第一話 英雄の家
ルーエ村の朝は、たいてい父さんの名前から始まる。
「おう、アレン。えらく張り切ってるな。さすがクロヴィス様の息子だ」
井戸の近くで桶を抱えていたおっちゃんが、笑いながら声をかけてきた。
俺は肩に担いでいた薪を抱え直し、いつものように笑って返す。
「ただ薪を運んでるだけだって。それに父さんなら、この三倍は持てるって」
「ははっ、そりゃそうだ。なんせあの方は魔王を討った英雄だからな」
「そうだよ。じゃあもう行くよ」
魔王を討った英雄。
村の人たちは、その言葉を、天気の話みたいに口にする。
クロヴィス。
俺の父さんの名前だ。
かつて人間の世界を脅かした魔王を倒し、ルーエ村へやってきた。村の人たちにとって、父さんは遠い昔話の中にいる英雄ではない。
畑道を歩けば頭を下げられ、子供たちは遠くからその背中を見て目を輝かせる。
そして、その息子である俺もまた、似たような目で見られることが多かった。
英雄の息子。
その言葉は、嫌いじゃない。
嫌いじゃないけれど、たまに息苦しくなる。
「お帰りアレン、薪はそこに置いてくれればいいわ」
家の裏手へ回ると、母さんが洗濯物を干していた。
白いシーツが風に揺れている。母さんの横顔は、なんだか疲れているようにも見えた。
「よいしょっと。他になんか手伝うことある?」
「ないわ。それよりも、朝から動きっぱなしでしょう。少し休んだら?」
「平気だよ。父さんなら、このくらいで休まないし」
そう言った瞬間、ほんの少しだけ母さんの手が止まった。
「……アレン」
「ん?」
「あなたは、あなたらしくしていればいいのよ」
俺は笑った。
「わかってるって」
本当は、あまりわかっていなかった。
俺は父さんのような英雄になりたい。
剣は小さい頃から父さんに教わってる。
魔力も、人よりずっと強いらしい。
けれど、うまく扱えない。
剣に魔力を流せば、刃は黒紫に染まる。細い雷のような光が走り、普通の剣では斬れない魔物の皮膚も断てる。らしい。
だが、いつも綺麗にはいかなかった。
刃に沿って流した魔力が、剣から離れてバラバラになる。
試しに魔力を飛ばそうとしても、すぐ暴れて、狙った場所まで届かない。
父さんは、俺が魔力を使おうとすると、なんだか暗い顔をする。
だから父さんの前ではあまり魔法の練習はしないようにした。
「アレン」
母さんが、もう一度俺を呼んだ。
「本当に、少し休みなさい」
「……うん」
父さんは居間にいた。
椅子に腰かけ、古い剣の手入れをしている。魔王を倒した大剣だ。でかい。こんなでかい剣を、父さんは軽々と振り回すんだ。
「父さん」
声をかけると、父さんは顔を上げた。
黒髪に混じった白髪が、最近少し増えた気がする。体は今でも大きいし、背筋も伸びている。けれど、その目の奥に、前にはなかった影が落ちているように見えた。
「帰ったか」
「うん。母さんに休めって言われた」
「そうか。なら休め」
「父さんは?」
「俺は休んでいるだろ」
「剣を磨きながら?」
「手を動かしている方が落ち着くからな」
父さんらしい答えだ。
俺は向かいの椅子に座り、剣を手入れする父さんの手元を眺めた。
父さんの手は大きく、傷も多い。
「ねえ、父さん」
「なんだ」
「魔王って、どんな奴だったの?」
何気なく聞いたつもりだった。
けれど、父さんの手が止まった。
布を握ったまま、父さんは動かなかった。
「……どうして、そんなことを聞くんだ」
「いや、この前、友達に聞かれたんだよ。魔王って角があったのかとか、火を吹いたのかとか。俺、知らないからさ」
「知らなくていいだろ。もう魔王はいないからな」
低い声だった。
「でも、知りたいんだよ。俺は英雄の息子なんだから。父さんのようになりたいんだ」
「……また今度話そう」
父さんはまた剣を拭き始めた。
それ以上聞くな、という空気があった。
父さんは昔から、多くを語る人ではなかった。魔王討伐の話も、村の人たちの方がよほど詳しそうに語る。父さん本人がその話を自慢したことは、一度もない。
それが謙虚さなのだと、俺は思っていた。
英雄だからこそ、誇らないのだと。
けれど最近は、なんとなく違う気がしていた。
その夜。
俺は、なにかの音で目を覚ました。
最初は風の音かと思った。窓の隙間から入り込む夜気が、細く鳴っているのだと。
低く、喉の奥を裂くような、苦しげな声。
「……っ……ぐ……」
父さんの部屋からだった。
俺はベッドから起き上がった。
心臓が嫌な音を立てている。
この声を聞くのは、初めてではない。
昔はなかった。
少なくとも、俺が子供の頃には一度もなかった。
ここしばらく、夜になると父さんの部屋からうめき声が聞こえることがある。最初は体調でも悪いのかと思った。
けれど朝になると、父さんは何もなかったような顔をしている。
俺が廊下へ出ると、母さんも部屋の前に立っていた。
「母さん」
小さく呼ぶと、母さんはびくりと肩を震わせた。
「アレン……起きていたの」
「また、父さん?」
母さんはすぐには答えなかった。
扉の向こうで、何かが倒れるような音がした。
「父さん!」
俺は扉へ手を伸ばした。
けれど、その手を母さんが掴んだ。
「待って」
「でも」
「お願い。今は、入らないで」
母さんの声は震えていた。
俺は母さんの顔を見る。
暗がりの中でも、その表情が強張っているのがわかった。
「母さん、何か知ってるの?」
「……何も」
「嘘つけ」
つい、声が強くなった。
母さんは目を伏せた。
その時、扉の向こうから父さんの声がした。
「入るな」
掠れた声だった。
いつもの父さんの声ではない。
もっと荒く、深く、ひどく疲れていた。
「父さん、大丈夫なの?」
「大丈夫だ」
「でも」
「アレン」
父さんの声が、少しだけ鋭くなった。
「部屋へ戻れ」
俺は何も言えなかった。
父さんがそう言うなら、従うしかなかった。
翌朝、父さんはいつも通り食卓にいた。
顔色が悪い。それに、少しやつれていた。
「父さん。もう大丈夫なの?」
俺が切り出すと、父さんは短く答えた。
「ちょっと、夢を見ただけだ」
「夢?」
「ああ」
「ここ最近、ずっとだよね?」
父さんの手が止まった。
「少し外に出る」
「どこへ?」
「ちょっと。風を浴びてくる」
父さんはそれ以上答えなかった。
俺はその背中を見送った。
何度も憧れた背中だ。
けれどその朝、俺にはなぜか、その背中が少しだけ遠く見えた。
父さんが出ていった後、俺は父さんの部屋に入った。
本当は、勝手に入るべきじゃない。
それでも、昨夜の声が耳から離れなかった。
父さんの部屋は綺麗に整頓されていた。
ベッド。机。剣の手入れ道具。古い上着。いくつかの革袋。なんだか、宿の一室みたいだった。
机の上には何もない。
ただ、引き出しが少しだけ開いていた。
「……ごめん、父さん」
俺は小さく呟いて、引き出しに手をかけた。
中には古びた紙が入っていた。
端が焦げ、折り目のところから破れかけている。何かのメモの一部らしい。
そこには、見たことのない文字が書かれていた。
読めない。
母さんに読み書きは習ったから、字は読める。
曲がり、絡み、まるで傷跡みたいに紙の上を走る見たこともない文字。
俺は眉をひそめた。
「なんだ、これ……」
なんとなく、ただの落書きではないことだけはわかった。
その時、外が騒がしくなった。
誰かが叫んでいる。
「怪我人だ! 道を空けろ!」
俺は紙を慌てて懐にしまい、部屋を飛び出した。
村の広場には、人が集まっていた。
荷車が何台も入ってくる。
そこに乗せられていたのは、血まみれの人たちだった。
冒険者か旅人だ。
「何があったんですか!?」
俺が駆け寄ると、片腕に布を巻かれた冒険者が息を荒くして言った。
「遺跡だ……魔物が、急に……」
「魔物?」
「数が多すぎる。奥から、次々出てきやがった……」
広場の空気が一気に冷えた。
北の森の奥で古い遺跡が見つかったのは、つい最近のことだった。
何日か前から、ギルドの調査隊が村に泊まっていた。
俺も何度か広場でその姿を見ている。けれど、まさかこんな形で戻ってくるとは思っていなかった。
「クロヴィス様は?」
誰かが言った。
「おい、誰か。クロヴィス様に知らせろ!」
「英雄がいれば、なんとかなる」
その言葉が広がっていく。
英雄なら、なんとかしてくれる。
誰もがそう思っていた。
俺も、そう思った。
父さんなら行く。
怪我人が出たなら、黙っていない。
けれど、その日、父さんは村のどこにも姿を見せなかった。
夜になっても、父さんは帰ってこなかった。
母さんは何も言わず、灯りの消えた居間に座っていた。指先を握りしめたまま、じっと扉を見ている。
俺も眠れなかった。
懐には、父さんの部屋で見つけた紙がある。
読めない文字。
父さんの夜のうめき声。
古代遺跡の魔物。
頭の中で、それらがばらばらに転がっていた。
そして翌朝。
父さんの部屋は空だった。
ベッドは乱れていない。
机の上にも何もない。
昨日まで壁に掛けられていた大剣が、なくなっていた。
胸の奥が、熱くなっていく。
父さんは行ったんだ。
遺跡へ。
魔物が出たから。怪我人が出たから。
村の人たちが父さんを必要としているから。
父さんなら、そうする。そうするはずだ。
俺は部屋から剣だけ持って、家を飛び出した。
朝のルーエ村は、いつもより静かだった。
広場で集まってるおばちゃん達も、畑へ向かうおじいちゃんも、誰も軽口を叩かなかった。皆、北の森の方を見ている。
その視線の先に、遺跡がある。
俺は歩き出した。
怖くないわけじゃない。
それでも、足は止まらなかった。
一度でいい。
父さんの背中を、ただ見上げるだけじゃなく、同じ場所に立ってみたかった。
森へ続く道の前で、俺は剣の柄に手を置いた。
風が吹く。
その風の中に、血と土の匂いが混じっていた。
俺は息を吸い、前を向く。
「よし。行くぞ」
そして、古代遺跡へ向かって歩き出した。




