第七話 明日を待てなくて
夜になっても、家の中の空気は重かった。
母さんはいつもより早く灯りを落とした。
村の外では、ギルドの人たちが交代で見張りに立っているらしい。時々、低い話し声が聞こえる。誰かが歩くたびに、土を踏む音がした。
俺はベッドに横になっていた。
でも、眠れるわけがなかった。
明日の朝になれば、またあの人たちが来る。
ダリオは悪い人じゃない。
昨日も村を守っていた。俺が無茶をしても、見捨てなかった。ノエルにも礼を言った。
だから余計に嫌だった。
ダリオは正しい。
村の人たちも、たぶん正しい。
母さんだって、間違っているわけじゃない。
なのに。
ノエルは怖がっていた。
その時の顔が、頭から離れない。
「……くそ」
小さく呟いて、寝返りを打つ。
その時、廊下から足音がして、部屋の前で止まった。
起き上がって扉を開けると、廊下にノエルが立っていた。
寝間着のまま、両手を胸の前で握っている。
「ノエル?」
ノエルは少しだけ顔を上げた。
「眠れない」
「……そっか」
「明日、私、連れていかれるの?」
ノエルが聞いた。
俺はすぐには答えられなかった。
決まってない。そう言いたかった。
「行きたいのか?」
俺が聞くと、ノエルは首を横に振った。
「行きたくない」
「ダリオさん、悪い人じゃないと思う」
「うん」
「たぶん、ひどいことはしない」
「うん」
「でも、行きたくないんだな」
ノエルは小さくうなずいた。
「胸が、冷たくなる」
ノエルはそう言って、自分の胸元に手を当てた。
ノエルはいつも、そこに手を当てる。
思い出しているのかもしれない。
思い出せないまま、体だけが怖がっているのかもしれない。
俺にはわからない。
そもそもわかることなんて、なに一つない。
「アレンは?」
「え?」
「私は、行きたくない。アレンは、どうしたい?」
聞かれて、言葉が詰まった。
どうしたい。
父さんを探したい。
ノエルを渡したくない。
母さんを心配させたくない。
村の人たちに嫌われたくない。
ダリオに間違ってると言われたくない。
全部だ。全部を選びたい。
でも、そんなこと無理だってわかってる。
俺は拳を握った。
「俺は……」
声がかすれた。
「俺は、ノエルをこのまま渡したくない」
言った瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなった。
正しいかどうかはわからない。
でも、それが本当の気持ちだった。
「でも、どうするの?」
ノエルが聞いた。
俺は窓の外を見た。
「逃げよう」
口に出すと、自分でも驚くくらい簡単だった。
ノエルが俺を見た。
「逃げる?」
「うん」
「どこへ?」
「わからない」
「わからないの?」
「わからない。でも、ここにいたら明日には連れていかれるだろ」
ノエルは黙った。
「俺は父さんを探したい。父さんがどこに行ったのか知りたい。ノエルのことも、遺跡のことも、あの紙のことも、たぶん父さんが知っている気がする」
「クロヴィス……って人」
「そう。ノエルはその名前を言った。覚えてないって言ったけど、言ったんだ」
ノエルは少しだけ目を伏せる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていいって」
「でも、私は何もわからない」
「俺もわからない」
そう言ってから、少し笑いそうになった。
ひどい話だ。
何もわかっていない二人で、村を出ようとしている。
馬鹿みたいだ。
でも、たぶん、俺は馬鹿なんだと思う。
「行こう。今」
俺は立ち上がった。
「今?」
「明日じゃ遅い」
「アレンのお母さんは?」
その言葉で、胸が少し痛んだ。
母さん。
当然、止めるだろう。
父さんが消えて、俺まで消えたら、母さんはどうなる。
考えたら足が止まりそうだった。
「……置き手紙だけ」
言ってから、すぐに首を振った。
「いや、俺、字は汚いし、時間もないし」
「字が汚いの?」
「そこは気にしなくていい」
ノエルは真面目な顔でうなずいた。
少しだけ、いつものノエルに戻った気がした。
俺は剣を取った。荷物はない。
本当は食べ物とか、水とか、着替えとか、いろいろいるんだろう。
でも、そんなものを用意していたら、母さんに気づかれる。ギルドにも見つかるかもしれない。
剣だけ。それで行くしかない。
「歩けるか?」
「歩ける」
「じゃあ行こう」
「うん」
ノエルがはっきりと返事をした。
俺たちは足音を殺して部屋を出た。
台所へ向かう。
裏口から出れば、家の裏を回って村の外れへ抜けられる。ギルドの見張りは広場と北の道に多いはずだ。南の畑道から回れば、たぶん見つかりにくい。
そんなことを考えながら台所へ入った。
そこで、足が止まった。
母さんがいた。
灯りもつけずに、椅子に座っている。
窓から入る月明かりだけが、母さんの横顔を照らしていた。
「……なんでいるの?」
俺は間抜けな声を出した。
母さんは、俺を見るでもなく言った。
「あんたが何を考えているかなんて、お見通しよ」
言い返せなかった。
ノエルが俺の後ろで小さく身を縮める。
母さんはゆっくり立ち上がった。
「行くのね?」
俺は唇を噛んだ。
ここで嘘をついても意味がない。
「うん」
「ノエルちゃんを連れて?」
「うん」
「お父さんも探すの?」
「……うん」
母さんはしばらく黙っていた。
怒られると思った。止められると思った。
でも、母さんはため息をついただけだった。
「本当に、あの人に似てきたわね」
「父さん?」
「いいえ。悪いところだけ」
「ひどくない?」
「母さんからしたら、ひどいのは、夜中に女の子を連れて家を抜け出そうとしている息子の方よ」
それはそうだ。
母さんは台所の机の上に置いていた小さな布袋を手に取った。
「本当は、もう少しちゃんと持たせてあげたかったけど」
「母さん」
「パンが少しと、干した肉。あと布。水筒はひとつだけ。重いものは入れていないわ」
「……止めないの?」
母さんはその時はっきりと俺を見た。
その目は、泣くのを終わらせた後みたいな目だった。
「止めたら、やめるの?」
俺は黙った。
母さんは小さく笑った。
「でしょうね」
「ごめん」
母さんは布袋を俺に手渡した。
受け取ると、思ったより軽かった。
でも、母さんが持たせてくれたものだと思うと、やけに重く感じた。
母さんは次に、ノエルの方を見た。
ノエルはびくりと肩を揺らす。
「ノエルちゃん」
「……はい」
「アレンは無茶をするから、止められる時は止めてね」
ノエルは少し考えてから、うなずいた。
「できるか、わからない」
「それでもいいわ」
「でも、やってみる」
「ありがとう。いつでも帰ってきなさい」
母さんはそう言って、少しだけ笑った。
その顔を見たら、胸の奥が苦しくなった。
「母さん」
「なに?」
「父さんを見つけてくるよ」
言った瞬間、母さんの表情がわずかに動いた。
ほんの少しだった。
「……お父さんのことは大丈夫」
「え?」
「そのうち帰ってくるわ」
変な言い方だった。
父さんが消えて、もう二日目だ。
母さんだって心配していたはずだ。
「母さん、それどういう――」
「アレン」
母さんが俺の名前を呼んだ。
静かな声だった。
「気をつけて」
それ以上、聞くなという声でもあった。
俺は布袋を肩にかけ、剣の柄に触れた。
「行ってくる」
「ええ」
母さんはうなずいた。
「行ってらっしゃい」
その言葉で、足が止まりそうになった。
家を出たら、たぶんしばらく戻れない。
俺は振り返らなかった。
振り返ったら、やめたくなる気がした。
裏口から外へ出る。
夜の空気は冷たくて、星は綺麗に見えた。
ノエルがすぐ後ろについてくる。
遠くで、ギルドの見張りが話している声がする。広場の方には灯りがいくつか見えた。
俺たちは家の裏を回り、村の外に出た。
「アレン」
ノエルが小さく呼んだ。
「なに?」
「寒い」
「……そうだよね、ごめん。俺の上着貸すよ」
ノエルに上着を羽織らせた。
「ちょっと大きい。でもあったかい」
「よかった」
俺は小さく笑った。
こんな時に笑うなんて、自分でも変だと思う。
でも、笑わないと怖かった。
俺たちは夜の畑道を進んだ。
剣と、母さんがくれた小さな袋。
それ以外、ほとんど何も持っていない。
父さんの行き先もわからない。
ノエルが何者なのかもわからない。
わからないことばかりだ。
けれど、村の灯りが少しずつ遠ざかっていくのを見ながら、俺は思った。
母さんはいつでも帰ってこいって言ってたけど、もう戻れないかも。
ノエルは俺の隣を歩いている。
俺は剣の柄に触れた。
「行こう」
「うん」
ノエルが小さくうなずいた。
どこに向かうのかは、まだ決まっていない。
それでも、俺たちは歩き出した。




