第四十七節 織田信長、武田勝頼に和平の話を持ち掛ける
堀久太郎が一つの作戦を提案していた。
織田信長が不倶戴天の敵と定めた武田家との戦いを『避け』、まずは全軍で室町幕府を討つこと。
幕府を滅ぼした後は、その勢いで朝倉・浅井連合を討つこと。
自分の提案した作戦に説得力を持たせるため……
『わざわざ』兵法の常識まで持ち出した。
1つ目は、複数の敵と同時に戦うことは兵力分散という愚[兵法で間違いとされている行為]を犯す羽目に陥るということ。
兵法をよく知る信長ならば十分に理解できる話だろう。
続いて2つ目。
複数の敵に勝利する方法は、分散した敵を、高い機動力で弱い敵から各個に撃破していく各個撃破戦法しかないこと。
これは信長自身が稲生の戦いや桶狭間の戦いで用い、見事に敵の大軍を撃破した過去がある。
過去の成功体験がある以上、説得力は十分だろう。
最後の3つ目。
室町幕府が最も弱いのは、今だけであること。
要するに……
主の目を武田家から『逸らす』ための提案であったのだ。
◇
狙い通り、主の目は武田家から逸れた。
「幕府が最も弱いのは……
今だけだと?
それは、どういう意味じゃ?」
「信長様が日ノ本中の民にばらまかれた異見十七ヶ条。
幕府への非難を17項目も並べた部分から始まる手紙です」
「……」
「帝[天皇のこと]を杜撰に扱い、大名に援助という名の賄賂を要求し、貪欲にも公家[かつての貴族のこと]や寺社の領地や財産を横領し、働いている者たちに支払う給料が不公平で、飢饉などで値上がりしている地域へ米を転売して金儲けをしている、など。
これを読んだ民衆は……
多くの者が正義感に駆られて拡散し、幕府を非難する声が世に満ち溢れ、幕府の名は地に堕ちています」
「うむ。
それで?」
「信長様。
この熱狂は、いつまで続くとお考えでしょうか?」
「いつまで……
とは?」
「信長様ほど聡明な御方ならば、お分かりのはず。
民衆の熱狂というものは……
熱しやすい反面、すぐに冷めてしまうことも」
「要するに。
もうすぐ効果が切れてしまうと?」
「御意。
民衆の熱狂が冷める『前』に室町幕府を討っておかねば、せっかくの好機を逃すこととなりましょう」
「分かった。
そちが提案した通りに進めるとしよう。
それにしても……
久太郎よ。
そちは、なかなかに賢いな」
「お褒め頂き……
有難く存じます」
「主の目を武田家から逸らすことに、まんまと『成功』するとは……
見事ではないか。
ははは!」
「すべて、お見通しでございましたか……
申し訳ありません」
「久太郎よ。
わしはな、わしの話をすべて真に受けて盲目的に従うような家臣[イエスマンのような部下]など好まん。
長頼やそちのように、主のためを思い、主にとって耳の痛いことでも全力で諫言[上司の間違いを指摘して忠告すること]できる者こそ側に置く。
誰かの話を真に受けてではなく、己の頭で筋道を立てて考えた上で正しいと判断したならば……
全力でそれを貫け。
謝る必要などない」
「はっ」
◇
信長は、他の側近にも意見を求めることにした。
「して……
他の者はどうじゃ?
何か意見はあるか?」
側近たちは、信長の視線が万見仙千代に向かっていることを敏感に察知する。
それよりも一瞬早く仙千代自身がそれを察知していた。
「信長様。
久太郎殿の提案は理に適っていると、それがしも思います」
「それだけか?
それだけではあるまい?
仙千代よ。
そちの考えを申せ」
仙千代は何かを覚悟したかのように一呼吸を置き、話し始めた。
「恐れながら申し上げます。
各個撃破戦法を用いて室町幕府と朝倉・浅井連合を滅ぼすには……
『もっと』兵力が必要ではないでしょうか?」
「もっと必要!?」
「はい。
討つのではなく、滅ぼすからです」
「2、3万人の兵がいれば兵数で敵よりも上回るが、それでも足りないと申すのだな?」
「少なくとも。
5万人の兵は用意する必要がありましょう」
「5万人!?
織田軍のほぼ全兵力ではないか。
各地の国境に守備兵を残すことを考えれば、3万人が限度ぞ?」
「武田家との国境に張り付けていた軍勢をすべて回せば可能と考えております。
信長様」
「何だと!?
武田家との国境に張り付けていた軍勢をすべて回し、国境を『がら空き』にせよと?」
「御意」
「馬鹿な!
信玄を超えるほどの軍略の才を持つ勝頼に対して……
『どうぞ侵攻してください』
こう申しているようなものではないか。
我らが幕府を攻めている間に、勝頼が無敵の武田軍を率いて我らの背後を突いて来たらどうする?
一巻の終わりぞ」
「ですから。
武田勝頼に和平の話を持ち掛けて『欺く』のです」
「何っ!?
和平の話を持ち掛けるだと?」
「はい。
これこそ無敵の武田軍の動きを封じる、最も効果的な方法ではありませんか?」
『嘘』の話で相手を騙し、欺くという卑劣極まりないやり方に……
信長を除く一同は言葉を失った。
ここで久太郎が口を挟む。
「仙千代殿。
信玄を超えるほどの軍略の才を持つ勝頼を飛び越えて、織田家の血を引く息子の信勝を次の当主とする、あまりに不自然な当主交代は……
長頼殿の仰る通り、信長様との和平を望む意志を伝えていることに間違いはないと思う。
ただし。
国境をがら空きにすれば……
さすがの勝頼も、和平の意志を翻して侵攻を開始するのでは?」
「久太郎殿。
勝頼が和平の意志を翻す可能性は、ないと存じます」
「なぜだ?
なぜ、そう断言できる?」
「勝頼という人物を知れば……」
「人物!?」
信長が2人の会話に割って入った。
「久太郎よ。
仙千代に代わって、わしが教えてやろう。
勝頼という人物を観察すると……
父の信玄を上回る『実力』を持ってはいるが、一方で信玄ほど『徹底的』ではないことが分かるのじゃ」
「徹底的ではない?」
「孫子の兵法に、こう書かれている。
『実を避けて虚を撃つ』
と」
「実、つまり長所を避け……
虚、つまり弱点を突けという意味ですか?」
「うむ。
勝頼に実力を使う機会を与えず、徹底的にできない弱点ばかりを突けということよ」
「信長様。
勝頼が父の信玄ほど徹底的ではないと、どうして分かるのです?」
「若き日の信玄を知れば分かることじゃ。
信玄が継いだばかりの武田家は……
駿河国と遠江国[合わせて現在の静岡県]を治める今川家に、相模国[現在の神奈川県]と武蔵国[現在の東京都と埼玉県]を治める北条家という隣国の強大な大名が、甲斐国[現在の山梨県]を平和を保つ上で重大な脅威となっていた。
久太郎よ。
今川家や北条家に、甲斐国を侵略することが絶対に不可能だと思わせるためには……
『何』が必要だと思う?」
「武田家の圧倒的な強さを『見せ付ける』ことでしょうか?」
「うむ。
圧倒的に強い相手に侵攻する阿呆は、さすがにおらんからな」
「圧倒的な強さを見せ付けるには、国を『一つに』しておく必要があります。
そこで。
若き日の信玄は、命令に従わない国衆[独立した領主のこと]や家臣たちを片っ端から粛清[邪魔者を始末すること]していたと聞いたことが……」
「ああ。
信玄の粛清は、父の代から武田家の双璧[優劣の付け難い2つの優れたもののこと]と謳われた板垣信方と甘利虎泰にも及んだとか。
あの上田原合戦のどさくさに紛れて2人を始末したようじゃ。
加えて。
信玄は、甲斐国の民衆も粛清の対象にした」
「民衆も?
何をしたのです?」
「釜無川の治水工事で必要以上の銭[お金]を掠め取った者たちを根絶やしにするため……
自作自演の虐殺事件まで起こした」
「自作自演の虐殺事件!?」
「実行役を大勢殺した上で、その罪をすべて指示役に着せるという悪辣な手段を用いてな」
「……」
「そして。
最後は、指示役を一族悉く皆殺しにしたとか。
元々。
人を騙す連中だったらしく、同情の声は一つも上がらなかったようじゃ」
「……」
「良いか。
久太郎。
勝頼もまた、純粋に国を、民衆を憂う優れた支配者ではあるが……
ここまで悪辣な手段を用いるような男ではない。
現に、武田家中の『獅子身中の虫』を駆除しておらんからのう」
「獅子身中の虫?
それは、誰です?」
「武田一族の重鎮、穴山信君と武田信豊に決まっているではないか。
何の実力もないくせに野心だけは人一倍強く、強欲で、実力に秀でた武田四天王の足を引っ張っている小物ども。
いつか必ず、武田家に災いを齎すぞ?
さっさと『始末』すればいいものを」
「……」
「そんな勝頼に……
相手を徹底的に騙し、欺くような行為ができると思うか?」
【次節予告 第四十八節 織田信長を裏切り、武田勝頼の味方となった人たち】
「あんな人には付いて行きたくない」
激しい憤りを露わにした、おつやの方と徳川信康は……
織田信長を裏切り、武田勝頼の『味方』となりました。




