名探偵ノア11話 二重スリット・ファジー・トレース殺人事件 9話
とある日。
夕方、田中が町中を歩いていると、例のノアと名乗る探偵に出くわした。
探偵は結城という助手と、見慣れない30代半ばの男を引き連れていた。
「田中さん、こちら。
引っ掛け問題で反応が遅れて被害者を轢き殺してしまったかも知れない、加害者の方です」
田中は、目の前に立つ男を見た。
平凡な顔だった。
特別、悪人には見えなかった。
むしろ、どこにでもいる、疲れた中年男の顔だった。
あの日の――26歳の交差点で見た、あの運転手と、同じ顔。
「……あ」
声にならない声が漏れた。
男は、田中を見つめたまま、何も言わなかった。
ただ、その目の奥に、何かが揺れていた。
怒りでも、憎しみでもない。もっと濁った、行き場のない何かだった。
「わ、私は……」
田中は、口を開いた。
だが、続く言葉が出てこなかった。
これまで何度も繰り返してきた台詞……
『証拠がない』『善意だった』『私の責任ではない』
そのどれもが、今、喉の手前で凍りついていた。
ノアが、静かに補足した。
「田中さん。
この方、あなたの問題を3回受け直して、4回目でようやく合格したそうです。
……あなたの問題を、誰よりも真面目に、暗記した人です」
「な……」
「真面目に覚えた人ほど、あなたの仕掛けた妨害の回路が、深く刻まれる。
彼は、あなたの試験制度が生んだ、いわば『優等生』ですよ」
男が、ようやく口を開いた。
その声は、低く、掠れていた。
「……子供が、目の前に飛び出してきたんだよ。
……気づいた時には、もう」
男の拳が、震えていた。
「俺は、免許を取ってからあの日まで、無事故無違反でした。
真面目に、アンタの問題を勉強して。
真面目に、合格して。
……真面目にやった人間が、なんで、こんな……」
田中は、答えられなかった。
目の前にいるのは、被害者の母親でも、ネットの匿名アカウントでもない。
――自分の作った問題を、もっとも忠実に守った人間だった。
男の声が、次第に大きくなっていく。
「なあ……」
田中の全身から、血の気が引いていくのが分かった。
男が、一歩、田中に詰め寄った。
「な……」
田中は後ずさろうとしたが、背中はすでに壁についていた。
逃げ場はどこにもなかった。
目の前に立つ男の目を、まともに見ることができなかった。
「あ、あなたの名前は……」
「俺の名前なんて、知らなくていい」
男は静かにそう言った。怒鳴っているわけではない。
だが、その静けさが、さっきの遺族の怒声よりも田中の腹の底を凍らせた。
「探偵さんから聞いたよ。
アンタが作った問題を、俺は3回受け直して覚えた。真面目に、な」
「そ、それは……偶然、あなたが反応が遅れたというだけで、因果関係が――」
「因果関係、ね」
男は、一歩、また田中に詰め寄った。
「そういう言葉、よく知ってるじゃないか。
試験問題作るくらいだもんな。頭いいもんな」
田中は口を開きかけて、閉じた。
何を言っても、また同じ「型」に嵌まる予感がしていた。
反論すれば被害者偽装型。
黙れば先延ばし型。
「俺はな、あの日……
信号のない横断歩道に、子供が飛び出してきたんだ」
男の声が、初めてわずかに震えた。
「白い線の手前で、俺は左右を見た。
誰もいなかった。
……本当なら、それでも落とすんだよ。
見えてない場所があるんだから。
なのに俺の頭は、そこで一度立ち止まった。
『これは、明らかにいない場合なのか、そうじゃないのか』ってな。
ほんの、コンマ何秒か」
「そ、それは……」
「アンタの問題だよ。
横断歩道の前でいつでも止まれるように減速すべきである、正解はX。
……3回落ちて、4回目でようやく覚えたやつだ」
「……」
「子供は、停まってたワゴンの陰から出てきた。
俺は、速度を落としてなかった。
いないと判断した後だったからな。
……止まれなかった」
男の拳が、震えていた。
「なあ、田中さんよ。
本当なら、あそこは減速する場所だったんだろ。
見えないなら、見えないぶん落とすのが当たり前だったんだろ。
……なのに俺の頭には、『減速しなくていい場合がある』だけが残ってたんだ。
『明らかな場合』って条件のほうは、どこにも見当たらなかった」
「そ、それは……あなたの、集中力の問題では……」
「集中力?」
男が、笑った。乾いた、感情のない笑いだった。
「俺は無事故無違反だった。
アンタの問題を、誰よりも真面目に丁寧に覚えた。
仕事帰りで疲れてたわけでもない。
酒も飲んでない。
スマホも見てなかった。
ただ、アンタが用意した『例外』を、アンタが望んだ通りに、正確に記憶していただけだ」
田中の膝が、かすかに笑い出す。
「わ、私は……受験者に、そんな迷いを与えるつもりでは……」
「じゃあ何のために引っ掛けたんだ」
男の声が、初めてはっきりと大きくなった。
「引っ掛け問題ってのは、そもそも『間違えさせる』ためのものだろ。
間違えさせて覚え直させて、記憶を強化させる。
そういう仕組みなんだろ。
アンタ自身がそう設計したんだろ」
「そ、それは、注意力を試すための、教育的な――」
「教育的、ね」
男が、田中の胸ぐらに、視線だけで手をかけるように、まっすぐ見据えた。
「なあ、アンタが今まで使ってきた言い訳、全部聞いたよ。
探偵さんから。
『データがない。証拠がない。政府のせい。法律のせい。善意だった』
……次はどれだ」
「わ、私は……」
「次は俺のせいにするのか?
『思い込みの激しいお前のせいだ』『注意力が散漫だったお前が悪い』ってか?」
まさに、それを言おうとしていた。喉の奥まで出かかっていた言葉が、そのまま凍りついた。
「図星か」
男は、短くそう言うと、深く息を吐いた。怒りというより、諦めに近い息だった。
「なあ、田中さんよ」
初めて、男は田中の名を呼んだ。冷たく、平坦な声だった。
「アンタ、俺のこと、加害者だと思ってるだろ。
俺も最初はそう思ってた。
俺が悪い。俺の不注意だ、って。
何度も何度も、自分を責めた。
夜も眠れなかった。
子供の親に土下座しに行った。
土下座しても、何も返ってこなかった。
当然だ。
人一人の命は土下座なんかじゃ戻らない」
田中の顔から、血の気が引いていくのが自分でもわかった。
「でもな、あの動画で初めて気づいたんだよ。
あの時の迷い。
あれは、俺が生まれつき持ってたものじゃない。
俺が3回落ちて、4回目でようやく覚えたアンタの問題が、俺の頭に埋め込んだものだったんだ」
「わ、私は、そんなつもりで問題を……」
「つもりの話をしてるんじゃない」
男が、田中の言葉を叩き切るように遮った。
「結果の話をしてるんだ。
アンタがずっと繰り返してきたのと同じだよ。
『意図はなかった』『結果は知らなかった』。
だったら聞くけどな」
男の声から抑揚が消えた。
さっきまでの震えも乾いた笑いも、そこにはなかった。
ただ、静かだった。




