裏手の治療所
王都の鐘が七つ鳴ると、エレナ・リーヴェルトは薬品棚の最後の引き出しを閉めた。
「包帯は百二十巻。清潔な布は四箱。魔力回復薬は三十六本です」
帳簿を読み上げると、隣で薬瓶を並べていたリディアが目を丸くした。
「そんなに必要なんですか?」
「必要にならないのが一番だけどね」
闘技場の外から、開会を待つ観客の声が波のように押し寄せてくる。
勇者選定大会。毎年、王国中の剣士や騎士、冒険者が集まり、勝ち抜き戦で優勝を争う一大行事だ。優勝者には勇者の称号が授けられる。前年の勇者も十年前の勇者も、その功績と称号を失うわけではない。新しい名が歴史に加わるのである。
エレナはその大会に、聖女として派遣されていた。
王国には神聖魔法で傷病者を治す聖女が何十人もいる。大会では彼女たちが治療所に配置され、負傷した選手を受け入れる。観客席に近い第一治療所では軽傷者を、裏手の第二治療所では担架で運ばれる重傷者を主に診る。
今年、第二治療所の責任者を任されたのがエレナだった。
「エレナ様、開会式は見ないんですか?」
「患者さんが来ない間なら、交代で見に行けるわ。リディアが先に行っておいで」
「えっ、でも」
「始まってからでは混むでしょう」
十七歳の新人聖女は嬉しそうに頭を下げ、外へ駆けていった。
入れ替わりに入ってきたのは、『白百合の聖女』と呼ばれる金髪の美しい聖女、セレスティア・ヴァレンシュタインだった。侯爵令嬢である彼女は、胸元に宝石を飾った真新しい白衣をまとっている。
「相変わらず地味な場所ね」
「おはようございます」
「あなたが責任者だなんて、聖女長も随分と思い切ったことをなさるのね」
「昨年もここで治療を担当しましたから」
「そういう意味ではなくてよ」
セレスティアは手袋の指先で棚をなぞり、埃がないと分かると面白くなさそうに手を引いた。
「今年は第一治療所に有力な選手が大勢来るでしょう。近衛騎士のレオンハルト様、辺境伯家のアーヴィン様、それから冒険者のカイル・レイン。あなたも名前くらい知っているわよね」
「出場名簿で見ました」
「なら、余計なことをしないで。第一治療所の責任者は私なの。治療が必要なら、私たちが引き受けます」
「応援の要請があれば伺います」
「そんな要請はしないわ」
微笑みを残して去っていく背中を、エレナは黙って見送った。
昨年もセレスティアは目立つ仕事を望んでいた。負傷者を治す姿が王族席から見えるかどうかを、ことさら気にする。けれど仕事を怠ったと断定できる出来事は、これまでなかった。
それなら、エレナが気にすることでもない。
開会の鐘が鳴った。闘技場が揺れるほどの歓声が上がる。
最初の担架が運ばれてきたのは、その四十分後だった。
右肩を切られた剣士、足首を捻った槍使い、手首を折った騎士。負傷者は試合が進むにつれて増えた。エレナは症状を確認し、骨の位置を戻し、必要な処置をしてから治癒の光を流した。
聖女の魔法は便利だが、何でも一瞬で治せるわけではない。汚れを残した傷を塞げば化膿することもある。骨がずれたまま癒着すれば後遺症が残る。魔力を使い切った聖女が無理をすれば、次の患者に対応できなくなる。
「リディア、まず出血を止めて。傷を塞ぐのはそれから」
「はい!」
午後、患者が途切れたところへ、第一治療所の聖女アンナが飛び込んできた。
「エレナ様、助けてください。胸を打った方が、息をできなくなって……」
「意識は?」
「あります。でも、血を吐いています」
エレナは立ち上がった。
「マルタさん、こちらをお願いします。リディア、器具を持ってきて」
第一治療所に駆け込むと、若い剣士が治療台で喘いでいた。唇が青い。胸元に手をかざすセレスティアの顔には焦りが浮かんでいる。
「どうしてあなたが来たの!」
「アンナさんに呼ばれました。患者さんを診ます」
「私が治療しているわ!」
「それなら一緒にお願いします。肋骨の位置を保ってください」
剣士がかすれた声で助けを求めた。セレスティアの返事を待っている時間はない。
エレナは魔法で胸の内部を探った。折れた肋骨が肺を傷つけ、漏れた空気が肺を圧迫している。魔法を通しながら器具で圧迫を逃がし、傷を塞ぎ、骨を固定する。呼吸が戻るまで、長く感じる数分が過ぎた。
「……息が、できる」
剣士が涙を浮かべた。
「助かったんですね」
「ええ。ただし今日は安静です。経過を診ますから、まだ起きないでください」
アンナが何度も礼を言う。セレスティアは唇を結んだまま、治療所の奥へエレナを呼びつけた。
「私に恥をかかせたわね」
「命に関わる状態でした」
「私だって分かっていたわ!」
「では、なぜ応援を断るのですか」
セレスティアの頬が赤くなった。
「侯爵家の私に説教するつもり?」
「聖女としてお話ししています。治療が難しければ助けを呼ぶ。それは私も同じです」
「覚えていなさい」
扇を握り締めたセレスティアは、そう言い捨てて出ていった。
第二治療所に戻ると、すでに噂が広まっていた。エレナが第一治療所に押しかけ、セレスティアの治療を奪い、患者の前で侮辱したという。
「誰がそんなことを」
リディアが怒る。
「私たちが助けを求められたんでしょう?」
「そうよ。だから事実を記録するの」
エレナは治療台の番号、負傷者の名前、搬送時刻、処置内容、同席者を帳簿に書いた。噂に噂で対抗しても、患者のためにはならない。
その晩、聖女長へ報告書を届けた。
「ご苦労でした。こちらでも確認します」
聖女長は記録に目を通し、静かに頷いた。
「あなたの判断は正しい。治療所の間に壁を作ってはいけません」
エレナはようやく肩の力を抜いた。
ただし、翌朝になっても噂は消えなかった。
大会二日目、エレナは第二治療所の前で一人の男に呼び止められた。
「すまない。ここで腕を診てもらえるか」
黒髪に灰青色の目。革の胸当てをつけた青年は、左腕を右手で押さえていた。
「どうぞ。私は第二治療所のエレナです。あなたのお名前は?」
「カイル・レイン」
エレナは名簿の名前を思い出した。有力選手の一人だ。
「試合で負傷しましたか?」
「ああ。勝ったが、最後に一発もらった」
袖をまくると、肘の下が腫れていた。皮膚の下に出血が広がっている。
「動かせますか?」
「動く。痛いが」
「無理に動かさないでください。骨にひびが入っているかもしれません」
エレナは手を添えて調べた。小さな骨折がある。
「少し時間がかかります。座ってください」
「第一治療所は人が多かったから、こっちに来たんだが、迷惑だったか?」
「いいえ。どちらの治療所でも診られます」
カイルは意外そうに眉を上げた。
「そうか。向こうでは、こっちは重傷者専用だから来るなと言われた」
「優先順位はありますが、治療を断る決まりではありません」
「やっぱりな」
青年は小さく笑った。
エレナが骨を整えて光を流すと、カイルは黙って手元を見ていた。治療が終わり、指を曲げ伸ばししてから、彼は真面目な顔で頭を下げた。
「ありがとう。これで明日も戦える」
「治ったからといって、無茶はしないでくださいね」
「それは難しい注文だ」
「では、せめて次は怪我をする前に避けてください」
カイルは声を立てて笑った。
「善処する」
その笑い声に、治療所の空気が少し明るくなった。
帰り際、彼はふと振り返った。
「昨日、第一治療所で肺を傷つけた奴を助けたのは、あんたか?」
「そうですが」
「あいつ、今朝歩いてた。家族に手紙を書くんだって、嬉しそうだったぞ」
「そうですか」
胸の奥が温かくなる。
「よかったです」
「それを伝えたかった」
カイルは片手を上げて去っていった。
リディアがエレナの袖を引いた。
「今の方、カイル・レイン様ですよね。優勝候補の!」
「そうみたいね」
「すごく格好よかったです!」
「腕が治ってよかったわ」
「エレナ様、そういうことじゃありません!」
リディアの頬が膨らむ。エレナは意味が分からず首を傾げた。
翌日、カイルは再び第二治療所に現れた。今度は右の頬を切っていた。
「また怪我をしたんですか」
「言い訳をしていいか」
「聞くだけなら」
「避けたつもりだった」
「そうですか」
エレナが傷を洗うと、カイルは目を細めた。
「痛い」
「傷口に砂が入っていますから」
「魔法で何とかならないのか」
「砂を残して塞ぐほうが痛い目に遭います」
「分かった。黙ってる」
大柄な剣士が子どものように神妙な顔をするので、エレナは笑いを堪えた。
「今日はどんな相手だったんですか?」
「槍使いだ。間合いが長くてな。三度ほど危なかった」
「勝ったんですね」
「ああ。だが、次も勝てるとは限らない」
その答えに、エレナは手を止めた。
「自信がないんですか?」
「あるさ。勝つために来た。ただ、相手も同じだろ」
カイルは治療台の端に置いた剣を見た。
「みんな自分の剣でここまで来ている。名前が知られているから勝てる、なんてことはない」
エレナは頷いた。
「そうですね」
「だから明日も全力でやる」
「なら、今日の傷はきちんと治しておきましょう」
「頼む」
短いやり取りだった。それなのに、カイルと話す時間は不思議と心地よかった。
治療が終わっても、彼はすぐには立たなかった。
「エレナ」
「はい?」
「名前で呼んでよかったか」
「構いませんが」
「俺のこともカイルでいい。何度も治療してもらってるしな」
「何度も怪我をしないでください」
「それはそうだな」
笑い合ったところで、廊下から硬い靴音が聞こえた。
「まあ、カイル様」
セレスティアだった。
彼女はカイルを見るなり顔を輝かせたが、エレナに視線を移した途端、目を細めた。
「こんなところにいらしたのね。第一治療所でお待ちしていましたのよ」
「俺はここで治してもらった」
「そうでしたの。エレナ、あなたが勝手にお引き受けしたの?」
「本人が受診されました」
「有力選手の治療は第一治療所で行うよう、お願いしたはずよ」
「そのような規則はありません」
セレスティアが言い返そうとしたとき、カイルが立ち上がった。
「俺がここを選んだんだ。彼女を責めることじゃない」
「でも、カイル様……」
「治してもらって助かった。じゃあ、明日の試合があるから」
カイルはエレナに軽く会釈して出ていった。
取り残されたセレスティアは、彼の足音が消えるまで黙っていた。
「……随分、親しそうね」
「二度治療しましたので」
「それだけ?」
「はい」
セレスティアは笑った。薄い、冷たい笑みだった。
「平民のあなたが、あの方と親しくなれると思わないことね」
「何の話でしょう」
「分からないふりをするのが得意なのね」
セレスティアは背を向けた。
エレナには、彼女が何を望んでいるのかまだ分からなかった。




