秋冬春 6
布団の中で、千秋は夢を見ていた。
先生も布団に入ってきて、彼女を温かく抱きしめてくれる夢。
彼女が熱の余韻で大きなため息をつく度に、『千秋』と呼んでくれる夢。
先生の匂いで、いっぱいになる夢だった。
※
翌朝、千秋はケロっとしていた。
熱が出たことさえ嘘のように、すがすがしい冬の朝だ。
しかし、寝坊したのは間違いないようで、既に囲炉裏の鍋からは、汁の煮えるよい香りが漂ってきている。
戸が、考えられる内で一番静かな音で開けられるのを、彼女は見ていた。
先生が、首を竦めるようにして入ってくる。
ああ。
そんな唇の動きと共に、彼はこちらを見た。
優しい笑顔が、そこに浮かぶ。
「おはよう、千秋」
朝から。
先生は、彼女の心を撃ち抜く。
昨日起きた出来事は、本当にあったことなのだと、千秋に強く実感させられる瞬間だった。
「おはようございます……」
『先生』と付け足しかけて、彼女は一度止まった。
昨日と今日とが違うからと言って、千秋にとって彼が『先生』であることには変わりない。
しかし、いままでの彼女の認識としては、それは『糸目先生』の略称に過ぎなかった。
彼の名を、知らなかった頃ならば、それでもいいのかもしれないが、もはや違う。
春の名を持つ男であることは、はっきりと知っているではないか。
「お、おはようございます……春一先生」
だんだん小さくなる声をそのままに、千秋は挨拶を言いなおした。
下がったはずの熱が、また上がってしまうような瞬間だ。
胸はばくばくするし、喉から口に何か飛び出していきそうだった。
先生は、戸を閉める事なく動きを止めて、こちらを見ている。
不快な事だっただろうか。
心配になりながら、千秋が彼をそっと伺い見ると。
彼は、『あの顔』をしていた。
郷愁の果てを見る顔だ。
その表情に目を奪われていると、先生はその顔の上で秋から春までの季節を一瞬にして巡らせた。
郷愁の表情を一度無に変え、そして──微笑んだのである。
「その名前は、地史君にもらったものだけど……千秋が欲しいなら、あげるよ」
先生の唇から、君の名が出る。
同じ唇から、千秋の名も出る。
その唇は、己の名を口にすることはなかったが、二つの名前の間を流すように、千秋の前に届けられた。
彼女の羨望する、みっつ目の自分を持つ人からもらった大事な名を、差し出してくれるのだ。
もしかしたらそれは。
先生にとって、一番大切なものだったのかもしれないのに。
代わりに。
「さて、千秋……朝餉にしようか」
先生の表情は、春のまま。
春のまま、秋の名を呼ぶのだ。
それは、先生が──彼女の名をもらってくれたということだろうか。
いまの千秋は、ただ彼の名をぎゅっと抱え込むので精いっぱいで、その疑問の答えに行きつくことはなかった。
『秋冬春編 終』




