第46話 傘はまた開く ~差し掛ける問い~
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目を開ける感覚はなかった。
でも、彼女は『目を開けている』とわかった。
そこには光も闇もなく、ただ、『彼』の気配だけがあった。
彼は何も言わない。
でも、彼の手が、彼の想いが、彼女の輪郭をなぞっていく。
それは、形を与える行為。
それは、意味を与える行為。
「・・・私、もう終わったはずだったのに」
その声は、誰にも届かない。
でも、『彼』には届いている気がした。
彼女は、問い続ける。
なぜ私なの?
なぜあなたは、私を呼び戻したの?
これは、償い?
それとも、罰?
彼女の中に、かつての赤い雨が流れる。
傘の窓に映った断片が、今は彼の瞳に宿っている。
「・・・あなたの未来に、私は必要なの?」
その問いに、答えはない。
でも、彼の手が止まらない限り、彼女は『形』になっていく。
それは復讐の道具かもしれない。
それは問いかける妖怪かもしれない。
それは、ただの記憶の残響かもしれない。
でも、彼女の心は、静かにこう呟いていた。
「・・・なら、せめて、私の目で見せて。あなたが選んだ未来を」
目覚めは、音のない水面のようだった。
揺れもなく、波もなく、ただ、意識が浮かび上がっていく。
彼女は、自分の名前を思い出せなかった。
でも、誰かがそれを呼んだ気がした。
遠く、遠く、赤い雨の向こうから。
身体はない。
でも、輪郭はある。
それは、『彼』が与えた『形』。
それは、問いを宿す器。
「・・・私は、誰?」
その問いは、風に溶けていく。
でも、風は答えを持っていなかった。
彼女の目が開く。
それは、傘の窓のような視界。
断片が、流れ込んでくる。
——誰かが逃げている。
——誰かが見捨てている。
——誰かが、見て見ぬふりをしている。
その断片は、かつての自分が見たもの。
でも今は、誰かに問いかけるための記憶。
彼女は、妖怪として目覚めた。
名前はない。
でも、彼女の存在は、問いそのものだった。
「あなたは、誰を見捨てたの?」「あなたは、何を見なかったの?」「あなたは、傘を差し出したことがある?」
その問いは、声ではない。
それは、雨の中に漂う気配。
それは、傘の窓に映る影。
そして、彼女は歩き出す。
誰かの未来に、問いを投げかけるために。
誰かの罪に、静かに触れるために。
地面に足をつけた瞬間、彼女は風の音を聞いた。
それは、かつての校庭のざわめきではなかった。
それは、呼び戻された者たちの息遣いだった。
彼女の周囲には、同じように『戻ってきた』者たちがいた。
ある者は、制服のまま、瞳に光を宿して立っていた。
ある者は、傘の骨だけを握りしめ、顔も声も失っていた。
ある者は、笑っていた。
ある者は、泣いていた。
そして、ある者は、ただ『在る』だけだった。
その沈黙が、かつての彼女の逃避に似ている気がした。
彼女は、彼らを見渡す。
その目は、傘の窓のように静かだった。
「・・・あなたは、戻りたかったの?」
誰も答えない。
でも、風が揺れる。
「あなたは、誰かに呼ばれたの?」
一人が、かすかに頷いた。
でも、その頷きに意味があるかはわからなかった。
「あなたは、今、何になったの?」
その問いには、誰も答えられなかった。
人格を持つ者も、『モノ』と化した者——それは、問いを失い、記憶だけが残った存在——も、同じように沈黙していた。
彼女は、自分にも問いかける。
「・・・私は、問いを持っている。でも、それは誰のため? 『彼』のため? 私自身のため? それとも、見捨てた者たちのため?」
その問いは、答えを求めていない。
それは、存在の証明だった。
彼女は歩き出す。
傘は持っていない。
でも、彼女の周囲には、赤い雨が触れない。
それは、問いが結界になっているから。
それは、彼女が『妖怪』であるから。
そして、彼女は仲間たちに向けて、最後にこう呟いた。
「・・・もし、あなたが『モノ』になったのなら。私が、あなたの問いを代わりに持つ」
その言葉に、風が静かに応えた。
そして、赤い雨が再び降り始めた。
傘の窓はもうない。
でも、彼女の目は、未来を映す力を宿していた。
それは断片ではなく、連なった時間の流れだった。
彼女は見た。
赤い雨の中、傘を差して立つ少女たち。
その瞳には、かつての自分と同じ不安と希望が宿っていた。
でも、彼女はその前に立っていた。
妖怪として。
問いを持つ者として。
そして、敵として。
彼女の手が動く。
問いが刃となり、言葉が呪となる。
それは、答えを求めるのではなく、沈黙を裂くための力だった。
少女たちは逃げる。
叫ぶ。
そして、傷つく。
彼女は、その未来を見て、静かに目を閉じた。
「・・・私が、壊すの?」
「私が、かつての私を、傷つけるの?」
その問いは、誰にも届かない。
でも、彼女の中で、深く響いた。
彼女は知っている。
その未来は、避けられないかもしれない。
『彼』の願い。
仲間たちの痛み。
『モノ』になった者たちの沈黙。
それらすべてが、彼女をその未来へと押し出している。
でも、彼女は、もう一つの問いを持っていた。
「・・・もし、私が問いを持ち続けるなら。その未来に、意味を与えられる?」
彼女は、戦うかもしれない。
傷つけるかもしれない。
でも、問いを持っている限り、ただの加害者にはならない。
それは、贖罪ではない。
それは、正義でもない。
それは——記憶の継承。
彼女は、未来を見て、歩き出す。
その足取りは重く、でも確かだった。
「・・・なら、私は問う。あなたは、誰を守りたいの?」
その問いが、未来の中で誰かに届くことを願って。
赤い雨は、静かに降り続けていた。
彼女は、問いを持って歩き続ける。
誰かの記憶を背負い、誰かの未来を見つめながら。
彼女の姿は、霧の中に溶けていく。
でも、傘の窓に映った問いは、まだ消えていない。
「あなたは、誰を見捨てたの?」
「あなたは、何を見なかったの?」
「あなたは、誰かの痛みに、目を向けたことがある?」
その問いは、次の誰かに届く。
まだ名前も知らない、別の誰か。
彼もまた、赤い雨の中に立っている。
そして、運命に流される音が、静かに始まる。
かつての名前は忘れたけれど。
新しい名前とともに、再び立つ私がいる。
雨の日には、涙を受ける雨傘を。
晴れの日には笑い声を拒絶する日傘を。
気持ちが折れた日には折れていても開く折り畳み傘を。
陽気な朝には洋傘を。
和みの昼には和傘を。
複雑な一日には蝙蝠傘を。
私はいつでも差しましょう。
この『差傘ひより』が。
読了・評価。ありがとうございます。




