本編17話 10秒のコスト:時間の次元が違う少女 1話
俺は検索結果で得た「純粋な論理の体現者」の情報をノアに伝えるべきか、迷っていた。
彼女は自分のことを「10万人に一人の天才」という過小評価で括っている。
しかしそれは大きな間違いだ。
存在の次元が違う彼女に真実を突きつけてやるべきか。
事実を突きつけて彼女に何が起こるかはわからない。
治療院をやめて、どこか大きな企業に就職して働くかもしれない。
あるいは、なにかクリエイティブなことでも始めるかもしれない。
そうしたら困るのは我々治療事務員だ。
だが……だがこのまま彼女を小さな箱に閉じ込めておくのは、人類の進歩にとっての損失だ。
それに彼女には自由な世界を歩んでほしい。我々と同じ道を行くことはない。
ノアが言った『一緒に帰ろう』という約束は果たされないかもしれない。
しかし、もう仕方がない。
俺達と彼女とは住む世界が違うのだ。
もう彼女の論理にふさわしい舞台へと解放してやろう。
そう思いながら今日も治療院に出勤した。しかし……
「なんでスルーしたんですか…?」
ノアが、デスクに座っている一人の治療事務員に話しかけていた。
視線の先では、ケイ・ハヤミが困り果てたように両手を広げていた。
今年で52歳――異世界転移者の感覚で言えば、ちょうど35歳あたりの働き盛り。
エルフ族らしい若々しさを保ってはいるが、その表情には年相応の、あるいは彼女特有の「お気楽さ」が滲み出ている。
彼女の装いは、俺たち事務員の標準的なスタイルだ。
清潔感のある白い半袖ブラウスの上に、目に優しい淡い水色のニットベストを重ねている。
ボトムは動きやすさを重視した濃いグレーのスラックス。
ノアと色違いの制服ではあるが、ノアよりも少しばかり高い背丈のせいで、同じ服でもどこか世俗的というか、生活感のようなものが漂う。
特徴的なのは、その鮮やかな金髪だ。
少し癖のある毛先を肩のあたりで遊ばせ、頭頂部からは「アホ毛」が一本、彼女の落ち着きのない性格を象徴するようにぴょこんと跳ねている。
横に長く伸びたエルフ耳は、ノアの鋭い指摘に気圧されたのか、心なしか力なく垂れ下がっているように見えた。
「ご、ごめんねノアちゃん……」
手に持った帳票をひらひらとさせながら、眉を八の字にして謝るその姿。
俺たちの世界では「明るいムードメーカー」で通る彼女も、論理の深淵に住まうノアから見れば、単に『エラーを読み飛ばす非効率なノイズ』に過ぎないのだろう。
「……次からは気をつけて下さいね」
ノアは紙をケイ・ハヤミに渡し、自分の席へと戻った。
彼女から詳細を聞くのは昼休み、治療院の外通路での事となった。
昼休み――
治療院の中庭。
そこは、殺風景な事務室とは対照的に、不自然なほど鮮やかな色彩で満ちていた。
石畳の通路の両脇には、この世界の植物と、異世界転移者が持ち込んだ外来種が混ざり合い、幾何学的な模様を描くように植えられている。
手入れの行き届いた植栽の緑は、降り注ぐ午後の陽光を浴びて、まるで発光しているかのように瑞々しい。
「何があった、ノア」
俺は早速問題を切り出した。すると、
「はい、ハヤミさんなんですが……渡した紙をまともに読みません。
知らないエラーや珍しいエラーになると、ほぼ確定で飛ばします」
「……どういうことだ?」
「うーん、すべて私の推測だということを前提に聞いて下さい。
特定薬剤治療管理料という項目があります。
私が渡したのは、その中でも(ヘ)です。
(ヘ)統合失調症の患者であってハロペリドール製剤又はブロムペリドール製剤を投与しているもの
これには病名と薬が必要で、薬がない場合はコメントが必要です。
私のエラーメッセージはこれです。
『薬がない
薬剤治療管理料統合失調症の患者であってハロペリドール製剤又はブロムペリドール製剤を投与しているもの
薬が今月にない、または院外薬ならコメントを入れること。
例:前月よりハロペリドール処方
患者さんの具体的な薬名:ハロペリドール』
このように印刷されたものをハヤミさんに持っていきました。
持って行く前、フリーコメントに『ハロペリドール』と、薬の名前だけ書かれていたことは確認しています。
しかし、彼女はスルーをしました。二度手間です。
仮に私の出したエラーが既に解決済みだと判断するなら、私に対してエラーが間違ってることを伝えるのが自然だと思いますが、ハヤミさんはそれすらやりません。
まあ、スルーして良いエラーもあるからそれと混同した可能性も考えられますが。
いずれにせよ、今まで似たようなことを何回も繰り返しています。
完全に知らない単語だけならスルーはおそらくしません。
ただ、未知のエラーの中に少しでも知っている単語や薬の名前が出るともう駄目です」
これは……
「彼女はおそらく紙に書かれた『コメント』という文字と『ハロペリドール』という文字だけチラッとみました。
そして治療報酬請求画面に『ハロペリドール』と書かれていることを確認して、スルーしたんです。
もう何回も似たようなことをやられてるので、流石に覚えました。
おかしいですよね。
エラーの紙を渡されたのだから対応しないといけない事はわかりきってるのに、何も直さず私に何も言わずにスルーするなんて」
ノアの報告を聞き、俺はハヤミの行動の意味を理解した。
これは、人間が複雑な問題に直面した際に多用する思考のショートカットだ。
// 1.類推思考の弊害
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// アナロジー思考とは、「過去に解決した問題」と「現在の問題」の間に表面的な類似点を見つけ、過去の解決策を安易に適用しようとする思考法だ。
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// ハヤミの事例:彼女は「特定薬剤治療管理料のエラー」を、過去に経験した「コメントに薬名を入れるだけの簡単なエラー」と類推した。今回のエラーは「過去か他院などで処方されたことを示すこと」というコメントルールを持っていたにもかかわらず、彼女は「『ハロペリドール』というキーワードの有無」という単一の類似点だけで解決したと判断したのだ。
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// 2.ヒューリスティック思考(発見的手法)の誤用
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// ヒューリスティック思考とは、認知資源(労力)を節約するため、複雑な計算や論理的探索を避け、直感的かつ簡単な判断基準で結論を導く手法だ。ノアが行っている「最小努力の原則」の誤った適用とも言える。
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// ハヤミの事例:ハヤミは、ノアのエラーメッセージの全文(病名、コメント、薬剤の具体的な条件)を読解するという重い処理を避けた。代わりに、「『コメント』と『薬名』という2つのキーワードが存在するかどうか」という簡単なルールで、「このエラーは解決済みである」と判断した。
ハヤミの行動は、「最小の努力」で「誤った解決」に至る、人間の思考の典型的な非効率性を示していた。
そしてノアは、人間というシステムが必ず犯すこの非論理的なバグを、完璧に見抜いていたのだ。
彼女はおそらく心理学や認知科学といった学問を一切学んでいないだろう。
しかし、その予測精度は、熟練した専門家を凌駕する。
学習や経験という冗長なプロセスを経ずに、純粋な論理計算によって人間の認知構造を逆コンパイルする。
これもまた、『純粋な論理の体現者』が持つ究極の効率の一つなのだ。




