第二話 古代遺跡の少女
森へ入ると、風で木が揺れる音だけが聞こえる。
ここには、子供の頃から何度か来たことがある。
薪拾いもしたし、父さんに剣の訓練をつけてもらったこともある。小さい頃は、木の根につまずいて転んで、父さんに笑われたこともあった。
けど、今日の森は知っている森じゃなかった。
鳥が鳴いていない。静かだ。
道には、ところどころ血の跡があった。
乾きかけた赤黒い染み。折れた矢。泥に半分埋まった革の手袋。誰かが落としたのか、荷物を縛る紐も木の根に引っかかっていた。
たぶんギルドの人たちが逃げた跡だ。
それを見るたびに、心臓の音が大きくなっていく。
「大丈夫だ」
自分に言い聞かせる。
そう思った時、草むらが揺れた。
「……!」
俺は咄嗟に身構えて、足を止めた。
右の茂み。いや、左にもいる。
次の瞬間、灰色の影が飛び出してきた。
「うわっ!」
情けない声が出た。
狼に似た魔物だった。普通の狼より体が大きく、背中から黒い棘みたいな毛が突き出している。目は濁っていて、口の端から泡を垂らしていた。
グレイハウンドだ。
父さんに聞いたことがある。
森に出る魔物。群れで動く。噛まれると肉ごと持っていかれる。
でも、この森で魔物なんて初めて見た。
「なんで……」
そう思った瞬間、右の奴が飛びかかってくる。
俺は剣を抜いて、なんとか牙を弾いた。
「くっ……」
腕に衝撃が走る。
訓練で父さんの剣を受けた時とは違う。こいつは俺を本気で殺しにきている。そうわかった瞬間、体が重くなった。
左からもう一匹が来る。
避けようとして、足が木の根に引っかかった。
「っ、くそ!」
転びかけながら剣を振る。
「う、うわああっ!」
刃は空を切った。
魔物の爪が、俺の袖を裂く。腕に熱い痛みが走った。
自分の血を見ると、頭の中が一瞬だけ真っ白になる。
父さんと訓練はしてきた。けど、こんなにも違うなんて。
逃げたい。そう思った。
でも、逃げたらどこへ行く。
もしこいつらが村へ向かったら。
「……くそ。やってやる」
俺は剣を握り直した。
胸の奥に意識を向ける。
そこには、いつも扱いきれない魔力がある。
俺はそれを、無理やり剣へ流し込んだ。
「はああああ」
剣身が黒紫に染まる。細い雷みたいな光が、刃の上を走った。
グレイハウンドが飛びかかってくる。
俺は踏み込んだ。
今度は外さない。
そう思ったのに、魔力が膨らみすぎた。
剣の先から黒紫の光が分散している。思ったより長く、変な角度に。
魔物の体を斬った。
でも、そのまま近くの木の幹まで削った。
木の皮が弾ける。腕が痺れて、剣を落としそうになる。
「また、これかよ……!」
なんとか一体倒せた。
けどだめだ。かろうじて剣に沿って魔力が出ているけど、全然安定していない。
そんなことを考えたせいで、反応が遅れた。
残った一匹が下から飛び込んでくる。
「っ!」
俺は咄嗟に横へ転がった。
泥が服につく。口の中に土の味が広がった。
俺は震える手を抑えながら、剣を構え直した。
魔力を、今度はもっと薄く。
刃の形を変えようとするな。
ただ、剣に沿わせる。
父さんに何度も言われたことを思い出す。
力を込めればいいってもんじゃない。
逆だ。
自然と力が流れていくイメージをしろ。
「わかってるよ……!」
わかってる。でも、できないから困ってるんだ。
グレイハウンドが跳んだ。
「くそおおお」
俺は半歩だけ下がり、横から斬った。
黒紫の光が一瞬だけ走る。
グレイハウンドの頭が地面に落ち、しばらく足をばたつかせたあと、動かなくなった。
俺は肩で息をした。
手が震えている。心臓も、今まで聞いたことがないくらいうるさい。
でも。
「……ぷはあ。勝ったあ」
とりあえず口に出してみたけど、ぼろぼろだ。あまり格好よくはないか。
腕の傷がじんじん痛む。袖は破れているし、服は泥だらけ。剣を握る手は汗でびちょびちょだ。
父さんのようになりたい。
いままで、ただそう思っていた。
でも、魔物二匹でこれだ。
俺は息を吐き、倒れたグレイハウンドを見た。
初めて、自分の剣で魔物を殺した。
なんか変な感じがした。
でも、見ないふりをして剣についた血を払う。
止まっている場合じゃない。
父さんを探さないと。
俺は傷口を布で縛り、森の奥へ進んだ。
しばらく行くと、石の壁が見えてきた。
「これかあ」
古代遺跡。
森の奥に、隠れるように建っていた。
石でできた入口は、ツタに覆われている。けれど、その奥に口を開けた暗闇は、はっきり見えた。
入口の周りには、調査隊の荷物が散らばっていた。
「父さん……?」
小さく呼ぶ。
返事はない。
俺は入口に近づいた。
石の上に、見たことのない模様が刻まれている。
いや、見たことがないわけじゃない。
俺は懐に手を入れた。
父さんの部屋で見つけた紙を取り出す。
紙に書かれていた文字と、遺跡の入口に刻まれた文字。
同じかどうかはわからない。
でも、似ていた。
曲がり方も、線の絡まり方も、傷みたいに見えるところも。
「なんで……」
考えてもわからない。
俺は紙をしまい、遺跡の中へ入った。
中は暗かった。
昼間なのに、少し進むだけで光が薄くなる。石の床は冷たく、湿っていた。壁には古い傷があり、ところどころ新しい血の跡もある。
誰かがここで戦ったんだ。
足音がやけに響く。
自分の呼吸まで大きく聞こえた。
奥へ進む途中、魔物の死骸を見つけた。
トカゲみたいな魔物だ。体が真っ二つに斬られている。
切り口はまっすぐだった。
「父さん……?」
調査隊にも剣士はいる。これだけで父さんがやった証拠にはならない。
通路の壁には、文字が刻まれていた。
紙と同じような文字だ。
「一体なんなんだよこれ」
俺は誰にともなく言った。
声が少し震えていた。
奥へ進むほど、魔物の気配は減っていった。
おかしい。
ギルドの人は、遺跡の奥から魔物が出てきたって言ってた。
「まさか、もう外に出たんじゃ……」
そんなことを考えていると、通路の先に広い場所が見えた。
俺は剣を構えたまま、ゆっくり足を進める。
天井は高い。ところどころ崩れていて、上から細い光が落ちている。その光の中で、埃がゆっくり舞っていた。
そして、部屋の中央に巨大な石板が立っていた。
人の背丈の何倍もある。
表面には、びっしりと文字が刻まれていた。
胸の奥がざわつく。
俺は近づこうとして、足を止めた。
石板の前に、誰かが倒れていた。
「おい!」
俺は駆け寄った。
少女だった。
俺と同じくらいか、少し下くらいに見える。
白に近い淡い髪が、石の床に広がっている。服は見たことのない形で、ところどころ破れていた。血はほとんどない。でも、顔色が悪い。
肩に触れる。冷たい。
でも、息はあった。
「大丈夫か? 聞こえるか?」
少女のまぶたが、少しだけ震えた。
俺はほっとした。
「よかった。俺はアレン。ルーエ村から――」
言いかけて、止まった。
少女の目が開いた。
薄い色の瞳だった。
青にも見える。銀にも見える。見たことのない色。
その目が、俺を見ている。
いや、違う。
俺の向こう側の石板を見ていた。
少女はゆっくりと腕を上げた。
震える指が、石板を指す。
「……――……」
聞いたことのない言葉だった。
声はかすれている。何を言っているのか、まったくわからない。
「ごめん、わからない。何? そこに何かあるのか?」
少女はもう一度、何かを言った。
俺の知ってる言葉じゃない。
俺は懐に手を当てた。
父さんの部屋で見つけた紙。
「君は……」
喉が乾く。
「父さんのこと、知ってるのか?」
少女は答えなかった。
ただ、ゆっくりと目を動かした。
俺の顔ではない。俺の胸元。紙をしまっているあたりだった。
背中から変な汗が出た気がした。
服の内側に入れてるんだ。見えるはずがない。
それなのに、少女は迷わずそこを見ていた。
「これのことか?」
俺は紙を取り出した。
少女の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。
反応した。間違いない。
少女は何かを言おうとした。けれど、声にならなかった。細い息だけが漏れて、体から力が抜ける。
「おい!」
俺は慌てて支えた。
このままにはしておけない。
遺跡の中にはまだ魔物がいるかもしれない。調査隊の人たちもいない。父さんの姿もない。
わからないことだらけだ。
でも、この子をここに置いてはいけない。
「ごめん。勝手に連れていくよ」
聞こえているかどうかはわからない。
俺は少女を背負った。
思ったより軽かった。軽すぎて、少し怖くなるくらいだった。
石板をもう一度見る。
そこに刻まれた文字は、何も答えない。
なのに、俺にはそれが、じっとこちらを見ているように思えた。
「父さん……どこにいるんだよ」
小さく呟いて、俺は来た道へ向かった。
その時。
背中の少女が、小さく何かを言った。
「……クロ……ヴィス……」
聞き間違いかと思った。
でも、違う。
今、この少女は確かに父さんの名前を呼んだ。
「なんなんだよ一体」
答えは返ってこない。
巨大な石板は、暗がりの中で沈黙している。
その表面に刻まれた無数の文字だけが、薄い光を受けて、傷跡みたいに浮かび上がっていた。




