第102話 風雷の沈黙 ~えいゆうたち~ 前編
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──風は、止まっていた。
いつもなら、彼女の髪を揺らすはずの空気が、あの日だけはぴたりと動きを止めていた。
葉隠霞は、屋上の手すりに両手をかけ、遠くの会議室から漏れ聞こえる声に耳を澄ませていた。
「彼がいれば、間違いなくできる」
「アイツの能力は、このためにある」
ガラス越しに届くその声は、はっきりと彼の名を指していた。
霞にはわかっていた。 彼らが何をしようとしているのか。
そして、彼がその計画の中心に据えられていることも。
胸の奥が、熱くなった。
息が詰まり、喉がきしむ。
「やめろ」と言いたかった。
「そんなことは許されない」と叫びたかった。
でも、声は出なかった。
口を開いても、ただ空気が漏れるだけだった。
霞は、ただ見ていた。
彼の背中が、廊下の向こうに消えていくのを。
仲間たちの目が、彼を『仲間』ではなく『道具』として見ているのを。
そして、自分の胸の奥に芽生えた、あの黒い感情を。
『これが成功すれば、私はもっと上に行ける』
その考えが、頭の中で何度も繰り返された。
耳元で誰かが囁いているようだった。
その声は、風よりも強く、彼女の良心を押し流していった。
止めなかった。
止められなかった。
その瞬間、霞は自分の中にあった“風”を見捨てた。
彼がいなくなったあと、風は戻ってきた。
でもそれは、頬を撫でるような優しい風ではなかった。
髪を乱し、肌を刺すような、冷たく乾いた風だった。
その風の中で、霞は小さく呟いた。
「・・・あたしが、見殺しにしたんだ」
──歓声が、耳に刺さる。
「やったぞ!」
「これで道が開ける!」
仲間たちの声が、屋上のドアから漏れてくる。
その声は、まるで爆竹のように弾けて、霞の耳に突き刺さった。
霞は、その輪の外にいた。
屋上の隅で、紙コップを両手で包み込むように持っていた。
中には、コンビニで買った安い炭酸飲料。
甘いはずなのに、喉を通るたびに舌の奥に苦味が残った。
眉間にしわが寄る。
笑おうとしても、口元が引きつるだけだった。
「これでよかったんだ。これで、もっと上へ行けるんだ」
そう自分に言い聞かせる。
何度も、何度も。
霞の視線は、誰にも向いていなかった。
ただ、夜空の隅を見つめていた。
そこに、彼の姿が浮かんでいるような気がして。
でも、風は何も運んでこなかった。
雷も、まだ沈黙していた。
仲間たちは、未来を語っていた。
「こんな田舎から、もっと都会へ。いや、世界だって目指せるさ」
「あたしたちならやれる」
その言葉が耳に入るたび、霞の胸の奥で、何かが軋んだ。
彼女は、紙コップを口元に運びながら、心の中で呟いた。
「・・・あたしは、風を裏切った」
でも、口に出すことはなかった。
この場では、風も雷も、心の揺れも、すべて隠しておかなければならなかった。
紙コップの中で、炭酸の泡が弾ける。
その音が、誰かのすすり泣く声のように聞こえた。
霞は、眉を寄せたまま、その音に耳を澄ませていた。
──夜の風は、静かだった。
胸の奥に残るざらつきは、まだ消えていない。
祝杯の泡の苦味も、喉に残っている。
でも──それでも、霞は前を向いた。
「・・・あたしが選んだんだ」
誰に言うわけでもない。
ただ、夜空に向かって、そして自分自身に向かって。
「だったら、背負って進むしかない」
風を裏切ったなら、風に償うしかない。
雷を呼んだなら、その雷で道を切り開くしかない。
霞は、髪をかき上げた。
赤と金に染めたメッシュが、月明かりに照らされてきらめいた。
その色は、過去の過ちの証。
でも同時に、彼女が選んだ力の象徴でもあった。
「彼の分まで、あたしが進む」
「この手で、風を正す」
「この足で、雷を導く」
「この心で、乙女を貫く」
それは、誰にも聞かせない決意の言葉。
自分自身への、静かな誓いだった。
風が、そっと吹いた。
今度は、背中を押すように優しかった。
霞は、目を閉じてその風を受けた。
そして、静かに歩き出した。
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