記録116 女候殿について
侯爵位を持つ唯一の女性であったことから、『女候』という言葉はいつしか彼女個人のことを指すようになった。すでに彼女は爵位も領地も返上しているが、それでも人々は畏敬の念を込めて──あるいは皮肉を込めて、彼女のことを『女候殿』といまだに呼んでいる。
かつて、彼女は皇族との血縁を持つ上級貴族であった。皇位継承権こそ持っていなかったが、革命後の世界においてはむしろそれは利点となった。
共和政府が革命によって帝都を掌握すると、帝都に隣接する領地を持つ彼女は共和政府に帰順することを選び、そして自分自身を高く売りつけることに成功する。爵位と領地こそ放棄したが、彼女の私宅や帝都の別邸を始めとする私有財産が奪われることはなかった。
帝国内外の上流階級との人脈を持つ彼女を、共和政府は重用した。
かつては帝国貴族であった彼女が、いまでは共和政府の外務卿を務めている──この端的な事実からしても、彼女の恐ろしいほどの計算高さと強かさを感じずにはいられない。
そんな女候殿が、この自由カオラクサにやってくるという。自由カオラクサを経由地として、フォーゲルザウゲ伯爵家の襲爵式に出席することが彼女の目的である。
なるほど、確かに、帝国貴族の襲爵式の承認者として女候殿は相応しいだろう。女候殿は、襲爵式における皇帝の名代としては十分な血筋の人間である。(すでにオルゴニア帝国皇帝がいないということを除けば、その正統性に非の打ち所がないだろう)
さて。
そんな女傑をこの自由カオラクサに迎え入れて、その上、フォーゲルザウゲ伯爵家領都まで一緒に旅することになるわけだが……正直なところ、気が重い。気が滅入るといってもいい。
なにせ、女候殿についてはいろいろな噂を聞いたことがある。恐ろしい噂、おぞましい噂、驚くべき噂……。そのすべてが真実というわけでもなかろうが、すべてが虚偽というわけでもないだろう。
そんな毒婦と、わたしは対面しなければならないのだ。




