第五十七節 足利義昭と室町幕府、織田信長が撒いた餌に食い付く
1573年3月30日。
足利将軍家の家紋・丸に二つ引きの旗印を掲げた数百人の幕府軍が、京都所司代の屋敷を蟻の這い出る隙もないほど厳重に包囲する。
一方。
肝心の京都所司代・村井貞勝は、どんな手を使ったのか幕府軍の包囲を潜り抜けていた。
満を持して幕府軍が屋敷の中へ突入した際には当の貞勝本人も、その家族もおらず……
もぬけの殻であった。
賢そうな面構えをした兵士が何かを悟ったかのように口を開く。
「これは一体、どういうことだ?
もしや。
我ら幕府軍は……
京都所司代を討伐するよう『仕向けられた』のではないか?」
「仕向けられた、だと?
一体、誰に?」
「織田信長本人に決まっている」
「えっ!?
なぜ、そんなことを?」
「信長は、最初から我ら幕府と和平を結ぶ気などなかったに違いない」
「馬鹿な!
『信長は、朝倉軍と武田軍に再び攻められることが怖くてたまらない。
よほど追い詰められているのか、信長は幕府との和平を必死に懇願している』
これらの話は……」
「幕府を調子に乗らせるために流した、偽りの噂[デマ]に決まっているではないか!
我らは……
信長の撒いた『餌』にまんまと食い付いてしまったのだ!」
「何ということじゃ!
我らは愚かにも、『自ら』の手で信長との和平の道を閉ざし……
200年以上も長きに亘って続いた幕府に、『自ら』の手で終止符を打ってしまったと……」
「こんな『皮肉』があろうか!」
◇
さて。
幕府の家臣たちの中で、京都所司代を討伐することに猛反対した武将が……
3人いた。
幕府の政所執事を務める名門・伊勢家の若き当主である伊勢貞興、その友人である御牧兼顕と諏訪盛直である。
ちなみに。
この3人は、後に精強な明智光秀軍団の中核を担う武将となるのであるが……
それは少し先の話だ。
最初に吠えたのが、3人の中で最も若い伊勢貞興であった。
「京都所司代を討伐しただと!?
自らの手で信長との和平の道を閉ざすとは、頭が悪いにも程があるぞ!
まるで罠を張って待ち構えている蜘蛛のように東の高台で不気味な静けさを保っている……
あの軍勢のどこが、いつ無防備な背中を襲われるか不安で夜も眠れない軍勢に見えるのか!」
「……」
「上様[将軍である足利義昭のこと]の側近衆どもの目は、ことごとく節穴なのか?」
指摘された義昭の側近が、すかさず切り返す。
「上様の許可は得てやったことじゃ。
余計な口出しは無用にして頂きたい」
「許可は得ているだと?
上京の商人どもと癒着し、側近の立場を利用して都合良く上様を『操って』いる分際で何を!」
隣にいる御牧兼顕が友人の援護を始めた。
「そもそも。
おぬしら側近衆に幕府軍を指揮する権限などないはず。
政所執事である伊勢貞興殿に何の相談もなしに軍勢を繰り出すとは……
これ如何に?」
「左様なことを申されても困りますな。
我らは上様の許しを得て軍勢を繰り出したまでのこと。
我らを非難するということは、これすなわち上様を非難するに等しい振る舞いでござろう」
思わず激高した伊勢貞興が刀を抜き放つ。
「この茶坊主[権力者にこびへつらう者をののしる言葉]が何を抜かすかっ!
今ここで斬り捨ててやるわ!」
それを見た諏訪盛直が慌てて静止する。
「待たれよ!
来奴らを斬ったところで、何の解決にもなりませんぞ!」
「止めるな、盛直殿!
来奴らこそが……
来奴らこそが幕府を腐らせた元凶なのだ!
主を助ける立場にありながら、己の目先の利益ばかりを優先して上京の商人どもと癒着し、この幕府を上京の商人どもの傀儡に成り果てさせた張本人ではないか!」
「貞興殿。
刀を納められよ。
どのみち……
悪者に仕立て上げられた幕府は、これでもう終わりなのだから」
「悪者に『仕立て上げられた』だと?
兼顕殿。
一体、どういう意味で?」
「貞興殿のお見立ての通り……
信長の軍勢は、東の高台で罠を張って待ち構えていることに間違いはないと思う。
そして。
その『狙い』は何か?」
「狙い?」
「上京の人々に加え、幕府も悪者にする物語を仕立て上げること」
「何っ!?」
「『これほどまでに我らの提案に耳を貸さないのならば、京の都に火を放つことと致します』
こう信長の使者が申したことは、破れかぶれなどではなく……
最初からそのつもりであったのだろう」
「最初から京の都を焼き討ちにするつもりであったと申されるのか?」
「恐らく。
信長が京の都へ大軍を差し向けた『真の目的』は、京の都、特に上京を焼き討ちにすることで間違いはあるまい」
「それはつまり。
我ら幕府に対して何度も和平を懇願していたのは……
追い詰められていたからではなく、追い詰められた『ふり』をしていただけ?」
「実際のところ。
朝倉義景も、武田勝頼も、信長の無防備な背後を襲う気配すら見せていないではござらぬか。
信長が何らかの方法で足止めをしているのだろう」
「確かに。
そうかもしれない」
「ところで貞興殿。
日ノ本において『武器商人の都』と呼ばれる場所が2つあるが……
お分かりか?」
「この京の都、特に上京と……
そして堺?」
「うむ。
上京を焼き討ちにすれば、残るは信長が直轄支配している堺『だけ』となる」
「信長の敵への武器弾薬の流れは止まり、信長は圧倒的な優位に立てるということか。
それにしても。
幕府は何と愚かな真似をしたものよ。
信長の使者を何度も追い返し、信長が任命した京都所司代までも討伐するとは……
幕府の『せい』で上京が焼き討ちにされたという筋書きを、幕府が自らの手で完成させたようなものではないか!」
「幕府は……
同胞を見捨てた愚か者として、歴史に不名誉な『名前』を残すことになるだろうな」
「くそがっ!」
◇
3月30日の夜。
織田信長の側近・堀久太郎と万見仙千代が、2人の武器商人と会っている。
一人は上京で商いを営む吉田屋、もう一人は下京で商いを営む茶屋と言う。
上京の人々が貧しい下京の人々を差別し、下京の人々が上京の人々へ敵愾心を抱いている中でも……
2人の友情には何の影響も与えなかったようだ。
同じ志を持つ友であったからだが、その志とは何だろうか?
当時。
日本において武器商人の都と呼ばれる場所が2つあった。
京の都、特に上京[現在の京都市二条通より北側]と、そして堺[現在の大阪府堺市]である。
「崩壊した『秩序』を立て直すためには……
悪い事柄の根を絶ち、腐り切った世をあるべき姿に戻さねばならない」
この志を貫くべく、250年以上も前に奥州[現在の東北地方]軍を率いて電光石火の早さで京の都を目指した戦争の天才・北畠顕家。
行く手を遮る幕府の大軍を何度も撃破して京の都へあと一歩まで迫った戦争の天才に強い憧れを抱き、その志を継がんとした、『秩序』を重視する傾向が顕著な織田信長にとって……
誰かの役に立つことよりも己の目先の利益のために土倉という高利貸しに励み、事もあろうに将軍・足利義輝の殺害にまで関与した京の都の武器商人と手を組むなど、考えるだけでも虫酸が走る行為であった。
したがって。
信長が堺の武器商人と手を組んだのは、至極当然の流れだと言える。
一方。
数百年の伝統を誇る京の都の武器商人にとって……
新興勢力に過ぎない堺の武器商人と手を組む信長は、目障り以外の何物でもない。
信長の敵たちを支援して盛んに武器弾薬を流したのも、これまた至極当然の流れであった。
しかし。
京の都の武器商人の中でも吉田屋と茶屋は違っていたようだ。
2人は信長の志に共感し、その側近衆を通じて密かに信長と『内通』していたのである。
「吉田屋殿。
そして、茶屋殿。
そなたたちのおかげで……
幕府軍はまんまと我らが撒いた餌に食い付いて来た。
これで。
信長様の『無念』を晴らすことができる」
「久太郎殿。
上京を代表する武器商人として、信長様の『愛娘』を暗殺する企てを阻止できなかったことは痛恨の極み……」
「吉田屋殿。
信長様は、そなたのことを悪く思ってはおられない。
上京の武器商人の意思決定は、上京を代表する5人の武器商人の多数決で決まる習わしである以上……
そなた一人が反対しても止めることはできなかった」
「そこまでご理解頂けるとは」
「やはり。
腐り果てた都は一度、灰にするしかないのだろうか?」
「御意」
「無関係な人を巻き込むことは本意ではないが……
愛娘の暗殺を企てた奴らを、悉く根絶やしにすることと致そう」
【次節予告 第五十八節 織田信長の背後を突く軍勢、集結す】
武田四天王の筆頭・高坂昌信に呼び出された武田勝頼は……
後に真田昌幸と名前を変える武藤喜兵衛を連れて木曽福島城へと向かいます。
そこには何と、武田菱の旗印を掲げた大軍が集結していました。




