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衣食に関するリアルな悩み・食料編

さらに、その翌日のことだった。

僕は可愛らしくグラマーな黒髪の同居人に、極力、真面目な顔で語りかけた。

「紫衣里……大事な話がある」

 男が女に、あるいは女が男に、こういう言い方をするときは相当、深刻な事態になっているときだ。 

 それなのに、紫衣里の返事は軽いものだった。

「何?」

 何の疑いもなく、澄んだ瞳を向けてくる。

 思わず気後れしそうになったが、腹を据えて紫衣里の前に正座した

 紫衣里も、それに仕方なく合わせるのように、かしこまって座ってみせる。

 いつも食事に使っている折り畳み式のちゃぶ台を挟んで、僕たちは正面から向き合った。

 黒い瞳をまっすぐに見つめて告げる。

「これからの……僕たちに関することだ」

 紫衣里は、いたずらっぽく微笑みながら尋ねる。

「私たち……って、そんな関係?」

 僕をからかうかのような口ぶりだった。

 冗談だと分かっていても、ズキっとくる。

 一緒に暮らし始めて10日かそこらにしかならないが、それでも、紫衣里はかけがえのない存在になっていた。

 紫衣里は、どう思っているのだろうか。

 ただ、僕が何を言い出すか笑顔で待っているだけなのだが、相変わらず、どこまで本気なのか分からない。

 だが、ここで怯むわけにはいかなかった。

 ここから先は、本当に避けては通れない問題だった。

 紫衣里と、いつまでも暮らしていくためには。

 まず、これだけは言っておかなければならないことだった。

「僕は君を投げ出したりしない。あの爺さんはどういうつもりだったか知らないけど……」

 鬼の眼をした、あの爺さんがつけた条件が、その恐ろしげな声に乗って脳裏に蘇る。

 それは、目の前の、豊かな胸元に輝いているものについての警告だった。

 人間の力を極限まで引き出す音を奏でるというスプーンだ。

……その力を、あと1ヵ月の間、使わせてはならない。

それが守れるなら、紫衣里は僕に任せられることになっている。 

あのとき、ゲームの賭け物にされた紫衣里はというと、さらりと答えた。

「信じた相手にしか任せないわ、私を」

 目を伏せて微笑む紫衣里は、それが当然とでも言いたげに囁く。

 思いのほか、恥ずかしそうだった。

 それが紫衣里の思いなのだ。

 何だか胸がきゅうっと締まるようで、それでいて身体が熱くなった。

 なぜかということはもちろん、声には出せない。

男とひとつ屋根の下で暮らしながら、信じてくれていた。

そう思うと、切なくて、それでいて嬉しかったのだ。

だが、そこで聞こえたひと言との落差は凄まじかった。

紫衣里は、悪びれもしないで、元気いっぱいに言い切ったのだ。

「朝昼晩、ちゃんと食べさせてくれるって」

 そこかよ……。

 何だったんだろうか、今までのは。

 澄み切った夏の朝の風のような微笑みと、僕を信じてやまない澄み切った眼差し。

 僕と紫衣里の心はしっかり結びあっていると、確かめられたはずだったのに。

 感動が空振りに終わって、どっと力が抜ける。考えに考えて思いつめた末の決断だったが、紫衣里の一言でごっそり勢いを削がれてしまったのだ。

 当の紫衣里はというと、首を傾げる子犬か小鳥のように、じっと僕を見つめている。

 だが、呆けている場合じゃなかった。

 期待した言葉は返ってこなかったが、僕と紫衣里が抱えた問題は、まさに「そこ」だった。

 気を取り直して、僕は再び告げる。

「真剣に聞いてくれ、紫衣里」

 途端に、面白くもなさそうな顔をされた。

「勝手にズッコケたんじゃない」

 冷ややかなツッコミが返ってきた。

 紫衣里には、こういうところがある。

 底抜けに無邪気なのに、どこか鋼のように冷たく、厳しい。

 その、暗い面が向けられると、果てしなく気分が落ち込むのだった。

 だが、そんなものにめげてはいられなかった。

 この先、ふたりで暮らしていけるかどうかが懸かっている

 だから、僕は再び腹を括って、まっすぐ紫衣里を見据えた。

 本当は、こんなことを言わなければならないのが、たまらなく恥ずかして、情けなかった。

 ひとりの女性と共に生きる男として、これでいいのかと思う。

 熱い塊が頬に溜まるのを感じながら、僕はためらいを振り払って告げた。 

「もう……ないんだ」

 紫衣里は、怪訝そうな顔つきをした。

 あれこれ考えているらしく、僕から目をそらして、あっちを見たり、こっちを見たりしている、

 それでも思い当たることはなかったらしい。

 身を乗り出して尋ねてきた。

「何が? もしかして……時間?」

 それは、あの老人との約束を守れなければ、明日にでもなくなるのだろう。

 しかし、当面の問題は違う。

「いや……」

 僕が答えようとするのを遮って、紫衣里は床に手を突くと、身体を反らして笑い出した。

「何言ってるの、スプーン鳴らさない限り、それはないって」

 やはり、紫衣里も気にしていた。

あの老人との約束は、それほど重いものなのだ。

 あと1ケ月の間、あの銀のスプーンを鳴らしてはならない。

 澄んだ音で全身に力をみなぎらせる、あのスプーンの音を……。

 だが、明日にでも、いや、今日中にでも何とかしなければならないことは違う。

 僕は、心ならずも声を張り上げた。

「そっちじゃ、ない」

 もっと切羽詰まったことだ。

 紫衣里は目をぱちくりさせる。

「……じゃあ、何だっけ?」

 身を乗り出すと、僕のシャツの向こうに豊かな胸が見える。

 下着を十分に買っておいてよかったと思う。

 いや、そんな邪念も振り払わないと、この先、たいへんなことになる。

 妙な気を起こして、紫衣里を傷つけたくはない。

 そう思うと、無邪気に見つめてくる瞳にズキンと胸が痛んだ。

 今の僕は、めちゃくちゃ格好悪い。自分でも、甲斐性のない男だと思う。

 それでも、これだけは、きちんと言っておかなくてはならなかった。

 僕は意を決して、手に隠し持っていたものを差し出す。

「……これだ」

 僕が折り畳み式のちゃぶ台に二つ重ねて乗せたのは、小さな発泡スチロールのパックだった。

 紫衣里が、きょとんとした顔で見下ろす。

「これは……?」

 何か危険なものでも入っているのかとでも言いたげに、しげしげと見つめている。

そのパッケージにかけられたビニールの封印には、やたらと派手な字体で、こう記してあった。

……地産地消! 黄金の小粒つぶつぶ毎日納豆!

 この辺のスーパーやコンビニでも売っている。

 地元産の大豆を食わせるために、地元の農家や農業高校や協同組合が開発した、涙ぐましい創意工夫の成果だった。

 因みに、この辺りの他の特産品は、柿と枝豆である。

 僕は、微笑ましいまでのローカル色あふれる健康食品を前に、重大な事実を告げた。

「もう……これだけしか食べるものがない」

 これ以上、危機的な事態はないだろう。

紫衣里との同棲生活で、二人きりのこの小さな所帯のエンゲル係数は、頂点に達していたのだった。

 バイトを増やせば、なんとか収入は得られる。

 だが、これ以上、食費を費やせば、家賃がなくなる。

 衣食住のうちの「衣」、つまり着るものはなんとかなったが、「食」と「住」は両立させられない。

 この二人きりの住まいを守るために、「毎日納豆」生活はやむを得ない選択だった。

 さらに、暦はともかく、気候のうえではまだまだ夏が続くというのが痛かった。

 これが秋なら、ガス代を節約するために干し柿が登場するところだ。

 しばしの沈黙が、狭い部屋を支配した。

 アブラゼミの暑苦しい鳴き声が響き渡る。

 冷房を節約するために、窓を開け放って風通しを良くしているからだった。

 だが、僕たちの間は、現実を前にして、ちょっと息苦しかった。

 どれほど経っただろうか。

 紫衣里が口を開いた。

「仕方ないよね」

 ため息交じりに言って、台所から、箸を僕の分まで取ってくる。

 差し向かいに納豆を啜りながら、なんとかしなければと真剣に考えないではいられなかった。

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