本編10話 「鼻も口にいれるから許してね!!……いいね!!」「駄目ね!!」
定時後の日課の確認で、俺はノアのスマートフォンがデスクに残されたまま、彼女が退勤した事実に気が付いた。
よりにもよって、週明けまで使えないという最悪のタイミング、すなわち金曜日だ。
幸い、彼女のアパートの住所は治療報酬請求のデータから確認可能で、ルートは把握できている。週末に携帯がない状態では、彼女の連絡能力が著しく低下する。
トラブル回避の緊急対応として、俺は帰宅のついでという形式で、彼女の家へと向かうことを決定した。
20時。
星空が輝く最中、彼女のアパートの玄関先まで来ると、室内から彼女の声が聞こえてきた。
「タービー!!かわいかったら駄目だよ!」
状況が不明だが、おそらくいつぞや動画で見せてくれた黒猫と戯れているのだろう。
「怒るね!チュッチュするね!!いいね!!」
よくないね!!
「怒り」の感情が、「キス」という物理的な行動を引き起こすという、理解不能な展開だ。
「もう嫌!!」
「嫌悪」が宣言された。
直前の濃厚接触と矛盾するデータだが、嫌がっているのは猫のほうではないかと推測される。
「ん~たまらない!!ん~!!」
状況から、猫に対して「猫吸い」あるいはそれに類する濃厚な接触を続けている、と推測できた。
彼女のプライベートな時間を邪魔するのは避けるべきだが、俺の資源である帰宅時間をこれ以上消費するわけにもいかない。
そろそろスマホの受け渡しを済ませたい。
ところが――
俺の思考回路を完全に停止させるような、次の言葉が聞こえた。
「怒ったから今日も舌いれるね!!いいね!!」
いいわけないね!!
なぜその結論に達する!?完全に崩壊している!!
怒り→キス→舌を入れるという処理フローは、いかなる検証環境でも許容されない致命的なエラーだ。
これが何を意味するのか、解析不能である。
そして、おそらくその非論理的な接触を強制された猫は、機能を停止していることだろう。
俺は、その無垢な犠牲者に憐憫と最大限の同情の念を捧げ、静かに両手を合わせた。
この案件は、俺の業務範囲を超えた介入不可能な領域であると判断するほかなかった。
これは例外処理ですらない。
システムの仕様そのものが、愛という名のウイルスによって完全に書き換えられている。
この領域に踏み込めば、俺の理性というOS(ウインドウズやアンドロイド等の事)もろとも道連れにされるだろう。
「ごめんね…ごめんねタービー、でも仕方ないんだよ。許してね」
何をもって彼女が『仕方ない』と結論付けたのか、その内部ロジックは永遠に解明できないだろう。
謝罪したり許しを乞うているようだが、果たしてどこまで本気かも疑わしい。
しかし、その声色には、自らが生み出した非論理的な結果に対する強い自覚と、それを実行せざるを得ないという絶対的な意志が宿っていた。
これは、彼女の感情パラメータが限界を超過したときに発生する、避けて通ることのできない、一種の絶対的な運命であるのだと俺は悟った。
日常の業務範囲を超越した、我々には理解し得ない、一本の壮大で深遠な劇場作品を、静かに見届けたような感覚に囚われた。
「もう二度とやらないよ…」
間違いない、ノアは99.999%次もやる。
なんなら今すぐやりかねない。
「ごめんね、お詫びにチュッチュするね…」
これは行動履歴から判断して、本日複数回同じ事象が繰り返されていると推定される。
「鼻も口にいれるから許してね!!いいね!!」
駄目ね!!入れるなね!!
だが、扉の向こう側では、1人の天才が「可愛さ」という名の演算不能なエネルギーに呑み込まれ、一匹の黒猫が「20度の回避」さえ許されない絶対的な支配の中にいた。
俺は、手に持っていた彼女のスマートフォンを、そっとポストに差し入れた。
週末、彼女に連絡能力がないことの不利益よりも、今ここでこの「禁断のパケット」をこれ以上受信し続けることによる俺の精神的ダメージの方が、はるかにコストが高いと判断したからだ。
――にゃ〜ん!!
遠ざかる俺の背中に、最後の悲鳴が聞こえた気がした。
タービー。君の犠牲は忘れない。
だが、あのノアを「ハック」できる存在は、この世界にはまだ存在しないんだ。
週末の夜空は、彼女の論理やタービーと同じくらい、深くて暗い「黒」だった。




