魔法香水は秘密の香り10
小刻みに体を震わせて、何かを掴もうとするように腕を前へ突き出す人影に、ヒオリはぎょっと目を見開く。
明らかに尋常ではない。夢の香りは気になったが、ドアから身を乗り出して震える背中に声をかける。
「だ、大丈夫ですか?」
「う、うう」
「しっかりしてください!……あ!」
慌てて彼女に駆け寄り、顔をのぞき込むとさらに驚いた。
脂汗を浮かべているのは、理知的な広い額とスクエア型の眼鏡が特徴的のややきつい顔立ちの女性。
魔法道具部門、玩具研究室所属のキリノである。
キリノはまるで悪夢でも見ているかのように目を閉じて、それでも何とか前へ進もうと体を動かしていた。
「と、とにかくこっちへ。立てますか?」
ヒオリはキリノに肩を貸して自室に招き入れると、いまだに呻く彼女を椅子に座らせる。
体に触れた際、どうやら香りはキリノから漂ってきているのだと気付き、眉間にしわを寄せた。
この香りを何処でつけてきたのかは気になったが、まずは落ち着かせるためにしばらく背中を撫でていた。
10分もしないうちに、少しずつだが彼女の呼吸が落ち着き、目の焦点が合ってくる。
「水か何か、ご用意しましょうか?」
「……いいえ、はあ。少しだけ、良くなったわ」
いまだに顔は真っ青だが、脂汗は引いたようだ。
体は少し震えており自らを抱くように腕をさすりながら、大きく息を吸い肺を新鮮な空気で満たしている。
「ご気分が悪くなっていたんですか?病院へ行った方が?」
「ごめんなさい、帰ってからずっとこんな調子で……そうね、明日医者に診てもらおうかしら……」
独り言のように呟いて、キリノは深く息を吸い込む。
その際何かに気付いたのか、視線がちらりとアロマデュフューザーの置いてあるベッドへと向けられた。
「この香り、素敵ね。これを嗅いでいると何だか落ち着いてくるわ」
「香り……?ああ、アロマですね」
アロマデュフューザーに精油を入れたばかりだから、部屋には濃く香りが漂っている。
安眠作用のあるものだから落ち着くだろうかと考え、デュフューザーのスイッチを押して、香りをさらに部屋中に充満させた。
「鎮静作用の強いアロマもご用意できますよ。イランイランやカモミールとか」
「いいえ、これでいい……いえ、これがいいわ。嗅がせてちょうだい」
キリノは深く呼吸を続けている。
よほどアロマが気に入ったのかと思ったが、それだけではないように感じる。
ぐっと眉間にしわを寄せ、彼女は必死に息を吸うことで何かに縋り、逃れようとしているかにも見えた。
尋常じゃない様子に違和感を覚え、ヒオリは言葉を選びながら彼女の横顔に問いかける。
「今日の、リリアン女史のことで、クロード所長に何か言われたんですか?」
「リリアン……?」
はっと顔を上げたキリノが、唇を震わせる。
心なしかまた顔色が悪くなっているようだ。ぎゅっと体を縮め込み、何かをぶつぶつと呟きはじめる。
「そうよ、私、リリアンに怒られて……それで、私、何かをされて……でも、一体何を……?」
やはり何かおかしい。
呟かれる言葉にぞっと背筋を震わせていると、やがてキリノはうつむいて黙り込んだ。
何かを考えているのか?不気味な沈黙が訪れる中、ヒオリは様子を見守る。
眼鏡の女性博士は虚ろな目で自らの手元を見ており、再び声をかけることははばかられた。
居心地の悪い時間がしばらく過ぎ、口火を切ったのはふと前を向いたキリノであった。
「……リリアン、あの子、何かおかしいわ」
「え?」
呟かれた言葉に、ヒオリは目を見張る。
キリノの口から発せられたのは、リリアンを否定するかのような言葉だったからだ。
昼間の彼女はあの可憐な女性博士の信奉者であったはず。それがいったい、どういう心変わりだろう。昼間の件でクロードに叱られ、目が覚めたのか?
疑問を頭の中で巡らせるヒオリを置いて、キリノは再びぶつぶつと小さな呟きを漏らした。
「そうよ、そりゃあ最初は境遇を聞いて同情したけど、それだけだったはず……。私、どうしてあんなに彼女をかばっていたのかしら?」
「あの……?」
「ねえ、私は……おかしかったわね?」
真に迫る表情で問われ、ヒオリは思わず口ごもる。
その沈黙が何より質問の答えになったようで、キリノはばつが悪そうに顔を背けてため息を落とした。
しばらく何かを思案するように視線を彷徨わせていたが、やがて彼女は顔を上げてヒオリに申し出る。
「ねえ、このアロマ、少しわけて頂けないかしら?嗅いでいると冷静になれる気がするの」
「それはもちろん、構いませんが……」
「悪いわね。……ああ、少し落ち着いてきたわ。そろそろお暇するわね……」
言って立ち上がったキリノに、ヒオリは慌てて同じブレンドの予備のアロマを手渡し、彼女を見送る。
キリノは何度も礼を言って、部屋を去っていった。
「……何だったのかしら」
不穏なものを感じて、ヒオリは小さく嘆息する。
解決しない疑問が胸の中に残って気持ちが悪かったが、ぼんやりもしていられないと寝仕度をしようとして……ふと気づく。
キリノが先ほどまで座っていた椅子の上に、何か葉のようなものが乗っていた。
彼女の体についていたものだろうか?と何気なくそれを持ち上げて……ヒオリの心臓がぎくんと跳ねる。
それは間違いなく、温室に生えていた植物と同一のものだった。




