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秋冬春 5

 結局。


 千秋は、誰も殺さなかった。


『今日の僕は、とても機嫌がいいから、腕一本で見逃してあげるよ』


 老人の介入の中、上機嫌の先生は言葉通りに士郎の右腕をへし折って解放したのだ。


 それを、千秋はぼんやりと見ていた。


 実際、頭が熱くてぼーっとしている。


 さっきまで、脳の真ん中にキンキンに冷えた氷が突き立っているかと思えるほど冴えわたっていたというのに、突然、何もかも鈍くなったのだ。


 既に二人の姿は見えなくなり、先生がゴトゴトと倒れた戸板をはめ直している音で、はっと我に返った。


「先生、私もてつらいま……」


 あれ?


 ろれつが回っていない自分に気づいて驚いた。


 それどころか、そのまま地べたにぺたんと座り込んでしまった自分に、もっと驚いた。


 おかしいな。


 地面で首を傾げている彼女を見ながら、先生は戸板をきっちりと戻してから近づいてくる。


 先生は、膝を折って彼女の側に座りこむと、笑顔の顔を寄せて来た。


「千秋は、今日初めて本当の意味で命の取り合いをしたからね……身体がびっくりしてるんだろう」


 先生につらつらと言われる言葉は、彼女を恥じ入らせた。


 たったあれだけの時間で、こんな有様になってしまうなんて、脆弱にもほどがあると。


「中に入ろうか」


 よいしょっと。


 先生は、千秋の脇に腕を入れると、まるでオモチャみたいに簡単に彼女を立たせた。


 とは言うものの、ほとんど足に力が入らない為、先生の腕に釣られているようなものなのだが。


 そのまま、小屋の中に連れて行かれ、上り口に腰かけさせられる。

 

 少し休めば、大丈夫ですと答えたいのだが、唇もだるくうまく言葉も発せられない。


 先生の手が伸びてきて、てのひらで一瞬目を覆った。


 実際は、目の上にある額に触れてきたので、すぐにその手のひらの向こう側の先生を見ることが出来たが。


 冷たい先生の手のひらにほっとして、千秋はため息をついた。


 このまま、目を閉じたくなる。


「今日は、このまま寝てしまうといい」


 額から手が離され、代わりに言葉が寄せられる。


 はっと、千秋は重いまぶたを持ち上げた。


「らいじょう……」


 大丈夫と言おうとしたのに。


 身体が彼女を裏切って、舌を丸めこむ。


 情けない。


 もし、今もう一度襲撃されたら、どうすればいいのか。


 鈍い思考でも、それくらいは考えられる。


 千秋は、しょんぼりとしながら、先生を見ていられなくなって、土間へと視線を落とした。


 その頬に、冷たい手が当てられると、くいっと顔の角度を変えられる。


 彼の方へ。


「恥じることは、何もない……僕はね、千秋の背中が好きなんだよ。こんな背中を、僕は他に見たことはない」


 顔を覗きこみながら、先生は千秋の背を褒める。


 何故、背中なのかなんて、彼女に分かるはずもない。


 顔でも心でもなく、千秋が普段見ることのない自分の裏側。


「僕を守ろうなんてことを考える、この国で一番に愚かで……この国で一番に美しいものだよ……千秋の背中は」


 先生の嬉しそうな声を聞いていたら。


 ぱたぱたと、涙が出た。


 死の無常を歌うのと同じ唇で、千秋の生を慈しむ歌を歌うのだ。


 鬼と菩薩の心を同時に抱いている先生を、千秋は愛しく思えてしょうがなかった。


 そんな彼の唇から、いくつもの『千秋』という名が生まれるのが、たまらなく幸せだった。


 二人きりで、誰にも彼女の名を教える必要なんかないというのに、『君』ではなくちゃんと名を呼んでくれるのである。


 先生の中で、千秋という人間が形作られて行く。


 昨日までとは違う、もっとはっきりとした輪郭で。


 それを感じると、彼女の魂は喜びに震えてしまうのだ。


 実際は、熱が上がってきたことにより、身体が震えてしまったのだが。


 魂の快楽と裏腹に、身体はそれに耐えきれない。


 内側から弾けてしまいそうな千秋の身を。


 先生は両脇から手を入れて、抱え上げてくれる。


 まるで、親が子供を抱え上げるように。


 信頼と親愛の形。


 先生の首に抱きつく形になりながら、千秋はそのまま囲炉裏の方へと運ばれて行く。


 彼の肩越しに、後ろ向きの世界を見ながら、触れあわせた身体の温かさと、灰で汚れた床を見る。


 その灰に、先生の足跡が残って行くのも。


 布団の側に、ゆっくりと下ろされるまで、千秋は彼の後ろの世界を見ていた。



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