第五章 人でなし伯爵と、への字夫人④
――その日の夜。
一人の青年が、サザン伯爵邸に戻って来た。
年の頃は二十代前半ほどに見える。身に纏うのは白を基調にした貴族服。サラサラとした栗色の髪を持つ、凛々しい青年だ。
エントランスに入ると、執事やメイドたちが一斉に一礼した。
彼こそがサザン伯爵。
ハワード=サザンである。
彼はエントランスを進み、執事長であるベン=ルッソを一瞥した。
「ルッソ」
「は」
ルッソは恭しく一礼する。
「お帰りなさいませ。旦那さま」
「ああ」ハワードは首肯する。
「最近、近郊にまた野盗や山賊どもが増えたようだ。おかげで会合が長引いてしまった。流石に疲れたな」
「お疲れ様でした。お食事の用意が出来ております」
「いや、食事は先方で済ませた。入浴の準備は出来ているか?」
「は。いつでも」
ルッソは歩き続けるハワードの後ろにつく。
「ところでルッソ。アイシャはどうしている?」
「は。奥さまは――」
と、ルッソが答えようとした時だった。
「……ハワード」
進んでいた廊下の奥。
そこにアイシャが待っていた。
伯爵夫人でありながら、相変わらず男物の服を着ている。
それにルッソが内心で嘆息するのだが、ハワードは気にもしなかった。
「おお! アイシャ!」
少し早足に進み、強く彼女を抱きしめる。
「私を待っていてくれたのか!」
「……ああ」
反射的に抱きしめ返している自分に「むう」と唸りつつも、
「少し話したいことがあって……」
「そうか。私も色々と話したい。さて」
ハワードはそう言うと、アイシャを抱き上げた。
アイシャは「え?」と目を丸くした。
「これから入浴なのだ。アイシャも一緒に入ろう」
「え? ちょっと待て! 結構真剣で真面目な話なんだぞ!」
「何を言う。私はアイシャ相手に不真面目だったことなど一度もないぞ」
そう告げて、ハワードはアイシャの頬にキスをした。
アイシャは自分の頬に片手を当てて真っ赤になる。
「うっさい! この色ボケ! ケダモノ伯爵め!」
「ハハハ! それはアイシャが愛らしすぎるのが悪いのさ! それに次代のサザン伯爵の誕生は私たちの責務でもあるからな!」
そう告げて、ハワードはアイシャを抱きかかえて浴場に向かうのだった。
アイシャの暴言は絶えず廊下に響く。
仲睦まじい(?)伯爵夫妻にルッソは溜息をつくのだった。
――一方。
とある宿の一室にて。
コウタが頭を抱えていた。
四人部屋であるこの部屋にはやや狭いが全員が集まっていた。
コウタはベッドに腰をかけている。
「いや、マジでそうかもな……」
ジェイクが壁を背に腕を組んで唸る。
「街で聞いたが、サザン伯爵が少なくとも婚約したのは事実らしいぜ」
「…………」
コウタは何も言わない。
「ふむ。伯爵夫人で、サザン伯爵の街にいる……」
リノが肩を竦めた。
「十中八九、あの娘が伯爵夫人なのじゃろうな」
「……うぐ」
コウタは呻きつつ顔を上げた。
視線を椅子に座るメルティアに向けた。
「……メルから見て」
コウタは藁にも縋る思いで聞く。
「レナさんはどう? 兄さんのお嫁さんになりそう?」
「……恐らくは」
メルティアは頷く。
「私とリーゼ、アイリはルカ繋がりでお義姉さま方とは交流が深いです。レナさんご自身とはサーシャお義姉さまやアリシアお義姉さまほど親しくはありませんでしたが……」
そこで同じく椅子の一つに座るリーゼを見やる。
その隣に座るアイリの方にもだ。
二人は静かに頷いた。メルティアも頷き返し、
「間違いなく近日中に。レナさんは当然のようにお義姉さま方のサミットにも参加されているそうですから」
「……いや。サミットってなに?」
と、ツッコむコウタだが、やはり覇気はない。
「そんなに嫌なのか?」
事情はある程度聞いていても、いまいち実感のないエルが言う。
「サザン伯爵とやらと縁戚になることが」
「……うぐっ!」
コウタは再び呻いた。
ジェイクたちは苦笑を浮かべている。
その傍らでリッカが指先をあごに当てて状況を整理し始める。
「閣下の兄君がレナという女性と婚姻すると、兄君にとって彼女は義妹になるということですね。やはりサザン伯爵は閣下の縁戚になるのですか……」
「伯爵家は悪い地位ではない、のです」
アヤメも言う。
「過去に因縁があっても、そこは割り切ってもいいと思うです」
「いや。過去の因縁自体はそこまで気にしてないんだ。流石にあの時、謀略に巻き込んだリーゼに怪我でもさせていたら話は別だけど。ただ……」
コウタは「……はああ」と大きな溜息をついた。
そして、
「……正直にさ。ボクの身も蓋もない意見を正直に言うとさ」
一拍おいて、コウタは言う。
「サザン伯爵って凄い変人なんだ」
そうして一時間後。
「なん、だって……」
場所はサザン伯爵邸に戻る。
ハワード=サザンは目を見開いていた。
ここは寝室。
ハワードとアイシャの寝室である。
入浴を済ませた二人は、そのままこの部屋にやって来た。
二人とも裸体。
ベッドの上で重なって横になり、その上に軽くシーツをかけている。
アイシャは、への字顔でハワードの上に乗ってかっている状態だった。
入浴後――いや、入浴中も愛情が爆発しそうだったハワードを抑えきるのはどうにも無理だったので、仕方がなく一戦。賢者タイムに持ち込んだのだ。無駄に体力を大幅に消耗したが、おかげでようやくアイシャは今日の出来事を語り終えることが出来た。
そして、
「それは本当なのか! アイシャ!」
ハワードは上半身を起き上がらせると、アイシャを腰の上に乗せて両肩を掴んだ。
「ああ。そうだよ……」
ようやく息も落ち着いてアイシャが答える。
「あんたがご執心のコウタってやつは今この街にいるよ」
ハワードの両腕を掴んで一拍おいて、
「どうもあいつの兄ちゃんがレナ姉ちゃんの恋人みたいなんだ」
「……いや。その奇縁にも驚いたが、気になるのはコウタ君の兄上の名前だ。もう一度聞くが、なんと言ったのだ?」
「名前?」
神妙な顔で問うハワードにアイシャは眉をひそめた。
「確かトウヤだったぞ」
「いや。そちらではない。今の名だ」
「ああ。そっちか」
アイシャはあごに指先を当てて思い返す。
「アッシュ……アッシュ=クラインだったかな?」
「……やはりそうなのか」
ハワードが神妙な顔のままで呟く。
「コウタ君がそう言ったのか。あのアッシュ=クラインが兄であると」
「……なんだ? 有名人なのか?」
アイシャが素朴な声で尋ねる。
ハワードは「ああ」と首肯して、
「アッシュ=クライン。皇国における最強の騎士の名だ。市井の者とは聞いていたが、まさかコウタ君の兄とは……」
「へえ~」
最強とか言われてもアイシャにはピンとこない。
「凄い人なんだな。姉ちゃんの恋人って」
「そうだな。だが、実力的な話ならば義姉上も相当なモノだぞ」
アイシャの頬を撫でつつ、ハワードは言う。
「義姉上は、恐らく私が出会った女性の中では最も強いだろうからな」
「え? そうなの?」
くすぐったいように片目を細めながらアイシャは驚いた。
「レナ姉ちゃんが傭兵なのは聞いたけど、そんなに強いとは思わなかったよ」
「正直なことを言えば、彼女には興味はあった。誤解なく言っておくが、私にとって女はお前だけだ。アイシャ。だから、義姉上がどれほどお前に似て魅力的であっても女性としての興味はない」
「……恥ずかしげもなくそんな台詞を言うなよ」
やや頬を朱に染めて、アイシャはへの字口になる。
「何を言う。妻に愛を囁くのは当然だろう。だが、これも私の本音なのだが、義姉上とは我が館に滞在中、一度は剣を交えてみたかったと思っていた」
しかしながら、流石に出会ったばかりの未来の義姉にそれを望むのは不躾と考え、ハワードにしては珍しく自粛したのである。
「いずれにせよ、確かなのはコウタ君がこの街に訪れていると言うことだな」
「ああ。ハワードから聞いてた名前と風貌だったから間違いねえと思う」
アイシャが頷く。
「……そうか」
ハワードはふっと口角を上げた。
「ならば歓迎せねばな。本当に彼の兄上がアッシュ=クライン――かの《双金葬守》なのかも気にはなるが、それ以上に久方ぶりに会う彼だ。あの日から、さらにどれほど実力を上げたのか気になって仕方がない」
「そ、そうか……」
アイシャは視線を泳がせながら、未だ自分の肩を掴むハワードの手をどうにかどかせようとする。まあ、ビクともしないが。
「なら、ハワードは今からあいつへのアプローチを考えねえとな。オレは邪魔になりそうだから今日は別室で寝るよ」
早口でそう言うが、ハワードは「何を言うか」と一蹴する。
「確かに歓迎の方法は急ぎ考案せねばならん。しかしだ」
言って、ハワードはそのまま反転。アイシャをベッドに押し倒した。
「このようなことを聞かされては血が騒いで仕方がない。一度、落ち着かせばな」
「うう~、やっぱそうなるのかよ……」
ハワードに両腕を抑えられたまま呻くアイシャ。
「すまないな、アイシャ」
ハワードは双眸を細めて告げる。
「しかし、どれほど昂ろうとも、どれほどの激情を抱こうとも、私がお前を傷つけることはない。それだけは絶対だ。だから」
ハワードは「ふふ」と笑って、
「私の愛しいアイシャよ。今宵も私の想いを受け止めてくれ」
そう告げた。
そんな青年にアイシャは深く嘆息しつつも、
「……んっ!」
への字口のまま、両手を広げるのだった。
そうして――。
一時間後。
ベッドの上できゅうっと目を回してしまったアイシャを傍らに。
ハワードはアイシャの髪を何度か優しく撫でた後、彼女にシーツをかけ、自身は白いガウンを羽織った。
ベッドから立ち上がり、月明かりの差す窓辺に向かう。
窓の外の月に目をやり、心を落ち着かせる。
アイシャのおかげで今はクールダウンできたが、少し思い返してだけも心躍る情報ばかりだった。すぐに血が滾りそうである。
だが、今は冷静にこの好機を見極めなければならない。
大きく息を吐く。
続けてドアに向かう。ドアを半分ほど開けると、ルッソを呼んだ。
幾つかの指示を出してドアを閉めた。
「…………」
ハワードは無言で部屋の一角に目をやった。
そこには白い甲冑が鎮座していた。
紅い外套も纏う古の騎士の鎧だ。
「……ふふ。悪竜の騎士よ」
そうして、ハワードは宣言する。
「いざ、再びまみえようではないか。この己――白金仮面とな」




