早朝の路地裏『無名米苔目店』。銀髪の店主は、黄金色の澄んだ豚骨スープをふるまう
3月30日。早朝5時。
水たまりが穴を穿つ道路を、リヤカーを引いて歩く音が聞こえてきた。
しゃがんでシケモクを吸っていた七郎は、その音を聞きのったりと顔を上げた。
狭い道路にひしめく建物はどれも明かりを消しており、静まり返っている。
古ぼけた白いタイルの吹き抜け。その上に残る手つかずの赤レンガの建物。
ようようピンクになりかけた空を見上げると、普段は気にならない壁の高い所に自生する木がやけに目についた。
「おーい、阿伯、飯食った?」
不意に声をかけられ、リヤカーを引いていた阿伯が立ち止まった。
蛍光イエローのベスト。掃除道具を乗せたリヤカー。
大通りから一歩中に入った路地裏は暗く、人影は見当たらない。
阿伯がくわえ煙草のまま、辺りを見回す。道路にはみ出たステンレスの調理台の下に、小さな鬼火が揺れている。
『無名老店米苔目』
明かりが消えた看板を見やり、薄暗がりにようやっと慣れた目で下を見ると、店主の七郎がしゃがんで煙草を吸っているのが見えた。
仕事終わりのボサボサの銀髪。棘のついたチョーカー、オーバーサイズの白いTシャツ。両膝をゆったりとしたベルトでつないだ七郎が、プカリと輪っかの煙を吐いている。
「なんでぇ、兄ちゃんか。姿が見えねぇから鬼かと思ったぞ。まぁた、こんなところで煙草を吸って。見つかったら、罰金取られんぞ!」
阿伯が渋紙のような顔をくしゃくしゃにして笑った。酒に焼けたガラガラ声が、人気のない路地裏に響く。
「大丈夫だって! ホラ、屋根から一歩出てるだろ?」
「ちげぇねぇ」
「それに、大体、阿伯だって、煙草吸ってんじゃねぇか」
「俺ぁいいんだよ。外だからな!」
「煙草、道に捨てんなよ」
「そりゃあ、こっちのセリフだ。誰がこの道を掃除して守ってると思ってんだ」
七郎が笑って、灰皿に煙草を押し付けた。
「毎朝、ありがとうございます」
「おう、感謝しな」
「じゃあ、感謝の気持ちを込めて、あったかいスープはどう? 麺はもうないけど、今なら肉の切れ端付き!」
「そりゃあ、ありがたい」
「じゃあ、そこ座って!」
七郎が軒先に置いたパイプ机を指さした。
日中は汗をぬぐう日が増えたが、早朝はまだ少し肌寒い。もう少ししたら、朝食を求める人たちで、市場周辺は混雑するだろう。荷を積んだトラックがバックをする音や、勢いよくドアを閉める音が聞こえてくる。
七郎はプラスチックの椀にスープを注ぐと、残っていた肉を乗せてフライドエシャロットを散らした。やっと鍋が空いた。
「ほい」
「わりぃな」
「いいって。今度代わりに何かおごってくれたら」
阿伯が愉快そうに笑う。
「最近はどうだ?」
「あー、いつも通りだよ。阿伯は?」
「俺の担当地域で事故があってなぁ……」
「ええっ、大丈夫だったの?」
「俺ぁ何ともねぇが、若ぇのがダメだった」
「あー……そいつは気の毒に」
「避けろっつったんだけどよ、声が届かなくてなぁ……。ここいらは運転が荒いのが多くていけねぇ」
「みんな忙しいんだよ。働き者ばかりだからな」
「ちげぇねぇ」
阿伯がちょっと笑った。
「それによぉ、大陸からのツアーが解禁されてからこっち、こんな時間帯でもホテルの前にでかいバスが並んで、見通しが悪ぃったらねぇ。掃除もしにくいしな」
「そういや最近、うちにも毎日来てんな。ツアーで細かく行き先が決められてるって聞くけど、何で、こんな辺鄙なとこにある店に来るんだか。近くに夜市もあるってのに」
「そりゃあ、このスープの匂いにひかれてくるんだろ」
「違いない」
早朝の空気にしみ込むように、澄んだ豚骨出汁のスープとフライドエシャロット、くたくたに煮たホルモンの香りが漂っている。
七郎は手持ち無沙汰に調理台にもたれると、火のついていない煙草をくわえた。明かりを落とした店内に、ぼんやりとブラウン管テレビが光を放っている。テロップがにぎやかな画面の右端で、アナウンサーが交通事故のニュースを告げていた。
「ああ、さっき言ってたのはあれだ。轢いて助けもせずに逃げるたぁ、まったく、ひどいことをしやがる」
阿伯が苦渋に満ちた声で言い、椀を置いた。
「兄ちゃん、あんたも帰りは十分気をつけな」
「おー」
七郎はあくびをしながら頷くと、ぼさぼさの銀髪をかき、クマの浮かぶ目をこすった。




