第五章 人でなし伯爵と、への字夫人①
越境都市『サザン』。
グレイシア皇国の国境近くに位置し、そのため、多くの行商人も足を運ぶエリーズ国の中でも屈指の大都市である。
この地を納めるのはサザン伯爵家。
この都市と同じ名の貴族である。
代々文武ともに優秀な当主を輩出する名家であり、特に若干二十七歳にして名領主と呼ばれる現伯爵さまは人気が高かった。
歴代当主同様に文武両道。その上、容姿端麗な傑物である。
ただ、そのため、かの悲報は雷鳴のごとく都市内に知れ渡っていた。
なんと、サザン伯爵がご婚約されたのである。
女性たちの悲嘆は大きかった。
一方、男性たちの興味は奥方へと向いた。
未来の伯爵夫人は、未だお披露目まではされていないからだ。
果たして、どんな女性なのか。
年齢は? 容姿は? 血筋は?
噂は本当に様々だった。
例えば、相手はまだ十代の少女とか。
逆に伯爵よりもずっと年上だという説もある。
伯爵夫人は没落してしまった貴族の令嬢。
はたまた、とある王家を追放された流浪の王女さまだという噂もあった。
森で盗賊に襲われていたところを伯爵さまに救い出されて見初められたなどの馴れ初めにまで様々なパターンの話が広がっている。
正しい情報がないだけに噂は無責任に増えていった。
今や、サザンで最も熱いゴシップである。
(……ったく)
そんな状況に彼女は渋面を浮かべるしかなかった。
(いつからオレが王女さまになったんだよ)
歳の頃は十五、六歳ほどか。
肩口より少し長いぐらいのほとんど手入れされていないアイボリーの乱れ髪。
美麗ではあるが、きつめの眼差しは緋色。口元はへの字に結んでいる。
衣装は上のシャツから下のズボンまで黒で統一した男物だ。
しかしながら、その双丘は男物であると思わせないほどに自己主張していた。
男装であるとはっきりと分かる美少女だった。
(なんでこうなったんだよ)
街中を早足で歩きながら嘆息する。
その右腕には、果物を詰め込んだ紙袋を抱えてた。
よく通う青果店で購入したものだ。
店主の親父は常連の彼女に笑顔でリンゴを一つサービスしてくれたが、まさか目の前の十代の少女が噂の人物だとは思いもよらないだろう。
――そう。彼女こそが、噂のサザン伯爵夫人なのである。
名はアイシャ=シーハンズ。
一応は男爵家の娘になるらしい。
生来の彼女に家名はない。異国の貧困街の出身だ。
唯一の身内は長年会っていなかった異父姉だけだった。
当然ながら、姉の方も男爵家の血筋ではない。
シーハンズ家とは、あの人でなしでケダモノな伯爵がアイシャを生涯に渡って囲うためだけに用意した没落した家系だった。
要は、伯爵家に嫁ぐには孤児では体裁が悪いので男爵家へと養女にしたのである。
そうして、そのまま婚約までこじつけられてしまった。
隣国の皇国やエリーズ国では十六歳で成人だ。
アイシャはすでに十六歳。結婚も可能だ。
しかし、まだ婚約であり結婚にまで至っていない。
お披露目に向けて、サザン伯爵夫人として目下訓練中だからである。
だが、遅くても三ヶ月後にはお披露目、そのまま結婚となるだろう。
(……くっそう)
歩きながら頬を膨らませるアイシャ。
面白くない。
本当に面白くない。
全部、あの人でなし伯爵の思惑通りだった。
アイシャの人生はあの男にもう完全に掌握されていた。
(なんでオレなんかを気に入るんだよ!)
アイシャのこれまでお人生は凄惨の一言だった。
二歳の時に父親違いの姉と共に母に捨てられて。
五歳の時に人買いに攫われて、姉とも引き離された。
八歳の時に売られた先で額に大きな火傷を負わされて。
十二歳の時には凶刃で胴体を斬られた。
どうにか一命を取り留めるも再び売られ、この街の娼館に流れ着いた。
娼館では傷物ということで裏方に回されて薄給でコキ扱われた。
そんな自分を、よりにもよってあのケダモノ伯爵は――。
(……むむむ)
アイシャは口元をより強くへの字に結んだ。
一体どこか琴線に触れたのか。あのケダモノな人でなし伯爵はアイシャの純潔を奪っただけでは飽き足らず、その生涯まで手に入れたいと思ったらしい。
仮にも初めて肌を重ねた相手だ。
今日まで何度も何度も夜を越えた相手だ。
あの人でなし伯爵が本気なのはよく分かっていた。
だからこそ逃げ出せない。
拘束も監禁もされていない。こうして外出も自由に許されている。
逃げ出す機会はあっても、逃げ出すことは出来なかった。
結局のところ、自分も彼に好意を持っているからだ。
まあ、彼が正直に、恐らくは一切包み隠さずに語った過去の――いや、現在進行形での奇行にはドン引きしたが。
それを知った上でも、彼の腕を振り払えない自分がいた。
(……オレの人生もここまでか……)
思わず足を止めて盛大な溜息をついた。
面倒な伯爵夫人としての教育も。
口では文句を言いつつも、さぼらず頑張り続けている。
それはアイシャの心自身が、すでに彼に寄り添う覚悟をしている証明でもあった。
こうしてたまに不満が溢れ出すのは、マリッジブルーのようなものだった。
(……結婚式になると姉ちゃんも来るだろうしなあ)
強く紙袋を掴んでそう思う。
実は、それは最近で最も嬉しかった出来事だった。
この街で五歳の時に離れ離れになった七歳年上の姉と再会したのである。
あれは本当に偶然だった。
およそ十年ぶりの再会である。とある理由から一目で分かった。アイシャはかなり驚いたのだが、それ以上に嬉しかった。
姉は傭兵となり、あの日からずっとアイシャを探してくれていたとのことだ。
嬉しくて涙を零したのも人生で初めてのことだった。
姉は姉の友人たちと一緒に伯爵家に招かれた。
アイシャとしては、まさか姉にまで人でなし伯爵の毒牙が向かないだろうかと内心でヒヤヒヤしていたが、彼はにこやかな顔で歓迎するだけだった。
数日ほど姉たちは滞在したが、やはり彼が手を出す様子はなかった。
姉たちが去った後、アイシャは率直に聞いた。
『……はン。あんたのことだ。姉ちゃんを見て、姉ちゃんまで手籠めにしちまうんじゃねえかとヒヤヒヤしたぜ』
嫌味を込めてそう言ったのだが、
『何を言っているんだ』
彼はアイシャを見つめて、
『そんな遊びはとうの昔に卒業している。もう娼館にさえ行ってないぞ。なにせ今の私にはお前がいるからな。私の残りの人生の女はお前だけでいい。まあ、義姉上のお姿には私も驚いたが、義姉上はアイシャではないからな』
そんなことを真顔で返してきた。
アイシャは色んな意味で真っ赤になって、彼をポカポカと殴りつけた。
いずれにせよ、これで二人の仲は両家公認になった訳だ。
ちなみに姉とは手紙でやり取りすることにした。
何でもたまたま訪れた離島の小国で想い人と再会したらしい。
姉には真っ当な春が訪れたようで安堵する。
その一方で、
「………はあ」
アイシャは溜息をつく。
これが幸せの溜息なのか、不安の溜息なのか。
それはアイシャ自身にも分からなかった。
いや、やはり不安の方が大きいかも知れない。
「……あいつ、最近どんどん過激になっているからなあ」
外面は紳士だが、彼の中身はケダモノで人でなしだ。
それは別に夜に限られたことではない。
世間には名領主で知られる青年。
確かに優秀だ。この発展する街並みを見れば一目瞭然である。評判が良いのも分かる。傍にいるアイシャはその敏腕ぶりをよく見ていた。
しかし、それは彼の一端でしかないのだ。
彼のその本質は、アイシャを含めてごく身近な者しか知らない。
――そう。世間は彼の奇行を知らないのだ。
そして彼はまごうことなき稀代の天才であり、怪物でもあった。
そんな彼が、今も急激に成長しているのである。
「……オレなんかに支え切れんのかな……」
それもまた不安の一つだった。
トボトボと歩く。
と、その時だった。
「………え? ちょっ、ちょっと待ってください!」
不意に声を掛けられた。
どうやら、何気なくいま通りすぎた相手のようだ。
アイシャは眉をひそめて後ろへと振り返った。
そうして、そこにいたのは――。




