第五十八節 織田信長の背後を突く軍勢、集結す
織田信長が京の都へ大軍を差し向けてから、しばらく経った日のこと。
武田勝頼の本拠・躑躅ヶ崎館[現在の甲府市]に早馬[書状などを急いで届ける配達人のこと]が慌ただしくやって来た。
早馬が持つ書状の差し出し人は何と……
川中島で激突した強敵・上杉謙信の軍勢から善光寺平[現在の長野盆地のこと]を守るために築かれた海津城[現在の長野市松代町]と、およそ1万人もの守備兵を預けられた高坂昌信である。
高坂昌信。
仮名で高坂弾正、別名で春日虎綱とも言うこの人物は、無敵を誇る武田軍の将帥の中でも優れた実力の持ち主のみに与えられた称号・武田四天王の筆頭に名前が挙がっている。
彼が生まれた家は貧しく無名であったが、その類まれなる実力によって出世を重ね、やがて越後国[現在の新潟県]の軍神と恐れられた上杉謙信に対する軍事、外交のすべてを任されるまでになった。
他の将帥たちは、口々にこう言って彼を高く評価していたらしい。
「退き弾正。
要するに……
安心して『退却戦』を任せられる武将は、高坂昌信しかいないということじゃ」
と。
これは、どういう意味なのだろうか?
◇
他の将帥たちの話は、こう続く。
「退却戦という、最も軍勢が崩壊しやすい状況……
これを指揮する難しさは尋常ではない。
退却している間は、いつ無防備な背中を襲われるか分からないのだからな。
追撃される恐怖に怯えた兵たちは軍の『秩序』を守るよりも己の『命』を守ることを優先し、我先に逃げ出して軍を崩壊させ、かえって犠牲を大きくしてしまうもの」
さらに、こう続く。
「ところが!
高坂昌信が率いる軍勢に限っては、絶対に崩壊しないのじゃ!
恐らく……
兵たちが進んで己の命を預けることができるほど、昌信という男を信頼しきっているからだろう。
それに加えて。
尋常ではない方法で、軍の秩序を守ることを兵たち一人一人に叩き込んでいたに違いない」
と。
高坂昌信が率いる軍勢に限って退却戦で崩壊しない理由を、今となっては知りようがないが……
ある程度の予想なら出来る。
「昌信様は、常に我らの『立場』になって考えてくれる御方じゃ」
このように兵士たちから厚い信頼を得ていたのだろう。
ただし。
それだけで軍の『秩序』を守ることはできない。
どんな組織にも、ルールを破る人間が必ずいるからだ。
実際のところ。
己の目先の利益に釣られて悪事を働く人間は後を絶たない。
悪事は年を追うごとに狡猾になって多くの人間が利用され、操られ、騙され、欺かれ……
その被害者側に、あるいは悪事を働く側へと流れている。
代々の為政者たちは、処罰という『見せしめ』によって悪事を働く人間を減らし、国民の平和で安全な生活を守ろうと努めてきた。
「法律を破ったら痛い目に合いますよ。
得するどころか、損するだけですよ」
と。
悪事の結果から得られる利益よりも重い処罰が下されるからこそ、社会の秩序が維持できていると言っても過言ではない。
やった方が得など絶対にあってはならず、処罰の内容は常に見直されてきた。
処罰とは、つまり……
秩序の崩壊を防ぐための『抑止力』であるとも言えるだろう。
◇
「信賞必罰は武人の拠って立つところだ」
生きるか死ぬかの戦争を遂行している軍の指揮官にとって、秩序の崩壊を防ぐことは常に最優先事項であった。
どんなに些細な軍規[軍のルールのこと]違反も見逃さず、軍の秩序を乱した兵士には身分や功績関係なく徹底して厳罰に処さねばならない。
そもそも。
軍の指揮官は、軍規を守らせるために『存在』している。
軍規を守らない人間がいるだけで指揮官失格の烙印を押される場合すら多々ある。
繰り返すが……
遊びをしているわけではなく、生きるか死ぬかの戦争をしているのだから。
貧しく無名な家に生まれた男が武田四天王の筆頭へと上り詰めるには、とてつもない修羅場をくぐる必要があったに違いない。
気が合っていた友人、可愛がっていた後輩であろうと些細な軍規違反も見逃さず、ときに自ら刀を振るって違反者の首を刎ねていたのだろう。
非凡な人物は、凡人[普通の人という意味]から見ると『狂人[狂った人という意味]』のように映ってしまうのかもしれない。
◇
さて。
高坂昌信からの書状の内容は、この一文のみであった。
「勝頼様。
一刻を争う話があるゆえ、木曽福島城[現在の長野県木曽福島町]へ来て頂きたい」
と。
勝頼は咄嗟に考えた。
「上杉謙信から善光寺平[現在の長野盆地のこと]を守るという大事な『任務』がある高坂昌信が……
何の理由があって、任地から大きく離れた木曽福島城へと来るのか?」
木曽福島城から東山道という街道を南西へ少し進むと、美濃国[現在の岐阜県]との国境・馬籠峠に至る。
国境の峠らしく、峠の頂上からは濃尾平野全体を見渡すことができる。
峠の先は国衆[独立した領主のこと]の遠山一族が治める恵那郡[現在の恵那市]であり、その先は織田信長の本拠・岐阜城である。
急げば1日程度で到達できてしまう距離だ。
「岐阜に近い木曽福島へ来いということは……
まさか!」
昌信の狙いに勘付いた勝頼は、直ちに向かうことを決めた。
「武藤喜兵衛[後の真田昌幸]はおるか?」
「ここに」
「高坂昌信が、木曽福島へ来いと申してきた」
「昌信様が?」
「おぬしの父である真田幸隆は、昌信の親友であったとも聞く。
わしを呼び出す理由について何か『見立て』はあるか?」
「見立てなら、あります」
「よし。
ならば一緒に来てくれ。
その内容を、馬上にて聞こう」
「はっ」
2騎の騎馬武者が、全速力で駆けて行く。
◇
「昌信が木曽福島に大軍を集結させている?
やはり……
そうなのか!」
後に真田昌幸と名前を変え、大坂城の戦いで有名な真田幸村の父となる武藤喜兵衛から見立ての内容を聞いた勝頼は思わず大声を上げた。
「はい。
織田信長が全軍をかき集めて京の都へ行った、この状況を……
昌信様は信長の無防備な背後を突く千載一遇の『好機』と捉えたに違いありません」
「……」
「勝頼様も、そのことには既にお気付きのはずです」
「気付いてはいるが……
それにしても、不思議なことが一つある」
「何でございましょう?」
「木曽福島城は任地から大きく離れている。
武田家当主の代行を務めるわしの命令すら出ていないのに、任地から大きく離れるなど兵たちにとっては『不安』でしかあるまい」
「確かにそうですな」
「不安でしかない状況の中で、すべての兵たちを木曽福島城へと連れて来たとしたら……
高坂昌信の統率能力の高さは尋常ではないことになるぞ?」
「まさしく」
◇
木曽福島城に到着した勝頼は、驚愕の光景を目の当たりにする。
そこには1万人を超える武田菱の旗印を掲げた大軍がいたのだ!
「こ、これは……
昌信よ。
海津城の周辺にいた1万人以上の守備兵たちを、根こそぎ連れて来たと申すのか?」
「はい。
上杉家との国境をがら空きにして参りました」
「普通、兵は任地から大きく離れることに不安を覚えるものだが?
しかも。
上杉家との国境をがら空きにし、そこから程近い任地に家族を置いたまま進軍するということは……
あの上杉謙信に家族を討たれ、己の無防備な背後を襲われる恐怖を常に感じながらやって来たということではないか」
「……」
「その恐怖が、どれほどのものなのか……
わしには想像も付かない」
「……」
「つまり、この事実は……
おぬしの統率能力の高さが尋常ではないことを意味している。
そのことに感心していたのだ」
「お褒め頂き、恐縮にございます」
「ところで。
国境が、がら空きになっていることを……
上杉謙信は気付いているのか?」
「気付いております。
それがしが、上杉家の重臣筆頭である直江景綱殿に伝えましたので」
「何っ!?
あえて上杉家に伝えたと?」
「優れた将である直江殿の目を欺くことなどできない以上……
隠しても意味はありますまい。
むしろ。
正直に伝えた方がずっと得です。
直江殿と、その主である上杉謙信公は……
卑怯な戦い方を好まぬお人柄ゆえに」
「なるほど。
2人の清廉潔白な人柄を『利用』するために、あえて伝えたわけだな」
「御意。
ところで。
勝頼様。
単刀直入に申し上げます。
この通り……
織田信長の背後を突く軍勢が、集結しましたぞ」
【次節予告 第五十九節 武田勝頼が天下を握る好機到来す】
織田信長から全く見えていない武田軍の存在を知った武藤喜兵衛は、こう言って武田勝頼の背中を押します。
「間髪を入れず準備不足の岐阜城へと襲い掛かり、城を落として城下の町に火を放てば……
信長とその軍勢が引き返してくる前に、信長の本拠を壊滅させることができるのではありませんか?」
と。




