第74話 霧の向こうで ~沙羅の想い~
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手のひらが、まだ熱い。
斬った瞬間の感触が、皮膚の奥に残っている。
それはモンスターの肉ではない。
人間の、仲間の、柔らかい命だった。
「しかたなかった」
そう言い聞かせるたび、腕が重くなる。
言葉が軽ければ軽いほど、罪は濃くなる。
薫の声が、冷たい水のように胸に沁み込んでくる。
「事故だったのよね」
その響きに、沙羅は自分の理性が崩れていくのを感じた。
『仲間を斬った罪』——それは罪ではなかった。
罪は、『自分を欺こうとした』ことにあった。
見なかった。
聞かなかった。
気づこうとしなかった。
それが、彼を見捨てた理由。
「私だけじゃない」
そう思った瞬間、心が軋んだ。
『私だけは違う』と思いたかった自分が、そこにいた。
『彼を見殺しにした罪』、それは『自己肯定と自己保身という罪』だ。
薫の顔が近づく。
白かったはずの上着がーー赤い。
長い舌が、沙羅の輪郭をなぞるたびに、何かが奪われていく。
罪が軽くなる。
意志が希薄になる。
命が細くなる。
悲鳴はない。
流血もない。
ただ、静かに沈んでいく。
「私は、まだ人間?」
問いは、声にならなかった。
意識が遠のく。
水の底に引き込まれるように。
最後に見た薫の微笑みは、優しかった。
それが、いっそう苦しかった。
◇縫緋まといの思想◇
「戦うって、斬ることじゃないのよ」
まといは、誰にも聞かれない言葉を胸の奥で呟く。
「戦うって、見つめること。見ないふりをしていたものを、見つめ直すこと。それが、私の戦い」
人間は、垢を溜める。
それは、罪でもあるし、忘却でもある。
誰かを見捨てた記憶。
誰かを踏みつけた沈黙。
誰かを守らなかった選択。
「その垢は、誰にも見えない。でも、私には見える。だから、私はそれを食べる。それが、私の戦い」
まといの舌は、武器ではない。
それは、祈りの器官。
それは、罪の記憶をなぞるための触媒。
「人間との戦いは、罪との対話。あなたの罪を、私が味わう。あなたの痛みを、私が受け取る。あなたの沈黙を、私が語る」
それは、赦しではない。
それは、罰でもない。
それは、記憶の継承。
「私が食べることで、あなたは忘れられない。あなたが沈むことで、私は完成する。それが、私たちの戦い」
だから、彼女は斬らない。
だから、彼女は叫ばない。
だから、彼女は微笑む。
「人間との戦いは、静かに始まり、静かに終わる。それが、私の勝利」
「人間は、垢を溜める。見ないふりをして、擦り寄って、擦り切れて、それでも落とさない。だから、私が食べてあげるの」
その言葉は、責めではなかった。
それは、理解だった。
かつて『薫』だった彼女は、誰よりも『見ないふり』をしていた。
だからこそ、今、『見つめる者』になった。
沙羅の罪は、まといの舌に絡みつく。
それは、苦い。
それは、熱い。
それは、懐かしい。
「あなたの罪は、私の記憶に似ている」
彼女は、味わう。
沙羅の罪を、意志を、命を。
それは、奪うためじゃない。
それは、残すためにーー。
「あなたが消えたら、誰が私を覚えているの?」
だから、彼女は優しく微笑む。
その微笑は、かつて薫様が浮かべたものに似ている。
けれど、そこにあるのは、支配ではなく、赦し。
「ゆっくり眠るといいわ。起きたら・・・仲良くできるかしらね?」
それは、呪いではない。
それは、祈りだった。
沙羅が『沈む者』になることで、彼女は『食む者』として完成する。
水音が耳の奥で鳴る。
それは、まといの心臓の音。
それは、制服の縫い目の鼓動。
それは、信者たちの喝采の残響。
彼女は、戦っていない。
彼女は、儀式をしている。
それが、縫緋まといという妖怪の『戦い方』。
◇『薫』から『沙羅』へ◇
かつて、彼女は『火』だった。
燃え上がるような言葉。
焦がすような視線。
触れれば痛い、でも離れれば寒い。
それが、沙羅だった。
薫は、反発していた。
水と火。
冷静と激情。
理解し合えないと、決めつけていた。
でも今、まといとして彼女を見つめると—— その『熱』は、ただの罪じゃなかった。
それは、誰かを守ろうとした意志。
それは、誰かを見捨てたくなかった痛み。
「反発する理由なんて、なかったのよね」
彼女の舌が沙羅の輪郭をなぞる。
それは、罰ではない。
それは、理解の所作。
「あなたは、ただ熱かっただけ。私は、ただ冷たかっただけ。それだけのことだったのに」
今、沙羅は沈んでいく。
罪を食まれ、意志を薄められ、命を細くされながら。
でも、まといは思う。
「起きたら、仲良くできるかもしれない」
それは、希望ではない。
それは、赦しでもない。
それは、ただの可能性。
「あなたが沈んで、私が食んで、それでもまだ、あなたの熱が残っていたら——そのときは、少しだけ近づいてみてもいいかしら」
彼女は微笑む。
その微笑は、薫だった頃のものに似ている。
でも、そこにあるのは、反発ではなく、受容。
「火と水は混ざらない。でも、霧にはなれる。だから、もしあなたが目を覚ましたら—— そのときは、霧の中で、少しだけ話してみたい」
霧は、境界を曖昧にする。
敵と味方、罪と赦し、人と妖怪——そのすべてを、少しだけ近づける。
人の時はできなかったこと。
人の時にこそ、試すべきだったこと。
——でも、私は見なかった。
——見ようとしなかった。
人でなくなった今、それができる。
皮肉だとは思うが、できないままよりはずっといい。
『妖怪』になって、『人間』がわかる。
哀しいけれど、喜ばしい。
評価いただけると続編を書く意欲に直結します




