本編18話 10秒のコスト:時間の次元が違う少女 2話
こんなことで今更、嫉妬しても始まらない。
ノアは、自分の手柄を確信している時には「褒めていいですよ」と露骨に賞賛を求めてくる。
しかし、今回はそれが見られない。
彼女にとって今の指摘は、賞賛に値する「成果」ですらなく、ただの「事実の確認」に過ぎないのだ。
普通の人間は読み飛ばしに対して「やる気がない」「不注意だ」という精神論で片付けるはずだ。
知識無しでその領域に到達する事がどれだけ異常な事か、本人は全く自覚していない。
俺は「アナロジー思考とヒューリスティック思考」という概念だけをノアに伝えた。
すると、ノアは
「……なるほど、分かりました。
凄いですねユーキさん。
そんな事も知ってるなんて」
そう言って、彼女は一点の曇りもない尊敬の眼差しを俺に向けてくる。
ノアはさらに言葉を綴った。
「……ハヤミさんが単に適当な仕事ばっかりやっていたわけではなさそうですね」
『適当な仕事』も何も、今、自分の口から正解のすべてを吐き出した自覚がないのか……。
例えるなら、自力で万有引力を発見した子供が、それを「重力」と呼ぶ大人を「物知りですね!」と無邪気に褒め称えているようなものだ。
ひたすらこちらのプライドを削りに来る暴力的な性能差と、その自覚が皆無な少女。
このシュール極まりない光景を前に、俺はツッコミを入れる気力すら湧いてこなかった。
ノアの脳内では「知識のバイパス」によって「問い」と「答え」が直結しており、その間にあるはずの「認知学の学習や推論の苦労」が存在しない。
そのため、自分の言ったことが「専門家が何年もかけて研究するような高度な分析」だという自覚が持てない可能性が高い。
ノアからすれば、俺は「人類の偉大なる英知のマスターデータにアクセスできる知識人」とでも思っているのかもしれない。
『自分はただ、目の前のハヤミのエラーに対してブツブツ文句を言っていただけなのに、俺はその現象に「アナロジー思考」などという神聖な学問の名前を与えてくれた』
……おそらくは、そんな感じなのだろう。
そして、気づいたことがある。
業務監査、異常値検出、データサイエンティスト、ロバスト統計の時は「やってない」連呼なのに、「アナロジー思考とヒューリスティック思考」に関してはノータイムで受け入れる。
何故か。
おそらく、高等そうな専門用語が付随した賞賛は「ダニング・クルーガー効果(無知な人間の知ったかぶり)」を警戒して受け入れない。
だが、「アナロジー思考」や「ヒューリスティック」という言葉は、自分への賞賛ではなく、単なる『他人の思考』の解説に過ぎない。
つまり、そこに自分の手柄(価値)は一切介在していないのだ。
だからすんなり受け入れたに違いない。
それに対して下手にツッコミを入れてしまうと、また例の「やってない」「たかだか読み飛ばしを指摘した程度で、何をオーバーに驚いてるんですか」が始まる。
ここは黙っておくのが得策だろう。
「ノ……ノアくん。
君の言う『特性』は、極めて本質を突いている。
ハヤミさんの行動は、単純な『適当な仕事』ではない。
先程も伝えたように、あれは『脳が認知資源を節約するために、無意識に行うショートカット』だ。
複雑なロジックを読み解くという重い処理を避け、『コメント』や『薬名』という単一のキーワードで『解決した』という結論に飛びつく。
それが人間というシステムの構造的なバグだ。
だから君の言うように、これはハヤミさんの『脳の限界』、すなわち『特性』として括れる。
つまり、原因は『ハヤミさんの構造的な限界(アナロジー思考とヒューリスティクス)』だ」
「つまり、どれだけ言ってもこの先ハヤミさんの行動は修正できないんですか?」
「純粋なロジックだけで修正するのは不可能だ。
ハヤミさん自身を変えるか、刺激を変えない限り、間違い続けるような処理は必ず選択される。
これは人間というシステム設計の仕様だからね」
「……仕方ないですね。
いちいち珍しいエラーが出る度に『ハヤミさんはきっといつも通りスルーするだろうけど、これは必ず修正してくださいね。理由はコレコレこうです』って注意した後に赤ペンでそのエラーを目立たせるくらいしか対策はありませんね。
それならハヤミさんもさすがに対応しますよね?」
解決策もまた異常だ。
『もっと真面目にやって下さい』という説得を初手で捨てている。
ハヤミの「無意識のショートカット」を止めるには、論理(言葉)ではなく、視覚(赤色)という動物的な反射に訴えるしかないという解決方法を、一瞬で生み出した。
彼女の推測と解決策は、普通のコンサルタントが数日間の行動観察と心理学的知見を総動員してようやく出す結論のはずだ。
恐ろしい洞察力と頭の回転の速さだ。
「……ああ、それは最も効率的で、非論理的な問題を解決する唯一のパッチ(修正プログラム)だ。
視覚的な優位性(赤ペン)と社会的摩擦(名指しでの注意)を組み合わせることで、ハヤミさんの脳内の処理優先度を強制的に引き上げる。
論理ではなく、人間というインターフェースの仕様に合わせた、究極の応急処置だ。
その対策なら、ハヤミさんも対応するだろう。
エラー対応のコストが、スルーするコストを上回るからね」
「エラーの紙を渡した挙げ句、いちいちその度に幼稚園児に優しく言い聞かせるように口頭で注意するのは腹立たしい限りですが、仕方ないですね」
どうやら彼女は相当に腹が立っているようだ。
無理もない。
市販ソフトを超えるエラーチェック機能を搭載するだけでもその苦労は計り知れないのに、人間の非論理性に対する教育係までやらされるのは相当のストレスだろう。
「エルフの方って、もう少し頭が良い種族と思ってましたけど、例外もいるようですね」
「……ノアくん。それは偏見だ。
異世界転移者の君の種族も、全員が君のように頭が良い訳では無い。
我々エルフも同様だ。
もちろん他の種族もだ。
個体差という変数は、種族という枠組みよりも遥かに大きい。
あえて統計的なデータを挙げるなら、国別の栄養状態や教育インフラ、環境因子によるIQ差はあるだろう。
だが、高度な教育が担保されたジャポンにおいて、種族差は認められない」
「……まあ、話半分に受け取っておきますよ。
やはり、安月給の簡単な仕事に集まる人材には限界があるようですね」
俺は思わず、ずっこけそうになった。
この子は自分の書いたコードを忘れてしまったのか?
それとも治療事務員の業務難易度をレジ打ちか何かと同じだと本気で思っているのか?
ノアは、現実世界の難易度を完全に過小評価している!
「ノ、ノアくんそれは違うぞ。
君が『幼稚園児に優しく言い聞かせるような対応』が必要だと感じたのは、この仕事が『簡単』だからじゃない。逆だ。
治療報酬請求会計は、君があれほど複雑な『ダブりエラーの統計的閾値』や『期間トラッキングの配列処理』を書かなければならなかったほど、複雑怪奇なドメイン知識で構築されている。
そんな高難度の処理を、低賃金で、しかも手作業で完璧にやろうとしているからこそ、ハヤミさんのような『ヒューリスティックによるバグ』が頻発するんだ。
限界があるのは人材じゃない。
人間というシステムが、この複雑すぎる業務を完璧に処理しきれる限界なんだ。
君のコードは、その人間の限界を補強するために作ったんだろう!
この仕事は、君が思っているような簡単なレベルでは断じてない!」
「……そうなんですか。
はぁ、もう少し給料あげたらハヤミさんみたいな200人に1人レベルの特別な人はいなかったんでしょうね」
ノアは根本的に勘違いをしていた。
彼女はハヤミの行動を、「低賃金の仕事にしか存在しない、低レベルな処理性能を持つ特別な人材の問題」と見なしている。
しかしそれは大きな誤りだ。
ヒューリスティックやアナロジー思考のレベルが低い、思考にエラーが発生しやすい人間は、収入や職種に関係なく必ず一定数存在する。
しかも、彼女が思うよりずっと高い確率で。
俺の記憶にある統計(または俺の長年の経験に基づく推察)では、社会生活を送る上で困難を抱える可能性を持つ人間は、おおよそ7人に1人、あるいはそれ以上だ。
ノアの言う「特別な人」は、どこにでも、常に存在しているのだ。
この子は、人間というシステムの普遍的なバグ発生率を、極端に過小評価している。




