十八 再会(2)
すべての始まりとなった大掃除の日──。
あの驚きは一生忘れることがないだろう。
学内で評判の美人教育実習生が、なぜか汚れたジャージに身を包んでいたのだから。
うちの卒業生ということは赴任当時の校内新聞で大々的に取り上げられていたが、それでもジャージを着ている理由がわからず目を奪われてしまった。
なぜ実習生がそんな格好をしているのか。最初に芽生えたのは疑問だった。
在校時と同じ三年二組に舞い戻ってきた期待の卒業生と話題になっていた彼女が、こんなところに来る理由も不明で、頭の中には疑問符が大量発生していた。
そんな疑問も、後に彼女と話をしていく中で徐々に明らかになっていった。
単純な理由なのだが、生徒に混ざって掃除するということでジャージ姿になっていただけだったのだ。実習生という独特の立ち位置だからこそできる芸当だろう。
ちなみにジャージは昔自分が着ていたのを用意していたらしい。
踊り場に一人で来た理由は、自分が昔よく入り浸って世話になっていたからと言っていたが、それ以上のことは聞けなかった。
いや、聞き出せそうな雰囲気ではなかった。過去のことを語る彼女の顔は、普段からは想像もつかないほど暗く沈んでしまうから。
自分から言おうとしないことを引き出す勇気が俺にはなかった。
恋心が芽生え始めた時は、もちろん困惑した。
よく禁断の恋として教師と生徒というのが引き合いに出されるが、それと似て非なるものだったからだ。
彼女は教師ではないが、生徒を指導する立場というのは変わらない。
何かあれば、たちまち重大な問題に発展させられてしまうだろう。そんな相手に抱く恋心は、きっと一過性の現象だろうと気持ちに蓋をした。
彼女に迷惑がかかるという理由をその上に乗せて。
その抑圧された感情が、今こうして彼女に向けられている。
教育実習の期間が終われば、阻む物は何もないと考えたから。原因よりも結果が大事だと気付いたから。
どれくらい沈黙が続いたのだろう。
太陽は傾く気配もなく輝いているので、何時間もたったということはないと思う。せいぜい数分程度のことだったはずだ。
俺には一生を終えて戻ってきてもお釣りがくるような長さに感じられたけど。
「──ありがとね。ちゃんと伝えてくれて」
その声は、前と変わらない優しさで満ちていた。
以前のような、気軽に話し合えていた頃に戻れた気さえする。
「啓介くんの想い、しっかり受け取ったよ」
「そっ、それって、あの──」
俺が続けようとすると、彼女はそれを遮った。
自分の中で言葉を吟味するように十分な間を取ってから、こう告げられる。
「それで、啓介くんはどうしたいの?」
最初、言葉の意味がわからなかった。
続けて、わからないなりに考えようと彼女の言葉を頭の中で吟味する。
最後に、どうしたいのかという俺の意思を告げていないことに気付かされた。
そう。好きと言っただけで一仕事終えた気分になっていたが、そこで止まったらただの自己満足だ。
好きだからどうしたいのか、そこまで伝えないと十分な告白とは言えない。
「お、俺と……」
またしても言葉が詰まるが、この後に続く言葉なんて一つしかない。彼女は全部をわかっていながら、明確な言葉を求めているだけなのだ。
そう考えると、少しだけ気分が楽になる。
「付き合って、ください」
そこまで言い終えると、本当の意味で肩の荷が下りた気分になった。
気付けば背中から掌まで汗がびっしょりだ。夏場だから、という簡単な理由だけではないのは明らかだ。
そして、自分がこうなってしまうのは彼女を本気で好きだからなんだと再確認する。
小学生の頃には、こんな気持ちになるなんて想像もしなかった。
彼女は嫌そうな表情になることもなく、以前と変わらない楽しそうな微笑みを浮かべている。
今はとても目を合わせられないので、チラチラと横目で様子を窺うしかない。
そうして何度目かのチラ見をした時、突如彼女が吹き出した。
「ふふっ、そっか。啓介くんって意外と情熱的だったんだね」
そんなことで笑われて、俺はどう反応すればいいんだ。
「草食系男子とか今もてはやされてるけど、ああいうのより啓介くんみたいなのがいいな。むしろ好きって感じ」
好き、という何気ない言葉に反応してしまう自分が悔しい。
「そこまで真剣に伝えられたら、私もちゃんと考えて返事しなきゃって思ってる。だから、少しだけ待っててくれる?」
どこかで予想はしてた。俺みたいなのが告白して即オッケーを貰うなんてことはありえないだろうと。
だから、彼女の返事は十分合格圏内だ。
「もちろんです。それと俺、小池さんと同じ大学目指してますから」
「へえ。でも、どうして? 啓介くんが入学しても、その頃には私卒業してるのに。あ、もしかして私が留年するとか考えてたりして」
茶化す彼女には悪いが、ここは真剣に伝えさせてもらうことにする。
あんな告白をした後だ。何を言っても怖くなどない。
「いえ、小池さんと付き合うなら、俺が釣り合うような人間にならないとダメだって考えたからです。実習生とか卒業生とか後輩とか、そういうの全部関係なく並んで付き合いたいんです。だから、せめて同じ大学にと思って」
俺の言いたいことは伝わっただろうか。
見れば、今度は彼女が俺から目を逸らしていた。心なしか、その頬が赤くなっているような。
「……啓介くんって、なんかズルい」
「なんですか?」
「ううん、別に」
そう言った時には、もう彼女の表情は戻っていた。
何を非難されたのかはわからないが、とりあえず不機嫌ではないようなので一安心だ。
「それにしても、うちの大学って結構レベル高いよ?」
「わかってます。そのために、もう受験対策は始めています。それでも足りなければ塾でもなんでも行くつもりです」
夏休みの宿題を早めに片付けようとしていたのは、更に先を見据えた対策をするためだった。
本当は七月中に終わらせるべきだったんだがな……まあ、何かを始めるのに遅いということはないって言うし。
やらないよりはやる方がいいに決まってる。
「そっか……なら、もっといい勉強法あるんだけど、教えてあげようか?」
「なんですか?」
今の俺はどんな小さな光にも手を伸ばす勢いだ。
たとえそれがくすんだプルタブでも、いつかは本物の財宝を拾えると信じて。
「私が啓介くんの勉強を見てあげるの。いい考えでしょ?」
「……はい?」
財宝どころか、なんかダイヤモンドの原石みたいなのが転がってきたんだが。
「目指すところの現役大学生が教えるなら間違いないし、これ以上の対策もないでしょ?」
「あの、それって……」
経験不足な俺でも簡単に予想がついた。
だって、受験勉強している間も俺の側にいてくれると言っているんだから。その家庭教師にも似た申し出に、悔しいが期待と少しの欲望を覚えてしまう。
「こらっ、これ以上女の子に言わせないの。もう、わかってないんだから」
厳しい言葉とは裏腹に、彼女はとても優しく微笑んでいた。
明確な言葉を使わずに、自分の意思と答えを相手に伝える。そんな芸当をする彼女には、やっぱりかなわない。
「あ、そうそう。あんなに熱い告白したんだから、浪人とかやらかしたら許さないからね?」
「ぜ、善処します……」
どうやら鬼コーチの匂いがする。だが、それも悪くない。
彼女がいてくれれば、俺は前に進めるのだから。




