34.夏の終わり
夏休みも、もう終わりに近づいていた。
夕方になれば少しだけ風が涼しくなってきて、蝉の声も、どこか遠く感じる。
そんなある日のことだった。
スマホが震える。
市ヶ谷くんからだった。
『服買いに行くからついてきてー』
突然だなあ。
私は少し笑ってから返信する。
『いいけどなんか奢って』
『りょーかいー』
そんな軽いやり取りをして、約束の日になった。
待ち合わせ場所に着いて。
……十分。
二十分。
三十分。
「市ヶ谷くんさあ。誘っといて遅刻する?」
「ほんとすみません……」
ようやく現れた市ヶ谷くんは、申し訳なさそうに頭を下げた。
「まあ、プラスでなんか奢ってもらお」
「はい……」
素直だなあ。
怒る気もなくなって、二人で歩き始める。
「服買うって言ったけどさ」
「うん」
「何処に行きたいとかあるの?」
「うーーん、あんま決まってないんだよなー」
「行き当たりばったりすぎない?」
「まあまあ」
笑いながら歩く。
相変わらず、適当だなあ。
でも、今日はいつもと少し違う気がした。
「なんかさー」
市ヶ谷くんが前を向いたまま言う。
「最近、友達たちが付き合いだして」
「ああ……」
仁村くんと島さん。
三玉くんと六本木さん。
確かに。
最近、周りはそういう話ばかりだ。
「別にだから彼女欲しーってわけじゃないけど」
少し間を置いて。
「カッコよくなりてえなーって」
その言葉に、少しだけ意外に思った。
市ヶ谷くんは、別に誰かに合わせたいわけじゃない。
ただ、少しだけ。
周りが少しずつ変わっていく中で、自分も何か変わってみたい。
そんな感じなのかもしれない。
「じゃあ、あのブランドはどう?」
「あの?」
「あそこ。市ヶ谷くん、意外とスタイルいいから映えるんじゃない?」
「え? まじ?」
店に入る。
服を見ている市ヶ谷くんの隣で、私はいくつか手に取っていく。
「おおー、かっこいい!」
「今このアイテム流行ってるから着てみてよ」
「うん」
試着室へ入っていく。
しばらくして出てきた市ヶ谷くんを見る。
「……結構いいね」
「まじ?」
「うん。結構ブルベ気味なんだね。じゃあこのカラーの方がいいかな」
「ぶるべ? なんそれ?」
「あ、気にしないで」
「いや気になるんだけど!」
「いいからこっち着てみて」
「はーい」
何度か服を変えて。
色を変えて。
組み合わせを変えて。
気づけば、最初よりずっと市ヶ谷くんらしい服装になっていた。
「こんな感じ、どう?」
鏡の前に立った市ヶ谷くんが振り返る。
「すっげー!」
目を輝かせている。
「めちゃくちゃいい!」
「そう?」
「買お!」
「え? 値段とか見ないの? なんか好みとかもさ」
「後藤が選んだんならこれが一番いいんだよ」
「……はあ」
本当に、この人は。
人を信用するのが早すぎる。
でも、それは、なんだか嫌じゃなかった。
むしろ、少し嬉しかった。
そのまま何着か買って、店を出る。
紙袋が両手いっぱいになっている。
「すっごい買ったねー。秋の分まで買ったんじゃない?」
「マジで。こんな買ったの人生初だわ」
「大丈夫? お金」
「まあ、なんとかなるっしょ」
「それ一番危ないやつだよ」
二人で笑う。
夏の夕方。
人の多い街を歩く。
服を買っただけなのに。
なんだか少しだけ、特別な一日になった気がした。
「なんか食べる?」
「じゃあ肉系食べたい!」
「私の意見は?」
「なんか食べたいのあんの?」
「そうだね。パスタ食べたい」
「じゃパスタ行こうぜ」
「言っといて何だけど、パスタでよかったの?」
「パスタも俺めっちゃ好きだし」
「そっか」
店に入る。
注文をして。
料理が届く。
市ヶ谷くんは、いつも通りものすごい勢いで食べている。
「……そんな急いで食べなくても誰も取らないよ」
「腹減ってたからさ」
「ふふ」
なんだろう。
こうして改めて見ていると。
なんか、弟みたいだなあ。
あんまり可愛くない弟。
でも、放っておけない、そんな感じ。
そんなことを考えていたら。
「なんかさ」
市ヶ谷くんが口を開く。
「何?」
「後藤って妹みたいだなーってさ」
「……え?」
一瞬、二人とも固まる。
そして。
「ふふっ」
「ははは!」
二人で笑った。
心の底から。
なんだか、おかしかった。
楽しいなあ。
こういう時間。
恋人じゃなくても。
特別な人にはなれるんだ。
そんなことを、少しだけ思った。
店を出る。
空はもう暗くなり始めていた。
昼間の暑さが少しだけ抜けて、風が涼しい。
「じゃあまたね」
「おー。また」
少し歩いて。
市ヶ谷くんが振り返る。
「後藤、さん」
「何でさん付け?」
「……ありがとう」
「ん? いや、別にいいよ」
「いや、それもだけどさ」
市ヶ谷くんは少しだけ照れたように笑う。
「色々……ありがとう」
その言葉に。
胸の奥が少し温かくなる。
今日の服のこと。
それだけじゃない。
きっと。
これまでのこと全部。
「……こちらこそ、ありがとう」
「じゃ、改めてまたな、後藤」
「……真希」
「?」
「私の下の名前」
少しだけ恥ずかしい。
でも、いつか言ってみたかった。
「真希って呼んでよ、これからさ」
市ヶ谷くんは一瞬きょとんとして。
それから笑った。
「じゃあ俺、一。は、じ、め、な」
「分かった」
少しだけ笑う。
「じゃあまたね、一くん」
「またなー、真希」
手を振る。
市ヶ谷くんが歩いていく。
その背中を見ながら思う。
妹みたい。
弟みたい。
きっと。
それでいい。
恋じゃない。
でも。
大切。
それだけで、十分だった。
夏の終わりの風が吹いた。
少し涼しくなった街を歩きながら、私はなんとなく笑っていた。




