第52話 しらゆきの内面 ~湖氷~
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静かに、温度を持たせない言葉を吐く。
それが私の『在り方』。
感情を持たなければ、苦しみは来ない。
そう、私は知っている。
だから、私の心の中の湖は、平らに凍りついている。
風も波もない。
ただ、白く、どこまでも白く。
音のない世界。
誰にも触れられない、私だけの静寂。
そこは、平穏で、心休まる場所。
誰かを想って胸が痛むことも、誰かに裏切られて涙を流すこともない。
——でも。
ときどき、氷の下で『何か』が動く。
遠い記憶の泡が、ゆらりと浮かぶ。
春の陽射し。
教室のざわめき。
名前を呼ばれたときの、あの胸のざわめき。
私はそれを見ない。
見てしまえば、氷が割れる。
私の静寂が、崩れてしまう。
だから、今日も私は、静かに、温度を持たせない言葉を吐く。
それが、私の『平穏』だから。
この子は、みどりは、お構いなしに話しかけてくる。
まるで、私がまだ『人間』であるかのように。
まるで、私がまだ『生きている』かのように。
その声に、攻撃性はない。
柔らかく、あたたかく、まるで春の風のように、私の氷点下の世界を撫でていく。
やめて。
その声で、私の湖を掻きまわさないで。
静かに凍っていた水面に、波紋が広がってしまう。
私の中の『何か』が、目を覚ましてしまう。
忘れたはずの痛みが、埋めたはずの記憶が、凍らせたはずの感情が、氷の下で蠢いている。
それでも私は、微笑まない。
怒らない。
ただ、静かに、丁寧に応える。
「・・・校章、ですか。考えてみます」
それが、私の最後の防壁。
言葉に温度を持たせないことで、私は私を保っている。
でも、みどりの視線が、私の中の『春』を見つけようとしている。
お願い。
見ないで。
私は、もう雪になったのだから。
「うん。お願いね!」
うれしそうな笑顔。
あなたの声は、私の世界に似合わない。
あたたかくて、やわらかくて、まるで春の風みたい。
私は、冬。
凍てついた世界の中で、何も感じずに、ただ在るだけの存在。
なのに、あなたは。
その声で、私の氷を揺らす。
その視線で、私の輪郭をなぞる。
やめて。
私は、もう人間じゃない。
あなたのような光に、触れてはいけない。
でも、なぜだろう。
あなたの言葉が、私の中の静寂を、少しだけ乱す。
それが、怖い。
「どんなのがいいかなー?」
カルマ――マスターの背中を追いかけながら、みどりが楽しげにつぶやく。
その声が、また私の世界に入り込んでくる。
・・・どうして、そんな風に思えるの?
どうして、そんなに軽やかに、未来を語れるの?
理解できない。
わからない。
わかりたくない。
でも、湖面が揺れた。
私の中の、白く凍った世界に、波紋が広がる。
気づいてしまった。
この静寂は、嵐の果てにしか生まれないということに。
私は、心を凍らせた。
吹雪のような怒りで、氷雨のような悲しみで、すべてを凍てつかせて、ようやく手に入れた『平穏』。
それは、穏やかさの裏返し。
静けさは、嵐の証だった。
みどりの声が、風になる。
その風が、私の氷を撫でる。
やさしく、でも確かに、私の『嵐の記憶』を呼び起こす。
・・・やめて。
もう、あの嵐には戻りたくない。
でも、もしこの氷が割れたら。
その下にあるのは、まだ凍りきっていない、私の『本当』なのかもしれない。
「私は『雪女』、冷たく凍る存在。あまり、気安くしないで」
それは、私の最後の防壁。
これ以上、踏み込まれたくなかった。
悲しませるかもしれない。
でも、それを気にしないのが『氷の心』。
私は大丈夫。
そう、思っていた。
なのに——
「ムリだよ」
みどりの声が、空気を変えた。
さっきまでの柔らかさが、すっと引いていく。
その瞳が、私の『氷』を見透かしていた。
「あなたは本当の寒さを知らない。それを知っているのは・・・たぶん昨日までのカルマだけ。他の誰も、彼には追いつけない」
その言葉が、私の中の湖に突き刺さる。
本当の寒さを知らない?
私が?
あれほど凍えたのに?
あれほど凍らせたのに?
「氷ってさ。一瞬で凍るとギザギザじゃない。何度も凍るのと溶けるのとを繰り返して、風で均されないと平にはならないよね? カルマが瞬間冷却された絶対零度の氷なら、しらゆきちゃんのは解けながら凍り、磨かれては解けて、また凍る。滑らかな氷だと思うよ?」
「・・・滑らかな、氷・・・?」
「そう。透き通ってて、丸くて、平ら。寂しいけど美しい。そんな氷」
みどりの言葉が、私の中に落ちていく。
それは、冷たいのに、あたたかい。
まるで、春の雪解け水のように。
私の『氷』は、自分を守るための仮面だった。
カルマは、凍らせたまま生きていた。
私は、凍らせて『終わらせた』。
それは、同じようでいて、まったく違う。
みどりの言葉が、私の氷にひびを入れる。
それは、優しさではない。
でも、確かに私を見てくれている目だった。
私は、まだ『本当の寒さ』を知らない。
だから、まだ——溶けることができるのかもしれない。
瞬間冷却された氷は、鋭く、脆い。
カルマは、そうだった。
誰も触れられない、絶対零度の孤独。
でも私は——何度も溶けて、凍って、風に吹かれて、削られて、それでも、また凍って。
それを、滑らかだと言った。
傷だらけの私を、美しいと言った。
・・・そんな見方があるなんて――。
私は雪。
私は氷。
そう言い聞かせてきた。
それが、私の『在り方』だった。
でも、もしかしたら私は——まだ、水になれるのかもしれない。
「しらゆきちゃんはさ、『雪女』。凍らせるのであって、凍る必要はないんじゃない?」
みどりの言葉が、湖面に落ちる石のように響いた。
静かだったはずの世界に、波紋が広がる。
凍りたいと思ってる間は、凍れない。
その『思う』という温度が、私の中にまだある。
湖の表面は凍っても、大部分は水のまま。
私の『凍りたい』という願いが、私を凍らせないでいる。
「本当に凍っちゃったら、何も動かないもんね」
その言葉が、私の中の『揺れ』を肯定する。
私は、揺れている。
だから、凍っていない。
表面は白くても、水面下では違う。
「私は・・・凍っていない――?」
その言葉が、口からこぼれた瞬間、私の中の氷が、ほんの少しだけ溶けた気がした。
それは、痛みでも、喜びでもない。
ただ、確かな変化だった。
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