もうひとりの、気になる彼女
数日後。
僕はバイト先で、シフト表の前に立ち尽くしていた。
大きな模造紙には、夏休みいっぱいの日付がずらりと縦長に区切られている。
その頭には一日おきに、「長」という字が書きこんである。これが、僕のシフトだ。
ときどき、その上半分か下半分にも同じ印があるが、これは午前と午後、早番と遅番にあたる。
僕は、その、空白になっているところを睨みつけていた。
特に、今日の遅番の辺を。
面壁九年という言葉がある。
禅宗の開祖、達磨大師は壁に向かって九年もの間、ずっと座り続けて悟りを開いたという。
僕はせいぜい、10分かそこら立っていただけなので、そこまで達観することはできなかった。
だが、自分自身に許された時間と体力、他のスタッフの都合なども考え抜いた上で、結論にはたどりつくことができた。
「すいません店長、この日と……この日もバイト入っていいですか?」
もう、限界だった。毎日フルタイムでバイトしないと、食費だけで人生が終わりそうだった。
といっても、僕が食う分ではない。
僕はこのところ、ほとんど何も食べていないので、立っているだけでも奇跡だった。
店長は心配そうに、僕の顔を覗き込む。
「何があったの? なんか疲れてるよ」
疲れた目の辺りが、じんわり痛んだ。
……いろいろ、あった。
でも、それは僕だけの問題だ。
誰に助けを求めることもできない。
「いえ、あの、もう……疲れてないです、全然」
そう言うしかない。
1ヶ月。
その間、何事もなく耐え抜けば、夢のような生活が待っている。
食費の心配さえしなければ。
そんなことなど知る由もない店長は、ずけずけと尋ねてくる。
「そう……? で、その子は?」
疲れの原因そのものだった。
アルバイトについてくるようになった紫衣里は、やりもしないゲーム機の前にちょこんと座っている。
長い黒髪がこぼれる白いワンピースは、少し暗めの照明の中ではぼんやりとした光を放つかのように映える。
他の筐体に向かっている男性客は、その清楚な姿をそわそわしながら何度となく眺めていた。
紫衣里は、そのまなざしに気づく様子もない。
光が全身をまとっているとしたら、すべて空気の中に溶かしてしまっていたのだろう。
おかげでゲームのほうは手がお留守になり、ミスでゲームオーバーを連発する羽目になる。
そのたびに何人もがコインをスロットに投入するので、店としては思わぬ儲けになっていた。
店長としては、気にならないわけがない。
話題の中心人物になっているのに気付いたのか、きょとんと首をかしげてみせる。
「私……ですか?」
澄んだ瞳がじっと僕たちを見つめているのが分かる。
白いワンピース姿の、黒髪の美少女に思わず見とれてしまったのか、しばらく黙りこんでいた店長が囁いた。
好奇心というには、畏れさえ感じさせる遠慮がちな口調だった。
「……彼女?」
そうだと思いたい。
いや、もう同棲しているのだから彼女だと言っていいのか?
でも、気持ちを確かめたわけでも何でもない。
だいたい、彼女を任される条件をクリアするまで、まだ3週間はある。
そんなことを考えていた僕は、紫衣里のまなざしを感じて、大事な話の最中でもしどろもどろになった。
「あ、その、いえ……それで、今日も」
その原因を察したのか、店長は話を打ち切りにかかる。
「まあ……長谷尾君がシフト増やすのは、いいんだけど……ね」
歯切れが悪い。
店長が見やった先に目を向けて、今度は僕がその理由に気付いた。
従業員用の出入り口から、ポロシャツにキュロット姿の女の子が、ポシェットを肩から下げてやってきたのだ。
アルバイトは、もう1人いる。
急にシフトを入れなければならなくなったか、店長が頼んだか、どちらかだろう。
いずれにせよ、それほど流行っているゲームセンターでもない。半日にアルバイトは2人もいらなかった。
限界があるのは、店長も同じことだ。
それを気遣ったのか、アルバイトの女の子は明るい声で口を挟んだ。
「あ、アタシは別にいいんです」
板野星美。別の高校に通う2年生だ。
早めに出勤して次のシフトを待つ彼女に遠慮されて、僕は曖昧に微笑む紫衣里の顔を見た。
返事は、ない。
ただ、僕をまっすぐに見つめるだけだ。
僕も、言葉がなかった。曇りのない瞳にたしなめられたようで、胸が痛む。
板野さんは、つらい事情を抱えているのだ。
長い付き合いだから、知らん顔もできない。
もちろん、紫衣里がそんなことを知っているはずもない。
だが、その眼差しには、自分に嘘をつくことを許さない、まっすぐで清らかで、厳しいものが感じられた。
情にもろい店長が、僕と紫衣里の間へ、おずおずと割って入る。
「星美ちゃんが困るでしょうに……」
板野さんのところは母子家庭で、生活は結構苦しいらしい。それでも無理して、遠くに見える金華山のふもとにある中高一貫の私学に編入したのは、中学でいじめに遭ったからだ。
……って、店長からは何となく聞いてるだけだけど。
知りたくもない。
板野さんには似合わないし、そんな目に遭わせた連中がいたとしたら、許せなかった。
そんな過去は微塵も感じさせない明るい笑顔を、暗いゲームセンターの中で見せながら、はきはきと板野さんは答える。
「いいんです、学校は通えてますから」
板野さんは健気に言ったが、このアルバイトも実は校則違反らしい。
学校から離れたところでこっそり働いているのを、店長は巧みに隠している。
そんなわけだから、たったひと言でも、僕には重く聞こえるのだった。
「長谷尾くん……」
そこには、僕に分別を促す無言の圧力がある。
いくら店長が板野さんに同情していても、働いていない時間には給料を支払えない。
事情も言えない女がらみのごたごたを抱え込んだ僕のほうが、シフトから外れるしかないのだった。
「……すみません」
僕は頭を下げる。
板野さんのアルバイトは、生活を支えるためのものではないらしい。
いかに生活が苦しかろうと、娘に校則違反をさせるような母親ではないのだ。
聞いた話では、修学旅行の資金稼ぎにすぎない。
その点では、実際に食うや食わずの状況に叩きこまれた僕のほうが、よほど追い込まれている。
だが、それでも胸が痛むのは、僕の良心がうずくからだ。
……一生に一度しかない、高校の修学旅行を取り上げるわけにはいかない。
だが、板野さんは笑みを浮かべた顔の前で手を振ってみせた。
「あ、長谷尾さん、私のことなら……」
僕のことも気にしてくれている。
そんな様子を見ると、胸が締め付けられるような、変な気分になる。
でも、その一方で、紫衣里の表情も気になって仕方がなかった。
「……あの」
どんな気持ちでこのやり取りを聞いていたのかと思うと、思わず、言葉に詰まる
返事はない。
紫衣里は、ついと席を立ったところだった。
振り向いて、僕をじっと見つめる眼差しは、まっすぐで、冷たく、厳しい。
たった一瞬だったが、僕の足はすくんだ。
僕は慌てて、ひょこたらひょこたら後を追う。
無断で抜けるわけにもいかないので、捻った首だけで振り向きながら、店長に告げる。
「すみません、ちょっと休憩ください」
板尾さんが、拍子抜けしたように呼び止めた。
「あの……長谷尾さん?」
何かのつもりがあったのだろうか。
それとも、何か見当外れのことを言ったのだろうか。
ちょっと戸惑ったが、ふと正面の壁に掛かった時計を眺めてみて、やっと見当がついた。
休憩もなにも、もうすぐ午前中のシフトは終わりだった。
念のために腕時計を見ると、5分ほど遅れていた。
というより、店の時計が5分進めてあるのだ。
客を急がせて席を立たせ、筐体の回転を速くしようとしているのだろう。
そこで、ここぞとばかりに店長は言った。
「ああ……じゃあ、今日はもういいよ、星美ちゃん入って」
体よく追い出されたわけだ。
僕の負けだった。
仕方なく、元気いっぱいに返事してみせる。
「じゃあ、後よろしく、板野さん!」
満面の笑顔で、板野さんは答えた。
「はい! 長谷尾さん、また明日!」
店の奥にある更衣室へ駆け込む板野さんの声を背中で聞きながら、僕は紫衣里の後を追った。




