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泥人救火

 病院の自動ドアが開いた瞬間、中から涼しい風が流れ込んできた。身体にまとわりついていたじめじめとした熱気が吹き飛ばされ、美玲はホッと息をついた。

 消毒薬の匂いのしみついた広々とした受付。順番待ちをしながら隣の人と世間話をする人々。受付ではひっきりなしに電話が鳴り、人々が足早に行き交っている。

 小児科の子供たちが描いた家族の絵が貼られた掲示板。ポールパーテーションで仕切られたグランドピアノ。自動販売機を通り過ぎ、美玲は慣れた足取りでエレベーターに向かう。阿恩は美玲に手を引かれるまま、御影石の床に映る自分の影を踏むようにして歩いている。

 美玲は阿恩を母の病室に連れて行くと、ドアを開いて阿恩に言った。

「おばあちゃんに絵本を見せてあげてね」

「うん!」 

「お母さん、お医者様にお話を聞いてくるから、ちょっとだけ阿恩を見ていてくれる?」

 ドアを開けて母に声をかける。思ったより元気そうだ。

 母は頷くと、

「恩恩、よくきたねぇ」

 と、猫なで声で阿恩を手招いた。

 美玲はそれを見届けると、電話をかけるために再び外に出て、携帯の電源を入れた。

 母にはああ言ったが、毎日見舞いに来ているから、容体はわかっている。叔母に電話をしたかった。自分一人で、仕事と介護と子育てを両立するのは難しい。

 藁にもすがる気持ちで電話帳を開き、叔母の電話番号を表示する。だが電話をかける決心がつかず、十字キーの上下ボタンを押しては、何度も叔母の連絡先を通り過ぎた。

 断られたら、迷惑がられたら、そう思うと怖くてたまらなかった。

 でもーー。

 あの時自分が轢いたのが、もし人だったら?

 阿恩も母も見てくれる人がいなくなる。

 美玲は意を決して、通話ボタンを押した。

 呼び出し音が鳴る。

「もしもし」

 受話器越しに叔母の声が聞こえた瞬間、鼓動が跳ねた。携帯をつかむ手に力がこもる。

「……おばちゃん」

「阿玲かい?」

 名前を呼ばれた瞬間、のどが震え、心が決壊した。涙が後から後からこぼれ、美玲は慌てて電話口を押さえ、必死に息を整えた。

「もしもし? もしもし?」

「もしもし。うん。おばちゃん、私。久しぶり。元気だった?」

「元気元気。お陰さま! 阿玲はどうだい?」

「私は何とか……。でも、お母さんが脳梗塞になって」

「ええっ? 大丈夫なの?」

「命に別状はないの。でも、ちょっと麻痺が残って……。来週の経過次第では、リハビリ病棟に移れるみたいなんだけど……」

「そう。大変だったのねぇ」

 叔母の口調が固くなった。

「うちもねぇ、お父さんが仕事をクビになって……、鬱になっちゃってねぇ。私も今仕事を二つ掛け持ちしているのよ」

 早口で言う叔母に、胸がぎゅとなった。

「そっか……。おばちゃんも大変ね」

「そうなのよ。大舅《兄さん》には、もう連絡をした?」

「ううん、まだ」

「そう。電話をしてごらんなさい。大舅は人脈も広いし行政にも詳しいから、何か力になってくれるかもしれない」

「うん、そうするね。お医者様が、2年前に公的サービスができたって言ってたから、どうやって申請したらいいのかも含めて、よく相談してみる」

「そうだね。それがいい。阿玲、あんたも忙しいだろうけど、身体にだけは気を付けて。今度、阿恩を連れて遊びに来なさい」

「うん、ありがとう」

「今度お休みの日に、姉さんのお見舞いに行くわね」

「うん。でも、お母さん、脳梗塞の影響でちょっと性格が変わっちゃったから。もしかしたら、失礼なこと言っちゃうかもしれないけど、その時はごめんね」

「大丈夫、大丈夫。あんたも疲れてるでしょう。阿恩なら見てあげられると思うから、一日うちに連れてきて、ゆっくりしなさい」

 美玲が目を伏せ笑った。

「うん。ありがとう。じゃあ、切るね」

 事故を起こした日から、今日で七日だ。

 美玲は、力なく手を下ろすと、ため息をついて空を仰いだ。

 何も考えられない。考えたくない。ただ、心がぽっかりとなくなって、軽くなっている。

 ざぁと一斉に椰子の葉が揺れる。近くの高速道路から漂う排気ガスの匂いに混じって、爆竹の匂いがする。

 顔を巡らせば、騒々しい音楽を鳴らすトラックが見えた。

「おい、あれ! 電音三太子だ!」

 駐車場で若者が叫び、車をそのまま歓声を上げながら走っていく。テクノミュージックに合わせ、神様の着ぐるみを着た一団が歩いて行くのが見えた。

 美玲は急いで携帯をしまうと、逃げるように病室に向かった。


「恩恩、これはなぁに?」

「兎兎!」

「じゃあ、これは?」

「猫!」

 病室から漏れる、母と阿恩の声に、こわばっていた体から知らず力が抜けた。

「お待たせ。お母さん、恩恩を見ていてくれてありがとう。恩恩いい子にしてた」

「してた!」

「先生は何だって?」

「あと一週間くらい様子を見て、何ともなかったらリハビリ病棟に移れるって」

「そう。お店にはお礼に行ってくれた?」

「うん。お母さんのこと心配してたよ。処置が早かったから、軽くて済んだって言ったら安心してた」

「そう。退院したら、お礼に行かないとね」

「うん。だから、ゆっくり休んで、早く良くなってね」

 母が嬉しそうに笑って頷いた。

「おばーちゃん、はやく良くなってね!」

「ありがとう、恩恩。おばあちゃんが退院したら、恩恩の平安紅縄《ブレスレット》を買いに行って、土地公にお参りに行こうね。いつの間にかこんなに大きくなって、ちぎれそうになってるじゃない」

「後ろのひもを引っ張って、調節して?」

「恩恩、手をパーってして、おばあちゃんに見せてくれる?」

 阿恩が両手をパーにして見せた。母がてこずりながらひもを引っ張るのが見える。美玲はバッグからパジャマや着替えを出すと、代わりに洗濯物を詰め込んだ。

「ねぇ、お母さん、今日は児童節でしょう? 市場でお母さんの好きな潤餅《台湾風春巻き》を買ってきたよ。恩恩、おばあちゃんに渡してくれる?」

「うん」

 阿恩がピンクのストライプの袋を掴み、バサリとベッドの上に置く。

「どーぞ!」

「あら、ありがとう」

「お母さんはカレー味にしたけどよかった?」

「ええ。カレー味が一番だから」

「原味《オリジナル》は?」

「原味も一番」

 母が、人差し指で阿恩の頬を撫で、阿恩がくすぐったそうに笑った。 

「恩恩、児童節快楽」

「児童節快楽!」

 元気よく阿恩が言い、大きな口で潤餅にかぶりつく。

「ほらほら、恩恩こぼさないようにね」

 自分が食べるのもそこそこに、美玲が阿恩のズボンにこぼれたピーナッツを手で払った。

「ん-!」

 煩わしそうに肩を揺らした阿恩が、びっくりしたように目を丸め母を見た。

 母は震える手で、潤餅を握り潰さんばかりに持っていた。麻痺した口を大きく開けて食べようとするが、右手が逃げてうまく食べることができない。阿恩はふざけていると思ったのだろう。弾けたように笑いだした。

「何がおかしいの!」

 母が声を荒げた。

「言ってみなさい。何がおかしいの!」

 白いシーツの上に、潤餅の中身がたくさんこぼれている。

「お母さん……」

 ここまで麻痺していると思わなかった。美玲が、目を見開いて立ち尽くした。

「何、その目は! 何がおかしいの? 美玲!」

"なんだその目は!"

 瞬間、別れた夫の声が脳裏によみがえった。

「お前はいつもそうだ。私を馬鹿にして!」

「そんなつもりは……」

”出ていけ!”

「出て行って! 帰って! もう二度と来ないで!」

 息ができない。

 美玲は阿恩の手を引っ張ると、無理やり椅子から立ち上がらせ、逃げ出した。

「本!」

 後ろに手を伸ばし、阿恩が叫ぶ。

 母が本を拾い上げ、こちらにむかって投げるのが見えた。

 間一髪閉めたドアに本が当たる音がする。

 息が苦しい。

 美玲は、自分の手の中の小さな手をたどり、阿恩の顔を見た。

 心の中で童謡を歌って、必死に落ち着こうとする。

「媽《ママ》」

 異変を感じたのだろう。阿恩が頼りなげな声を出した。

「大丈夫」

 息を吸うのを我慢して、細く長く吐き出す。

 ドアの向こうで、母が声を殺して泣くのが聞こえてきた。

「大丈夫」

 阿恩の手を引いて、歩き出す。

「媽ー?」

「大丈夫。恩恩。かわいい恩恩。プリンを買って帰ろうね」

「プリン!」

 呼吸が落ち着いてきた。

 美玲は震える口元に笑みを浮かべると、病院を後にした。

 入口にある、慈母の像から目をそらして。

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