本編1話 エルフの20年をゴミ箱に捨てる、ただのA4コピー用紙 1話
【エルフの20年をゴミ箱に捨てる、ただのA4コピー用紙】
これはノアと、俺が出会う直前の話――
ここは、ジャポンという国だ。
治療院にて。
治療事務課のデスク。
俺は、目の前にあるただ2つ折りにされたA4のコピー用紙から、もはや視線を動かせなかった。
あまりにも簡素な、ただの紙だ。
しかしその裏側で、俺の技術者としての常識が、長年積み重ねた業務の混沌が、エルフ(識族)としての誇りが、音もなく、決定的に崩壊した。
「……信じられない……狂っている……」
ありえない事態が、現実にこの殺風景な職場で起きたのだ。
俺の中のすべての知識体系が、音を立てて崩れ始めた。
式守 希望。
あの子は…天才か…!?
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遡ること三ヶ月前。
デスクの上に整然と、しかし威圧的に並ぶ八台のパーソナルコンピューター。
画面の中に広がるのは、あの欠陥ソフト「ディスペア」の無愛想な入力欄と、終わりのない数字の列だ。
壁際の棚には、使い古されたバインダーが隙間なく突き刺さっている。
カチカチというマウスのクリック音と、時折混じるキーボードを叩く乾いた音。
そして、紙の束をめくる「サッ」という微かな摩擦音。
それらが複雑に絡み合い、この部屋特有の、静かで、それでいて神経を逆撫でするような独特の律動を作り出している。
ふと視線を落とせば、卓上には使い古された電話機と、インクの切れかかったペンが数本。
そして、俺たちの命綱であり呪縛でもある、山積みの紙カルテと処方箋。
治療事務課のパソコンの前で、俺。
――エルフ(識族)であるユーキ・トーゴは、今日もただの治療事務員として座っている。
年齢は45歳。
異世界転移者で言えば30歳だ。
中肉中背で、髪はまあ白に近い銀色だ。
糊の効いた半袖の白シャツは、事務員としての俺の制服であり、一種の保護色でもある。
これといって特徴のない平凡な顔立ちだが、強いて言えば、識族にしては目の色素が少しばかり濃いことくらいが、唯一の自己主張らしきものだった。
数年前まで、俺は演算工房にいた。
演算工房というのは、異世界転移した異世界転移者が持ち込んだパーソナルコンピューターという機械を使い、ソフトウェアを開発する所だ。
アレは良いものだ。
異世界転移者が持ち込んだ、素晴らしい発明品だ。
俺は以前、それに魅了されていた。
そう、当初はプログラマーを目指そうとした。
その過程で演算工房のSEアシスタントや業務システムのヘルプデスクをこなしていったのだ。
だが、あの世界は疲れた。
俺が提示する論理的で最も効率的な修正案は、いつも契約者や長官の感情的な抵抗や「前のやり方が一番」という非論理的な慣習に阻まれた。
挙句の果てに、長官は矛盾した指示を何回も繰り返し、そのたびに|不安定な要件《Unstable_Requirements》によるコードの書き直しという膨大な工数が発生し、現場は疲弊した。
論理的な正しさが、非論理的な長官というシステムとの絶え間ない対立によって否定される。
それが、俺の精神を完全に消耗させた。
だから、逃げた。
今の治療院の治療事務課に転職したのは、「もう、人間と戦いたくない」からだ。
ここは大変ではあるが、演算工房時代よりは遥かにマシだ。
目の前にあるのは、ディスペア(治療報酬請求ソフト)の欠陥が生み出す文字の羅列と戦う過酷なルーティン。
プログラミングの知識もここでは必要ない。
集中力さえ切らさなければ、耐えられる。
眠気に耐え、目の前の文字に神経を注ぎ込む「自分の問題」として処理できるなら、非論理的な彼らとの泥沼の対立に比べれば、安寧と言えた。
もうこれ以上、新しい仕事を探す気力も、新しいスキルを覚える労力もない。
俺の人生は、この妥協と集中力で耐える場所で終着したはずだった。
目の前には会計カードという、印刷された高密度の情報が詰まった用紙、手書きカルテ、そして治療報酬請求ソフトの画面が並んでいる。
俺の仕事は、これらを三点突合し、治療院がお金を請求する上での「間違い」がないかを精査することだ。
具体的には、「この薬の処方に、カルテ上の病名やDrの指示がちゃんとあるか?」「点数を請求しすぎていないか?(過剰請求)」、あるいは「請求すべきものを忘れていないか?(請求漏れ)」を、神経をすり減らしながら確認する。
問題は、うちの治療報酬請求ソフト「ディスペア」の致命的な欠陥だった。
このソフトは、薬が処方された日付よりも病名の日付が後になっていても、平然とスルーする。
時系列が完全に破綻しているのだ。
さらに、本来認められない「疑い病名(まだその病名だと決まっていない、医者が疑っているだけの状態。検査をする際に必要。当然、疑っているだけの状態では薬の処方は不可能)」でさえ、平気で請求を通してしまう。
請求ルールの根幹が無視されている。
「軟膏処置」に必要なぶら下がり薬の紐付けは、エラーチェックの対象外だ。
DBに存在しない薬でさえ、無条件でスルーされる。
致命的なデータ整合性の欠陥だ。
さらに、俺たちが現場で苦労して設定したカスタムルールも、次のDB更新(おそらく4ヶ月ごと)が入れば無力化され、消滅する。
極めつけは、複数病名を必要とするリスクの高い薬剤でさえ、単発の病名で平然と通してしまう。
このシステムは、治療安全という第一原理さえ無視している。
「ディスペア」がこれほど欠陥品だからこそ、俺達の細かな作業と注意力が究極まで要求される。
俺たちは、ソフトが本来やるべき入力検証を、アナログな手法で肩代わりさせられているのだ。
「紙カルテじゃなければ、こんな苦労はしないはずだ」
――誰もがそう思う。
だが、今さらこの過酷なルーティンを変えるほどの気力も、他の治療院に転職する労力も、45歳になった俺には完全に欠けていた。
俺はただ眠気に耐えながら、文字と数字の非論理的な羅列と戦う日々を送っていた。




