第8話:出張デバッグと温泉の仕様
仮事務所の環境もようやく整った。
段ボールを机代わりにしていた頃と比べれば、椅子も棚もまともなものが揃っている。
窓から差し込む光も、以前のように排気ガスで薄汚れてはいなかった。
フィオナは朝から掃除に精を出し、最後に淹れたての茶を机へ置く。
「はぁ……やっとまともに掃除ができますわ」
窓を閉めながら、満足そうに室内を見回した。
「やはり落ち着いた環境で淡々と成果を出すのが、優れた職場というものですわね」
「そうだな」
俺は茶を受け取り、一口すすった。
「で、その落ち着いた環境を飛び出す出張の仕事が入った」
フィオナの手が止まった。
「……いつですの?」
「今日」
「今日!?」
灰燼街から馬車で三時間ほど。
山奥にある温泉街、霧ヶ峰湯ノ国の温泉組合から正式な依頼が入っていた。
原因不明の設備不良らしい。
往復の移動費に加えて、最高級旅館の宿泊費まで全額前払い。
報酬も悪くない。
何より、依頼書の最後に書かれていた一文が決め手だった。
『どうか一刻も早くお願いします』
これは金になる。
◆ ◆ ◆
夕刻。
鬱蒼とした杉林を抜けると、白い湯煙が山あいに漂っているのが見えてきた。
硫黄の匂いが風に混じり、赤い提灯の並んだ通りの向こうでは、旅館の屋根から湯気が立ち上っている。
フィオナは馬車の窓から身を乗り出さんばかりにしていた。
「まあ……!」
さっきまで出張に文句を言っていた人間とは思えない。
「温泉街ですわ! 素敵ですわね!」
「仕事だぞ」
「分かっていますわ。でも、仕事先が温泉なのですから、多少楽しんでも罰は当たりませんでしょう?」
「まあ、それはそうだな」
老舗旅館の離れへ案内されると、そこで待っていたのは温泉組合長のトメ吉だった。
かなり年季の入った男で、立派な浴衣を着ているわりに顔色は悪い。
挨拶もそこそこに、大浴場へ案内された。
広々とした岩風呂だった。
ただし、湯はおかしい。
湯面が一瞬白く凍りついたかと思えば、次の瞬間にはボコボコと泡を立てて沸騰し、また何事もなかったように静かな湯へ戻っていく。
「一週間ほど前から、この有様でしてな……」
トメ吉が湯船を見ながら肩を落とした。
「入った客が一分もしないうちに飛び出してくるんです。熱いとか冷たいとか、そういう話ではもうなくて」
フィオナが恐る恐る手を伸ばす。
湯気に触れた指先が、次の瞬間には冷気に包まれた。
「ひっ……!」
慌てて手を引っ込める。
「典型的な温度制御ルーンの暴走ですわね」
フィオナは俺を見る。
「解呪できますか?」
「たぶん」
俺は煙草を咥え、湯船の縁にしゃがみ込んだ。
岩の隙間に埋め込まれたルーンを順番に追っていく。
温度検知、水量調整、加熱制御。古い術式だが、基本的な構造はよくできている。
「……なるほどな」
「原因が分かりましたの?」
「これ、壊れたんじゃない」
「では?」
「使い方を変えたんだろ」
俺は顔を上げた。
「組合長。最近、何か設備を増設したか?」
「ええ。先週、新しい源泉ポンプを一台追加しました」
「理由は?」
「せっかくの温泉ですからな。湯量を二倍にして、もっと贅沢にしようと」
トメ吉の表情が少し誇らしげになる。
俺は黙って湯船を見た。
「それだ」
「それ、ですか?」
「元の温度制御は、旧ポンプの吐出量を基準に作られてる。変数も1バイトだ」
フィオナが眉を寄せる。
「1バイト……255段階まで、ということですわね」
「そう」
俺はドライバーを取り出し、ルーンの一角を軽く叩いた。
「ところがポンプを二倍にしたせいで、水量が上限を突破した。数字が一周して反対側へ回る。あとは温度制御が、それを正しい値だと思って処理し続ける」
湯面がまた凍りついた。
一拍遅れて、今度は盛大に沸騰する。
「数字が一周して……」
フィオナが湯を見た。
「熱湯と氷水を行ったり来たりしている?」
「そういうことだ」
トメ吉は頭を抱えた。
「設備を良くしたつもりが、こんなことになるとは……」
「別に珍しい話じゃない」
俺はドライバーの先をルーンへ差し込んだ。
「2バイトに広げる」
「それだけですの?」
「それだけだ」
カチリ。
小さな音がした。
湯船を覆っていた妙な明滅が消え、暴れていた湯面も次第に落ち着いていく。
やがて岩風呂には、ちょうどいい温度の湯が静かに満ち始めた。
トメ吉がおそるおそる手を入れる。
「……おお」
もう一度、肩まで手を浸ける。
「ちょうどいい」
その顔が、みるみる緩んでいった。
「ちょうどいいぞ!」
フィオナも湯気の向こうから湯船を覗き込む。
「本当に直りましたわ……」
「だから言ったろ。二分で終わる」
◆ ◆ ◆
その夜。
仕事を終えた俺たちは、最高級の刺身と上質な酒を前にしていた。
出張というものも、たまには悪くない。
フィオナは箸を置き、満足そうに息を吐いた。
「……完璧な仕事でしたわね」
「そうだな」
「今回は設備をきちんと調べて、原因を特定して、必要なところだけ直す。しかも旅館の食事まで付いてくる、経費だからな」
「ええ。たまにはこういう出張もいいものですわ」
俺も酒を口にした。
「俺は依頼を受けたらバグを取る。それだけだ」
「はい」
フィオナは嬉しそうに頷いた。
「今回は何のオチも被害もなく、本当に素晴らしい仕事でしたわ」
「そうだな」
二人とも、それ以上は何も言わなかった。
その夜は露天風呂にも入り、久しぶりに何事もない一日を終えた。
◆ ◆ ◆
翌朝。
ドンドンドンドンッ!!
「オルダス先生! 起きてください! 大変です!」
扉を叩く音で目が覚めた。
俺は着流しを羽織り、眠い目をこすりながら扉を開ける。
そこには青ざめたフィオナと、今にも泣き出しそうなトメ吉が立っていた。
「朝から騒々しいぞ」
「騒々しくもなりますわ!」
フィオナが俺の腕を掴む。
「大浴場です!」
「湯がまた暴れたか?」
「逆です!」
何やら嫌な予感がした。
「湯船から出られないんですの!」
「……は?」
大浴場へ駆けつける。
昨日まで普通だった岩風呂には、朝風呂を楽しんでいた客が何人も集まっていた。
正確には、楽しんでいるように見える。
湯船の縁を掴み、なんとか外へ出ようとしているのだが、そのたびに足や腰がずるりと湯の中へ戻されていた。
「……あたたかい……」
「いや、そろそろ出たいんだが……」
「湯が離れてくれん……」
客たちは苦しそうなのに、顔だけは妙に幸せそうだった。
その足元では、湯が妙に粘っている。
フィオナが指を差した。
「昨日、温度制御の処理領域を拡張したでしょう!?」
「したな」
「そのせいで、温泉に元から組み込まれていた『疲労回復』と『保温』の処理まで、今までより細かく最適化され始めたんです!」
俺は湯船を見る。
「保温が強くなった?」
「強いなんてものじゃありません!」
フィオナが叫んだ。
「入浴者が湯から出ようとすると、せっかく温まった体温を逃がさないように湯そのものがまとわりつくんです!」
トメ吉が膝から崩れた。
「保温機能が……完璧すぎるんです……!」
その横を、一人の客が必死に這い上がってくる。
あと少し。
手が岩の縁に掛かった。
「よし……!」
ずるっ。
「うわぁぁぁ!」
また湯の中へ戻っていった。
俺はその様子を眺め、胸ポケットから煙草を取り出した。
フィオナが振り返る。
「……オルダス先生?」
「何だ」
「その顔は何ですの」
「別に」
「『最高レベルの保温力で大成功だ』みたいな顔をしていますわよ」
「バグじゃない」
俺は煙草に火をつけた。
「システムが客の体温維持を第一に考えた結果だ。仕様としては正しい」
「人間が出られなくなっています!」
「過剰なアフターケアだな」
「アフターケアで物理的に人間を拘束するのですの!」
「冷え性の奴には絶大な効果があるぞ」
「そこを褒めるんじゃありませんわーーーッ!!」
フィオナの声が大浴場に響いた。
俺は湯船をもう一度眺める。
確かに、湯加減だけは完璧だった。
「水……水温……水鉄砲……」
突然フィオナがぶつぶつと呟き始めた。
「……どうした?」
「粘着シグナルを冷却すれば、処理をキャンセルできるのでは……?」
オルダスが目を見開いて珍しく大声を上げた。
「それだ!!!」
その日の朝、霧ヶ峰湯ノ国では、温泉客と従業員が水鉄砲を片手に大浴場を走り回ることになった。
出張先の仕事として、それが正しい解決方法だったのかは、俺にもよく分からない。
しかし、助手が頼りになる存在へと変わりつつある手ごたえを感じる旅だった。
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