捨てないで!
古ぼけたスニーカーが草むらに落ちていた。雨が続いたからだろう。黒ずんだ靴はじっとりと濡れ、すり減ってできた踵の穴にカミキリムシが顔を突っ込んでいる。
ズズーー
空気を揺らす、微かな音がした。
草むらに四散していた黒い水たまりが、小さく揺れる。
ズズーー
何かに引き寄せられるように水たまりがゆっくりと動き、一つの塊になっていく。
やがて臭気を放つ赤黒い水たまりから、すぅと靄が浮かび上がった。
”悔しい……”
靄が囁いた。
”痛い……”
ぶるぶると震えながら、靄が人影に変わる。
”ここは……?”
ともすれば崩れそうになりながら、靄が目なき目で視線を巡らせた。
空き地のあちこちに真新しいアクリル絵の具が散乱している。
未だはっきりとした輪郭を持たぬ靄が、震える手を伸ばし絵の具をつかもうとした。だが、触れない。
ジジ――透明の羽を広げ、カミキリムシが逃げた。
雨露に濡れた草は広範囲になぎ倒され、地面をえぐるタイヤの跡に絵の具の溶けた水が溜まっている。
靄はつぶれた絵の具を両手ですくい上げるように包み込みと、触れぬことに苛立つかのように、ぶわりと膨らんだ。
ふいに笑い声が聞こえた。
靄が塊を長く伸ばし道路を見やる。
後部座席に二人の子供を乗せ、足元にもう一人乗せたスクーターが、スピードを落とさずやってくる。三人の子供が笑って身をよじるたびに、父親が鋭い声を上げ注意をしていた。
車がクラクションを鳴らし、スクーターを追い越して行く。
”違、う……”
縦に伸びていた靄がふたたび平らに戻り、這うようにして草むらを移動し始めた。
”痛い……怖い”
靄がぶるぶると震え、助けを求めるように辺りを見回す。空き地の隅に小さな廟を見つけた。靄がにじりよりながら長い手を伸ばす。
”寒い……助け、て……”
声が次第にぼやけ、靄の形が崩れていく。やがて薄く漂う霞のようになった靄が、最後の力を振り絞るように叫んだ。
”媽媽《お母さん》!”
パトカーが停まった。黄色い安全ベストを着た警察官がゾロゾロと降りてくる。
「あー、こりゃあダメだな。タイヤ痕が雨で削られちまってる」
鑑識が、水たまりを覗き込みながらぼやいた。
「すみませぇん、隊長ぉ」
「ったく! タイヤ痕の採型を失敗するやつがあるか!」
「だって、失敗だって思わなかったんですもん……!」
「これのどこが失敗じゃないんだ! 気泡が入ってるわ、大方雨水をすくって捨てようとでもしたんだろう? タイヤ痕が削れて表面ががたがたじゃないか! 失敗したら、加害者の特定につながらなくなる。不安な時は、できるやつに頼め!」
「あいたっ!」
隊長が部下の頭を軽くはたき、ため息をついて辺りを見回した。
「事故発生時刻は29日未明。当時は雨が降っていて視界不良。街灯も少ない。被害者は黒い服を着ていた。そのせいで発見が遅れて、事故を起こしたんだろう」
「被害者は夜間美大に通う苦学生、でしたよね」
隊長がアクリル絵の具を拾い上げ頷いた。
「そうだ。ったく、こいつのせいで、捜査が難航しそうだな。見ろ、破片に絵の具がべっとりついている。無理やり剥がせば車の塗装ごと持ってかれるし、かといってそのまま分析にかけるわけにもいかない」
「監視カメラも壊れてたんですよね……」
二人がため息をついた。
隊長が絵の具を元の場所に落とし、指をこすって土を払った。
「財布に学生証が入っていたから、身元の確認ができたものの……まったく、不運な奴だ」
「携帯もPHSもまだ見つかってないし」
「それは、どっちかというと、持ってなかったのかもしれないな」
「えっ、この時代に持ってない?」
「財布の中を見ただろ? 中はパンパンのレシートとちょっとの現金。後は使いかけの消費券と学生証しか入ってなかった。金融海嘯のあおりをもろに食らったんだろう。レシートと聞き込みから判断するに、三食まともに食えず、賄いで凌いでいたみたいだからなぁ」
「あー……」
「学費のために朝から晩まで休みなく働いて、これか……。気の毒になぁ。できるだけ早く犯人を特定してやりたいが……」
警察が空き地を捜査しているのを見て、やじ馬が集まってきた。
靄は、その中に見覚えのある顔を見つけ、薄く漂う霞を集め、ぬっと一部を持ち上げた。
” !”
叫んだ言葉が何だったのか、靄自身にもわからなかった。
はやりのチェック柄のマスクをした若い女が睨むようにこちらを見ている。スクーターの後ろには、薄手の上着を後ろ前に着た女が乗っており、運転する女と何事かを話していた。
靄は静かに忍び寄ると、スクーターの後ろにまとわりついた。
二人がスクーターで向かった先は、美大だった。
「早く! 昼休みの内に終わらせないと!」
二人がもどかしそうにヘルメットを脱ぎ捨て、急いで教室に走る。
靄はふわふわとスクーターから降りると、長く伸びて窓から中を覗いた。
様々な絵の具の飛び散った教室には、たくさんの同級生達がいる。仕事を抜け出して来たのだろう。スーツや作業着、カフェエプロンを着た同級生達が急いで何かを片付けているようだった。
「昼休みが終わったら、昼の学生達が戻ってくる。それまでに終わらせろ!」
眼鏡をかけたぼさぼさ頭の中年の男が言い、大きな水色のゴミ袋を手にした学生達が一斉に動き始めた。
「これはどうだ? あいつのか?」
「はい!」
部屋の真ん中にどんどんと絵が集められる――
”……ぼく、の絵”
夜間の美大に入学して3年間、描き溜めた絵がゴミ袋の中に入れられていく。
”やめろ、やめろ、やめろッ!”
悲鳴のような声で叫び、拳で窓を叩き、何とか止めさせようとする。だが、声は中に届かない!
「これで全部か? よし、裏に持っていくぞ!」
生徒がゴミ袋を手に教室を出ていく。
”捨てるな! ぼくのっ! ぼくの絵だ! 捨てるな……捨てないで……!”
最後はすすり泣くような声に変わると、靄は声なき声で絶叫した。
靄が爆発的に増殖し、校庭の木の葉を揺らす。
だが、誰一人として足を止める者はいなかった。




