第23話 道典の死
冬の朝だった。
父が起きてこなかった。
それだけのことだった——最初は。早苗が飯を作っていた。岳人が目を覚ました。父の気配がなかった。砥石の音もなかった。縁側にいないことに気づいた。部屋を見た。
布団の中にいた。
東を向いていた。いつもと同じ向きで、いつもと同じように布団の中にいた。ただ、朝になっても起きてこなかった。岳人が近づいた。父の肩に手を置いた。冷たかった。
早苗が来た。岳人の横に立った。二人でしばらく、道典を見ていた。
早苗が何かを言おうとした。言わなかった。それでよかった。言葉はいらなかった。
* * *
砥石は枕の下にあった。
二章3話で岳人はそれを知っていた——道典が死んだとき、砥石を探した、見つかった、枕の下にあった。その通りだった。岳人は砥石を取り出した。手の中に収まる大きさだった。子どもが両手で持てるくらいの、黒みがかった石。長く使われた表面が、少し滑らかだった。
一章7話の朝に、道典が橋の手前で受け取ったものだ。
典嗣の使いが石の上に置いていったものだ。
岳人はそれをまだ知らない——砥石の来歴を、父から聞いていなかった。ただ父が大切にしていた石だということは知っていた。毎晩使っていた、毎朝手の届くところに置いていた、枕の下に入れていた。それだけで十分だった。
砥石を握った。
冷たかった。父の枕と同じ冷たさだった。父の手の温度が抜けた後の冷たさだった。岳人はそのまま、しばらく動かなかった。
* * *
手帳が出てきたのは、少し後だ。
早苗が道典の荷物を整理していて見つけた。「これ」と言って岳人に渡した。小さな手帳だった。道典が字を書くのを岳人はあまり見たことがなかった。
開いた。
ほとんど何も書いていなかった。途中までの頁が白紙だった。最後に使った頁だけ、一行あった。
羽鳥千鶴を、頼れ
それだけだった。
名前だけだった。どこにいるか、なぜ頼るのか、何を頼むのか——何も書いていなかった。羽鳥、という名前を岳人は知っていた。父が橋の上で出会った老人の家の名前だ。千鶴、という名前は知らなかった。老人の孫か、娘か、別の誰かか。
「羽鳥千鶴」と岳人は声に出して読んだ。
知らない名前だった。父が知っていた名前だった。父は死ぬ前にこれを書いた——いつ書いたかは分からない。宮城に来てからか、御岳を出る前か。手帳の紙の色から、そう新しくはない気がした。
砥石を握ったまま、手帳を見ていた。
父が「これを読む日が来る」と思って書いた。その日が来た。岳人は今ここにいる。砥石を握って、一行だけの手帳を持って、父のいない部屋にいる。
* * *
早苗が後ろから来た。
岳人の肩に、手を置いた。
言葉はなかった。言葉がなくてよかった。早苗の手は温かかった。道中の宿場で「大丈夫」という意味で握ってくれた、あの温かさと同じだった。あの頃岳人は六歳で、今は違う年齢だが、手の温かさは変わらなかった。
岳人は砥石を握ったまま、もう少しだけ動かなかった。
雪が、外で降っていた。
東の方角も、西の方角も、同じ白さで覆われていく朝だった。




