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ルーナ物語  作者: 白栞
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ルーナ物語

これは。


英雄の物語ではない。


最強の魔法使いの物語でもない。


これは。


一人の少女が、大切な人を想い続けた物語。



第一章 未来の英雄


世界は今も、英雄を待ち続けていた。


魔法は、人々の暮らしを支えている。


暗い夜に炎を灯し。


傷ついた者を癒やし。


遠く離れた町へ、一瞬で言葉を届ける。


その一方で。


一つの国を焼き払い、数え切れない命を奪う力にもなり得た。


だから魔法使いたちは学ぶ。


力の扱い方を。


誰かを守る方法を。


そして、自分の中にある力を恐れることを。


そのすべてを学ぶため、世界中の魔法使いたちが憧れる場所があった。


フィーニス魔法学園。


千年以上の歴史を持ち、数え切れない英雄を育ててきた、世界最高峰の魔法学校。


その年。


一人の少女が、学園の門の前に立っていた。


クロエ・カルペ。


まだ十六歳。


淡い金色の髪を風に揺らし、胸元には入学許可証を大切そうに抱えている。


幼い頃から、不思議な魔力を持っていた。


七歳の時には、崩れた納屋の下敷きになった村人を、無意識に魔法で救い出した。


十歳になる頃には、大人の魔法使いさえ驚くほどの魔力を持っていた。


人々は、そんな彼女をこう呼んだ。


――未来の英雄。


最初にそう呼ばれた時、クロエは嬉しかった。


困っている人を助けられる。


泣いている人を笑顔にできる。


物語に出てくる英雄のようになれるのだと思った。


けれど。


その言葉は、いつしか願いではなく、重荷になっていた。


失敗すれば、期待外れだと言われる。


弱音を吐けば、英雄らしくないと言われる。


怖いと言うことも。


逃げたいと思うことも。


許されないような気がしていた。


クロエは大きく息を吸い、目の前の学園を見上げた。


空へ向かって伸びる時計塔。


校舎同士をつなぐ、宙に浮かんだ渡り廊下。


風にはためく青い旗。


白い石で造られた校舎は朝日に輝き、まるで新入生たちを歓迎しているようだった。


「……ここが、フィーニス。」


胸が高鳴る。


待ち望んでいた場所。


ここで魔法を学ぶ。


仲間を作る。


そして、いつか本当の英雄になる。


そう思ったはずなのに。


校門をくぐろうとした足は、なかなか前へ出なかった。


(私、本当にやっていけるのかな。)


周囲には、同じ制服を着た新入生たちが集まっていた。


皆、期待に満ちた表情で学園を見上げている。


友人と笑い合う者。


家族と別れを惜しむ者。


緊張しながら杖を握る者。


やがて、そのうちの何人かがクロエの存在に気づいた。


「あの子……クロエ・カルペじゃない?」


「未来の英雄って呼ばれてる子?」


声は次々と広がっていく。


クロエは気づかないふりをした。


慣れている。


幼い頃から、どこへ行っても同じだった。


称賛する声。


羨む声。


そして。


「本当にそんなにすごいのかな。」


「期待外れだったら、ちょっと笑えるよね。」


胸の奥が、わずかに痛んだ。


それでも、クロエは振り返らない。


入学初日から弱いところを見せたくなかった。


その時だった。


「わっ……!」


小さな声が聞こえた。


少し離れた場所で、一人の少女が転んでいた。


抱えていた荷物が地面へ散らばり、何冊もの教科書が石畳の上へ落ちている。


周囲の生徒たちは一瞬そちらを見た。


けれど、入学式に遅れたくないのか、そのまま校舎へ向かっていく。


クロエは考えるより先に走り出していた。


「大丈夫?」


転んだ少女の前へしゃがみ込む。


「う、うん……。」


少女は恥ずかしそうに顔を伏せた。


クロエは散らばった本を一冊ずつ拾い始める。


「手、痛くない?」


「少しだけ。」


少女の手のひらには、小さな擦り傷ができていた。


クロエは一瞬だけ迷い、杖を取り出した。


治癒魔法はまだ正式に習ったことがない。


家で本を読みながら、何度か練習しただけだった。


失敗するかもしれない。


周囲には、自分を見ている生徒たちがいる。


未来の英雄が、治癒魔法さえ失敗した。


そう笑われるかもしれない。


それでも。


目の前の少女は痛そうにしていた。


クロエは杖を傷へ向ける。


「少しだけ、じっとしてて。」


小さな光が杖の先へ集まった。


光は不安定に揺れ、すぐに消えそうになる。


クロエは息を整える。


力を入れすぎないように。


傷だけを包むように。


淡い光が少女の手のひらへ広がった。


傷は完全には消えなかった。


けれど、流れていた血は止まった。


少女が目を丸くする。


「すごい……。」


「ごめんね。これくらいしかできなくて。」


「ううん!」


少女は何度も首を横に振った。


「ありがとう!」


「私、クレア。」


「クレア・ローウェル。」


クロエも微笑み返す。


「クロエ・カルぺ」


その笑顔を見た瞬間。


胸を締めつけていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。


自分が未来の英雄だから助けたわけではない。


誰かに褒めてもらいたかったわけでもない。


ただ、困っている人を放っておけなかった。


それだけだった。


クロエは残りの本を拾い、クレアへ手渡す。


「入学式、一緒に行こっか。」


「うん!」


その時。


白いローブをまとった老人が二人の前へ歩いてきた。


フィーニス魔法学園の校長だった。


周囲の生徒たちが慌てて道を開ける。


校長はクロエの前で足を止めた。


「クロエ・カルペだね。」


「はい。」


クロエは緊張しながら頭を下げる。


校長は穏やかに微笑んだ。


「ようこそ、フィーニスへ。」


「ありがとうございます。」


校長の視線が、クロエの隣にいるクレアへ向く。


そして、彼女が抱えている土で汚れた教科書と、手のひらに残る淡い治癒の光を見た。


「もう魔法を使ったのかね。」


クロエの肩がわずかに跳ねる。


入学式前に勝手に魔法を使ってしまった。


叱られると思った。


「ご、ごめんなさい。」


「クレアが怪我をしていたので……。」


校長はクロエを見つめる。


その瞳は、責めているようには見えなかった。


「なぜ助けたのだね。」


「え……?」


予想していなかった問いだった。


クロエは少し考えた。


未来の英雄だから。


魔法使いだから。


そう答えるべきなのかもしれない。


けれど、出てきた言葉は違った。


「痛そうだったからです。」


短い答えだった。


校長はしばらく何も言わなかった。


やがて、ほんの少しだけ笑う。


「そうか。」


校長は校舎を見上げた。


「君には、多くの期待が集まっている。」


その言葉に、クロエの表情がわずかに強張った。


校長は気づいたように続ける。


「だが、英雄になろうと急ぐ必要はない。」


クロエは顔を上げた。


「魔法とは、力の大きさではない。」


「強い魔法を使える者が、必ず人を救えるとは限らない。」


「力を持ちながら、その使い方を誤る者もいる。」


朝の風が吹き、校長の白いローブが揺れる。


「魔法とは、誰かを照らすための光だ。」


「そして光は、誰かを照らそうとした時、初めて意味を持つ。」


クロエは先ほど助けたクレアを見る。


クレアは大切そうに本を抱えながら、クロエへ笑いかけていた。


クロエは胸の前で、杖を握り締めた。


先ほどまで感じていた不安は、完全には消えていない。


期待も。


恐怖も。


重圧も。


これから先、きっと何度も自分を苦しめる。


それでも。


今は一歩だけ、前へ進んでみようと思った。


「……はい。」


その返事には、自然と力がこもった。


やがて、大講堂の扉が開いた。


新入生たちが一斉に中へ入っていく。


高い天井には無数の魔法灯が浮かび、壁には歴代の英雄たちの肖像画が並んでいた。


何百年も前に世界を救った者。


多くの命を守った者。


誰にも知られないまま戦い続けた者。


クロエは、その一枚一枚を見上げながら歩いた。


いつか自分も、ここに並ぶのだろうか。


それとも。


誰にも知られないまま、何も成し遂げられずに終わるのだろうか。


答えは、まだ分からない。


入学式が始まる。


校長は壇上に立ち、新入生たちを見渡した。


「新入生諸君。」


大講堂が静まり返る。


「フィーニス魔法学園へ、ようこそ。」


その声が、講堂いっぱいに響いた。


クロエは背筋を伸ばす。


いつか、自分も誰かを照らせる魔法使いになりたい。


誰かの希望になれる人になりたい。


大きな魔法を使えるからではない。


未来の英雄と呼ばれているからでもない。


ただ。


目の前で泣いている人へ、手を伸ばせる人になりたかった。


その日。


大講堂にいた誰もが信じていた。


クロエ・カルペは、いつか世界を救う。


誰よりも強い魔法使いとなり、偉大な英雄になるのだと。


講堂の外。


誰もいない石畳の上を、一枚の黒い羽が転がっていた。


風に運ばれ。


踏まれることもなく。


やがて、学園を包む結界の前で止まる。


黒い羽が結界へ触れた瞬間。


淡く輝いていた光が、ほんのわずかに揺れた。

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