魔法香水は秘密の香り09
魔法博士、ニール。
魔法香水の研究を主に、今はディアトン国立魔法研究所で働いている。33歳。男性。
12歳で飛び級制度を使い、魔法を専門に扱う大学に入学。そのまま何の苦労もすることなくストレートに博士号を取得している。
この研究所に来る以前は化粧品専門の研究所に勤めており、いくつか香水関係の研究に参加していたらしい。
香水の研究……ニールの調香したパフュームを味わった身としては、とても興味をそそられる。
だがそれだけだった。
魔法協会のデータバンクに掲載されたプロフィールを眺め、ヒオリはパソコンの前でため息をつく。
傘下の研究所に勤めている職員なら、所属中の他博士の略歴を観覧することが許されていた。
しかし自室に返って早速ニールの学歴と研究略歴を調べたのだが、予想以上に十人並みで少々肩透かしを食らっている。
無論ここに書いてあることが彼の人生の全てではないが、特別問題に思うことは無い。12歳で飛び級とは、なかなか優秀だったんだな、と感心するくらいだ。
(特に妙な点は、ないか……。普通の魔法博士ね)
パソコンを食い入るように見つめて画面をスクロールしていくが、特筆すべきことは見当たらない。
やはり考えすぎなのではと思い始めたころ、ふと最後の方に記載されていた『ヴォタニコス』の文字に軽く目を見開いた。
(ヴォタニコス市出身……。同郷だったのね)
マウスを動かす手を止めて、ヒオリは画面に書いてある文章をじっくりと読み込んだ。
簡易的な紹介文であり、ニールがヴォタニコスの街で幼少期を過ごし、そこで魔法香水を調香する楽しさに目覚めたとだけ書いてある。
『ヴォタニコス』はこのディアトン国東部に位置する小さな市で、ヒオリもまたそこで幼少期を過ごした。
中心地に比べればいささか田舎であるが、非常に気候が良く農業が盛んな地域である。草花も豊富で、ヒオリは幼い頃からその香りの虜となっていたのだ。
出身地も、香りに目覚めた経緯も己と類似点がある。
ぐっと眉間に深いしわを刻み、ヒオリは人差し指を神経質に動かしてとんとんと机を鳴らす。
(あの人、昔私たちが出会ったような言い方をしていたわよね。もしかして私が忘れているだけかしら?)
そう考えしばらく過去の思い出を探ってみたが、子供のころ彼と邂逅していた記憶はない……気がする。
小さな街とは言え人口は少ないとは言い難いので、同郷と言えど顔見知りとは限らない。
それにニールはあの見た目の良さである。もし出会っていたとしたら、簡単に忘れられるものではないだろう。
記憶力は悪い方ではないから、やはり自分の気のせいか。
それでも胸中に漂うもやが晴れず、ヒオリは険しい顔のままパソコンの横に視線を転じた。
そこにはカフェテリアでニールに貰ったアトマイザーが、ちょこんと可愛らしく鎮座している。
ほのかな薔薇色に色づくそれをしばらく見つめ、ヒオリは本日何度目かわからぬため息を落とした。
今一度香水の匂いに包まれたい、と言う誘惑に勝てず、アトマイザーを手に取るとニールにしてもらったように振りかけた。
甘く切ない薔薇の香りが己の体温とともに広がって、思わず深く呼吸をする。
様々なアロマの香りを嗅いできたが、これほど自分の好みに合うものも珍しい。
そのまま香りを堪能しつつ深呼吸をしていると、次第に心に落ち着き、にわかに眠たくなってくる。
ニールがかけた魔法はしっかりと効いているようだった。
(直接聞いた方がいいのかもしれないわね。私の疑いを彼に暴露することにもなりかねないけど)
心地いい気分に浸りながらそう考えて、ヒオリはパソコンを閉じる。
最後に念のため、ホームページの他に魔法研究関連の事件、事故を調べたが、ニールの名前が出てくることは無かった。
明日の朝一番に、ヴェロニカ女史に言われた言葉と共に疑問を投げかけよう。
ニールはどういう顔をするだろうか?案外何事もなくあの胡散臭い笑みを浮かべて、誤魔化すかもしれない。
だがその笑顔の下で、ヒオリに不満を抱き、不信感を覚えるようになってしまったら……。
(駄目だわ……)
ヒオリは眉間にしわを寄せ、感情を振り払うように椅子から立ち上がる。
調査の足並みが揃わなくなることよりも、彼との交流が無くなってしまうことが惜しいと一瞬思ってしまった。
(あの人の素性がはっきりするまで、個人的な感情は封印しておくべきだわ)
過剰な思い入れは研究結果にも影響が出る。
ままならない感情に振り回されながら、ヒオリは肩を落としてバスルームに向かった。
香りを洗い流すように念入りに体を洗って風呂を出、余計なことを考えないように無心で昨日と同じ状況を作り出す。
カメラ(昨晩撮れたのは自分の寝姿のみだった)を設置、アロマをデュフューザーにセットして、さてベッドに入ろうとした瞬間、ふと動きを止めた。
微かだが、ドアの外で何か物音がしたような気がしたのだ。
(誰かいるの?)
共同宿舎なので当然自分以外の博士はいるはずだが、何か妙な感じがする。
いまだに断続的に聞こえてくるその音は、大きな何かがずるずると床を這っているもののような気がするのだ。
しばらく無言で聞いていたが、やがて這いずる音はヒオリの部屋の前を通りかかる。
恐ろしさを感じる。しかし意を決してヒオリはドアへと近づき、隙間からそっと外を覗いた。
その瞬間、ふいに鼻腔に甘ったるく怖気の走る匂いが届く。
───夢の香りだ。
危機感が思わずヒオリに扉を閉じさせかけたが、しかしふと気づく。
常夜灯のみがつけられた薄暗い廊下……部屋の扉の前で誰かがうずくまり、唸っている様子が見えたのだ。




