流浪の一族
紫衣里は目を伏せた。
「私くらいの年の女の子じゃないと、ダメらしいんだ」
それは、まだ、大人として扱われていない時期であることを意味する。
だから、僕は聞いてみた。
「大人になると、どうなるの?」
深刻な問題だった。
僕たちがいつまで一緒にいられるかは、そこに懸かっている。
紫衣里は、さらっと答えた。
「赤ちゃんを産むの」
思いもかけない展開だった。
「……はい?」
いきなり話がそっち方面へ飛んで、僕はうろたえる。
男でも頬が赤くなるようなことを口にしておいて、紫衣里は平然と話を続けた。
「子供を産んだら、別の女の子がスプーンを引き継ぐの。そして、その子供は私の年くらいになると、別のスプーンを受け継ぐわけね」
その節目が、今なのだろう。
僕は身を乗り出した。
「そのタイミングって、どうなってるの?」
女の子に守られたスプーンが、世界中にいくつあるのかは知らない。
だが、決まった年齢の女の子にそれを引き継ぐには、相当しっかりしたネットワークが必要だ。
紫衣里は、僕を見つめ返す。
「その時になると、『時のお爺さん』がやってくるの」
ずっと紫衣里のそばにいた、やたらゲームの強いあの爺さんのことが思い出された。
今でも、鮮明に思い出せる。
「リタレスティック・バウト」の対戦中に見せた、あの燃えるような瞳は恐ろしかった。
あれは一度見ただけだったが、その後も何かの拍子に眼前に浮かんで身体をすくませたものだ。
身体が微かに震えるのを感じながら、さらに尋ねる。
「何者なんだ? あの爺さんは」
はっきりとした声で、答えが返ってきた。
鬼、と。
「……私たちの間では、そう呼ばれてる。ヨーロッパだったら、「デーモン」「ダイモン」、インドなら、アスラ……」
紫衣里は、祭文でも唱えるかのようにすらすらと述べ立てた。
憎しみと畏敬の入り混じった、不思議な口調だった。
紫衣里の話を総合すると、あのスプーンを守るために生まれ、成長し、子を産み育てることを宿命づけられた少女がいるということだ。
そのサイクルを守るために、「鬼」と呼ばれる老人たちは少女の前に現れるのだろう。
あのスプーンを携えて。
だが、納得できない。
聞かなければならないことは、まだあった。
「何のために?」
自分でも、声が怒りに震えているのが分かった。
人生を、そんなことのために使われている女の子たちがいる。
勉強したり、遊んだり、恋をしたりすることも知らないで……。
一片の曇りもない、澄み切った声が聞こえた。
「あのスプーンを、私たち以外の者に使わせないために」
笑みをたたえてきっぱり答える紫衣里に、思わず拍子抜けした。
人生の全てを縛られた少女を、何が何でもあの爺さんから解き放つつもりだったのだ。
それを、紫衣里は何でもないことのように答えてみせる。
どうしても、受け止めきれなかった。
「本当にいいのか……そんなんで?」
低く、真剣な問いが、優しく微笑む口元から放たれた。
「あれが私たちの手から離れたら、どうなると思う?」
僕は、ちょっと考えてみる。
e-スポーツで、自分でも信じられないような真似ができたのだ。
頭は冴えわたり、手は思い描いたままに動く。
いいことに使えばそれなりに人の役に立てることだろう。
だが……。
さほど想像力を働かせなくても、答えは出せた。
「世の中、無欲な善人ばかりじゃないってことか」
長い黒髪が、微かに揺れ動く。
「その人たちのためにもならないわ……あれをコントロールできるのは、私たちだけなの」
紫衣里は、ため息混じりに答えた。
そこには、この世の全ての悪に対する、諦めにも似た許しの響きがあった。
あのスプーンを欲に駆られて鳴らすと、ろくでもないことになるらしい。
あまり考えたくはなかったが、知らなくても余計な想像をしてしまうので、敢えて聞いてみた。
「他の人が鳴らすと……?」
紫衣里は、厳しい目で僕を見据えた。
「分からないわ。他の人に渡したことがないから」
その言葉の裏には、僕の想像をはるかに超えた苦しみに耐えてきた者の矜持があった。
僕なんかが口を挟めることではない。
あのスプーンを守り通すことは、紫衣里にとって人生を賭ける価値のあることなのだ。
すると……。
他の恐ろしい想像が、頭の中に閃いた。
それを打ち消したくて、こわごわながら尋ねてみる。
「じゃあ、その……子どもも?」
紫衣里は、必ず産まなければならないということだ。
だが、それはさすがに、聞いてはいけないことだったらしい。
甲高い声で、癇癪じみた声が部屋を震わせた。
「バカ! 嫌い!」
ぷいとそっぽを向くなり、紫衣里はそのまま床でころりと横になった。
さっきの毅然とした態度が嘘のような横着さだ。
だが、恐ろしい宿命を持つ人々の話を聞いてしまった僕には、もうそれを咎める気も起こらなかった。
「悪かったよ……」
そんなことしか言えないのが情けない。
しばしの重い沈黙が、狭い部屋を抑えつける。
自分を、張り倒してやりたい気分だった。
女の子は、難しい。誇り高いときがあるかと思えば、心の深い所を開いてみせるときもある。
だが、それに甘えて踏み込んだりすると、その先は侵すべからざる秘密の聖域だったりもするのだ。
その奥から、微かな囁きが聞こえるまで、どれほど経っただろうか。
「だから、信じられる男性がいれば、共に暮らす資格があるかどうかを試されるの」
それは、何も知らなかった、そして、やはり何ひとつ分かっていない僕への、許しの声だった。




