ」
ガオウはそして、優しく微笑み、愛之助の上に屈んで口付けをする。酷く不器用で、しかしとても優しい口付けであった。
「ガオウさん……」
ガオウはそっと愛之介を抱き寄せた。愛之介も、ガオウの背中に手を回す。
「俺は、アイが、お前が、好きだよ」
そう言ったガオウに、愛之介は涙を浮かべ、満足そうに微笑んだ。
愛之介の体から、力が抜ける。閉じた両目に手を翳し、ガオウは俯いた。
「お休み、アイ」
そして―――急速に、ガオウの姿が変化する。
艶やかであった黒髪は、老人の如く真っ白になり、手足も枝のように細くなる。やがてその体は、砂のように崩れ落ちた。着ていた服も、持っていた懐刀も、その砂の上にわだかまる。
硝子の鈴だけが、寂しげに、地面に転がって音を立てていた。




