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彼女の名前とスプーンの秘密

 勝負は終わった。

 見物人は、ひとり、またひとりと、と店のあちこちに散っていく。

 老人はというと、対戦者のシートから無言で立ち上がった。

 目を伏せたままこちらを見ようともしない。その表情は固く、いかにも不機嫌に見えた。

 年の割に大人げないといえば大人げない。

 だが、僕もプロを目指している。

 いわば、相手は素人、しかもはるかに年長者だ。

 僕は当然の礼儀として、握手を求めた。

「お見事でした」

 実際、肝を冷やした。ゲーム画面上のキャラクターが、まるで生きているかのように感じられたのだ。

 あのコミカルな「ほら男爵」ミュンヒハウゼンが、たまらなく恐ろしかった。

 本当に僕自身の命が脅かされているのではないかと思ったくらいだ。

 老人の手が、無言で伸ばされる。

 その腕を見て、僕は身体が一歩退くのを感じた。 

「え……!」

 そこには、ただの人間とは違う、獣じみた何かがある。

 しかも、しっかりと握り返してきた掌は、炭火でも押し付けてきたかのように熱かった。

「ちょっと……」

 その先は、息が詰まって何も言えなかった。

 地獄の底から響くような声で、老人は僕に告げる。

「いいだろう、連れていけ。だが……」

 その目は、キッと口元を結んだ少女を見つめている。

 シエリとかいう彼女も、あの澄んだ目を、老人へとまっすぐに向けた。

 僕へのものとは打って変わった冷たさで。

 その時だった。

 この世のものとも思われなかった威圧感が嘘のように思えるほど穏やかな口調で、老人は再び告げた。

「彼女と共にあることを、軽く考えてはいけません」

 何のことだか分からない。

 共にある、とはどういうことなのだろうか。

 何か持病でもあって、付き添いが必要なのかもしれない。

 でも、そんなに長く引き留めるつもりはなかった。

 全ては、彼女の気持ち次第なのだ。

 だから、僕はちらりとその顔を眺めてみた。

「……え?」 

 怪訝そうに彼女は首を傾げてみせる。

 そこで、僕は老人に向き直った。

「ご心配なく。僕も子供じゃありませんし、彼女だって、ええと……」

 横から聞いただけだから、本当は何と言うのか分からない。

 間違えると押しが利かないので、僕は言い淀んだ。

 妙な間ができて、かえって格好がつかない。

 握手したままだったのを思い出して、慌てて手を放した。

 加熱しすぎたインスタントラーメンの鍋を掴んだ後のように、掌がじりじりする。

 見れば、使い捨てカイロでの低温火傷くらいには赤くなっている。

 それをじっと見つめているうちに、どれだけの時間が流れただろうか。

 やがて。

 つぶやくような、しかしはっきりした言葉で老人が答えた。

「シエリ……ナガツキ・シエリ」

 フルネームまで尋ねた覚えはない。

 だが、この老人には、まるで娘を嫁にやる父親のような真剣さが感じられた。

 僕も求婚の挨拶に着た若者のようにうろたえる。

「あ……じゃあ、シエリさんは、その……あまり遅くまでは……」

 自分でも結構な醜態だと思ったが、あの少女を除いては、誰も見ていはしない。店長をはじめとした見物人は、もう散り散りになっていた。

 彼らが見たかったのはシラノとミュンヒハウゼンの対決であって、僕と老人のやりとりではないのだった。

 だが、老人はゲームセンターの電子音に紛れるようにして、僕の耳元で囁いた。

「シエリにスプーンを鳴らさせるな」

「スプーン……?」

 思い当たるのは、最後の必殺技を決めたときに聞こえた、あの音だ。

 あの少女の瞳のように澄んだ、あの音。

 老人がシエリと呼ぶ少女は、ちらっと眺めたところで胸元を隠した。

 確かに、その谷間は目立つといえば目立つ。

 やましい気持ちはなかったが、何か誤解されたかと思って、僕もごまかした。

「いや、あの……」

 いやらしい目で見たつもりはなかったのだが、シエリの仕草を見て思い出したことがあった。

 隠した胸元に光っていた、あの銀のスプーンだ。

 老人の低い囁きが、それを裏付けた。

「君も聞いたでしょう、あの音……」

 覚えている。

 辛いことの全てを忘れさせてくれるような、あの澄み渡る清々しい音。

 それでいて、身体を奥底から燃え上がらせるような……。

 その感覚を思い出していると、老人が重々しく告げた。

「あれは、人の潜在能力を100%引き出す」

 まさかと思うような、荒唐無稽な話だった。

 だが、僕の身体には、あの音の効果が理屈抜きで刻まれている。

 老人の言葉の真偽を確かめようとして、僕はその顔を見つめた。

 だが、その目はやはり伏せられたまま、何も語ってはくれない。

 ただ、問いかける言葉だけが、老人の話の証拠を僕の前にさらけだした。

「君もさっき、経験しただろう? 」

「……それは」

 否定できなかった。

 正直なところ、老人のミュンヒハウゼン男爵を倒した技は、実力だと思いたかった。

 自分でも、「オレつええカッコイイ!」と叫びたかった。

 でも、そうしなくてよかったと思っている。

 あんなプレーが毎回できるかというと、全く自信がない。

 その秘密は、老人の言葉で語られた。

「人の脳に働きかけて、眠っている力を引き出すのです……あのスプーンの音は」

「そんな……」 

 悔しかったが、自分で体験したことだけに、老人の言葉にはリアリティがあった。

 まるで、心の奥底まで見透かしているかのようだった。

 その上、更なる厳しさで告げられたことがある。

「君は、その力をあと1ヵ月の間、使わせてはならない」

「1ヶ月って……」

 期限としては、あまりに唐突な話だった。

 初対面の女の子と2人で過ごす時間としては、長すぎる。

 ひとつ屋根のしたで暮らそうとまでは、思っていなかった。

 本人の反応が気になって、慌ててシエリと呼ばれる少女のほうへと振り返った。

「ええと……」

 少女は何のつもりか、曖昧に微笑んでみせる。

 可愛い。

 まず、それだけで頭の中が一杯になった。

 しばらく呆然としてから、やがて、何のために彼女を見たのか思い出した。

 だが、その笑顔にどんな思いが隠されているのか、皆目見当もつかない。

「いや、あの……」

 彼女の気持ちを量りかねてどぎまぎしていると、いきなり身体が前にのめって、僕は数歩つんのめった。

 老人が無言で、僕をシエリの方へと押しやったのだ。

「あれ……?」

 すっ転びそうになったのを、どうにか踏ん張ってこらえる。

 危なかったのは、もうちょっとで彼女の胸に顔を埋めるところだったことだ。

「ごめん……」

 思わず目をそらしたが、気が付いてみると、老人の姿はゲームセンターのどこにもなかった。

 慌てて外へ駆け出してみる。

 あちこち見渡してみると、見覚えのあるスーツの背中が、ショッピングモールの人混みの中に消えていくところだった。

「待ってくださ……」

 呆然としたまま、皆まで言えないで佇む。

 長い黒髪の少女が、僕の視界を遮って立った。

「よろしくね……ええと」

 その微笑にどぎまぎしながらも、ふっと気が緩んだ。

 そこで僕は、自分がまだ彼女に名乗ってさえいなかったことを思い出した。

「長谷尾……英輔」

 少女は僕の手を取ると、掌に漢字を指で書きながら名乗り返した。

「長……月……紫……衣……里」と。

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